創世記28:10-22 『ヤコブの夢』 2008/10/05 松田健太郎牧師
創世記28:10~22
28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、
28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、
28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」
以前僕が働いていた会社で、社員がコンピューター上のデータをいじって営業成績をごまかしていたという不祥事がありました。
彼が会社を解雇されるばかりでなく、その支社の責任者まで首になってしまいました。
そして、その会社の本部で働いていた僕を含めた数人が、そこにあいた穴を埋める形でその支社に配属されたんです。
その後、解雇された彼らがどうなったかは誰も知りません。
人は誰でも間違いを犯します。
しかしそこに支払わなければならないツケは、時として取り返しがつかないほど大きいものだったりするものです。
先週の話で、兄のエサウは長子の権利を煮物と引き換えに売ってしまいました。
彼はそれによって長子の権利を失っただけでなく、自分自身を神様から遠ざける事にもなってしまったのでした。
しかし、長子の権利を奪ったヤコブの方も、そのままでは済まされませんでした。
聖書にはこの様に書かれています。
ガラテヤ 6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
長子の権利を手に入れるという事は、神様の計画の中にすでに入っていた事ではありましたが、エサウと父イサクを騙したという事の罪を、彼は刈り取らなければならなかったのです。
今日はそのヤコブの話を、一緒に追って行きましょう。
① ヤコブの失意
2度にわたって双子の兄エサウを騙し、長子の権利も、長子が受ける父イサクからの祝福も、ヤコブは手に入れたはずでした。
自分の手に入れたかったものを全て手にいれ、これからもう、約束された幸せな一生を送っていけばいいんだ、それが彼の人生計画だったのではないかと思います。
しかし、現実はそのようにはなりませんでした。
兄エサウは、ヤコブが長子としての権利と祝福を騙し取った事に怒り、殺意を抱き始めたのです。
母リベカは、自分の生まれ故郷に避難するようにとヤコブに勧めました。
ヤコブは兄の怒りの手から逃れるため、母の言葉に従って家族の元を離れるしかなかったのです。
ヤコブは失意のどん底にある状態にありました。
あれだけ苦労して手に入れたはずの長子の権利や祝福も、家族から離れてしまったら、何の意味もありません。
自分が手にするはずの土地は遠く離れた所にあり、財産も手元になく、自分を長子として扱ってくれる家族さえいないのですから。
全てを手に入れようとしたヤコブは、全てを投げ出して逃げ出し、結局はすべてを失う結果になったのです。
肩をがっくり落としながらも、彼は止まることなく黙々と進んでいきました。
その時ヤコブの脳裏にあったのはどんな事だったでしょうか?
こんな目に合わせやがってというエサウへの恨みがあったでしょうか。
あんな事、するんじゃなかったという後悔がよぎったのでしょうか。
あるいは命を狙っているだろうエサウへの恐れから、ただひたすら前に進んだのかもしれません。
人里離れ、故郷のベェル・シェバから88キロも離れた荒野まで、彼は一気に歩き続けたのです。
そして彼は、とうとうそこで足を止め、野宿する事にしました。
見渡す限り見えるのは岩や小さな茂みばかり、いや彼が足を止めた頃には、もう真っ暗で何も見ることはできなかったかもしれません。
皆さんは人工物が回りにない大自然の中で、ひとりだけで野宿をしたことがありますか?
アメリカを自転車で単身横断した友人に、話を聞いたことがあります。
初めはもう、とにかく恐いのだそうです。
月明かりがあればまだ多少は明るいのですが、新月の時はもう真っ暗になってしまう。
テントも何もなく寝袋だけだったので、周りを覆ってくれるものもない。
彼はとにかく自分のものを手の届く所に集めて、しがみつきながら、明かりもつけっ放しで寝たそうです。
野の人であったエサウと違い、ヤコブにとってこれが初めての野宿だったでしょう。
その言い知れぬ不安の中、兄エサウへの恐れや、自分の失敗への悔しさ、色々な想いが交錯してなかなか寝付く事はできなかったはずです。
その様な中で、ヤコブはこの時初めて、神様に求めたのです。
祖父アブラハムが信仰し、父イサクが信仰してきた神様。
それまで何度も話には聞き、何とは知らず、自分もその祝福を願って止まなかった神様ヤァウェという存在。
ほとんどの人にとって、神様との出会いと言うものは何事もないときには起こりません。
家族を失った時や、大きな病気になった時、自分の人生がひっくり返るような出来事が起こるような緊急事態を通して、私達は神様との出会いを経験します。
それは、私達が極限状態に置かれた時に、初めて神様を求めるからですね。
ヤコブが初めて神様と出会ったのも、人生の中の極限的な状況の中で起こりました。
② アブラハム、イサク、そしてヤコブの神
野宿をしたその夜、ヤコブは夢を見ます。
28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
私たちの中には、潜在的に神様を求め、そこに近づこうとする想いがあるようです。
だから私たちは色々な方法で神様に近づこうとします。
修行を通して、敬虔な宗教行為によって、あるいはもっと反逆的に、科学力や技術力によって髪に届こうとし、自分の運命をコントロールする事によって神になろうとします。
そのすべての象徴的な出来事は、かつて人類が築いたバベルの搭という存在でした。
ヤコブが夢の中で見たのは、それとは反対のものでした。
彼がまず夢の中で見たのは、天から地に伸びる階段です。
「神様の側から、今わたしに手を差し伸べてくださっている。」
ヤコブにはそう感じられたかもしれません。
そしてヤコブは、神様ご自身が傍らに立っておられるのを見たのです。
主は、彼に仰せられました。
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。(創世記28:13)
これと同じ約束を、私達はこれまで何度も耳にしてきましたね。
それは、アブラハムにされた約束とまったく同じ約束だったのです。
祖父アブラハムが聞き、彼の人生をまったく変えてしまうことになった神様ご自身の約束。
ひょっとしたら父イサクでさえ直接には聞いたことがなかったかもしれない主の約束と祝福、それをヤコブは夢の中で耳にしたのです。
その時、おじいちゃんのアブラハムが信じていた神様、お父さんイサクが信じていた神様は、今やヤコブの神様ともなりました。
その時、ヤコブは自分がこれまで本当に求めていたものが何かを知ったでしょう。
名前だけの長子の権利ではなく、父親からの形だけの祝福ではなく、世界の創造主神様からの直接の約束と祝福、これこそヤコブが焦がれ、希望をもって追い続けたものでした。
そしてそれは、人から受けるのではなく、神様から直接与えられなければならなかった。
自分の知恵や策略という人間的な手段で手に入れようとすることは、自ら塔を建て上げて神様に届こうとする事。
そして自分自身が神となろうとする罪に他ならなかったのです。
自分の行動によって神様を動かし、祝福を手に入れることはできません。
自分の努力によって神様に届こうとするなら、やがて崩れ落ちて全てを失ってしまう。
それでは、神とは決して届く事のできない、果てしなく遠い存在なのだろうか?
そうではありません。
私たちが神様を目指すのではなく、神様の方が私たちのところまで降りてきてくださるのです。
ヤコブはその事を自ら体験し、このようにつぶやきました。
「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」(創世記28:16)
主が、ここにおられます。
知識としてではなく、誰かに聞かされたこととしてではなく、主が共におられる事を、皆さんは個人的な体験として知っているでしょうか?
③ 主がともにおられる
イエス様がメシヤとしての人生を歩み、福音を述べ伝え始めると、人々はどよめき、大きな驚きをもってイエス様を見るようになりました。
それはイエス様が見せた数々の奇蹟だけではありません。
「あの学者はこの様に言った。」と人の話ばかり取り上げている律法学者とは違い、イエス様は神様ご自身としての権威がある者のように教えられたからです。(マルコ1:22)
まるで神様ご自身がそこにおられるような話し方。
人々は、イエス様のその御言葉から神様の臨在を感じた事でしょう。
神様の権威を持って教えられたイエス様は、愛に満ち溢れたお方でもあります。
人々はイエス様を通して、神様が私たちをどのように愛されているかということも知る事ができました。
私たちは今でも、神様が私たちの元に降りてきて、私たちと共にいてくださるという体験を、私達はイエス様を通して経験することができるのです。
そのイエス様が弟子達にこのようにお話されています。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:51)
ヤコブが夢の中で見た、天から地に向けられた御使いが行き来するはしごとは、イエス様を表している型です。
イエス様こそ、神様と私たちを結ぶ架け橋であり、天と地を結ぶはしごです。
そう思って見た時、まるで実体があるかのようにヤコブのかたわらに立った神様とは、そうか実はイエス様のことだったんだろうなぁということが判ってくるわけです。
私達が孤独な時、失敗をして苦しんでいる時、自分自身を見失ってしまった時、希望を見出せず絶望感に苛まれている時、例えもう神様には見捨てられてしまったと感じているその時でも、イエス様は私たちと共にいてくださいます。
それは実体のないイメージではなく、人間の都合の良いように作り上げられた偶像ではなく、私達がぬくもりと、優しさと、愛を感じる事ができるお方です。
自分自身で築き上げたものはやがて崩れてしまうでしょう。
しかし私達は、人の力なのではなく、このお方に希望をもって歩んでいこうではありませんか。
イエス様はこの様に言っています。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20後半)と。