創世記38:12-18 『勘違いしていませんか?』 2006/10/22 松田健太郎牧師

創世記 38:12~18
38:12 かなり日がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。その喪が明けたとき、ユダは、羊の群れの毛を切るために、その友人でアドラム人のヒラといっしょに、ティムナへ上って行った。
38:13 そのとき、タマルに、「ご覧。あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにティムナに上って来ていますよ。」と告げる者があった。
38:14 それでタマルは、やもめの服を脱ぎ、ベールをかぶり、着替えをして、ティムナへの道にあるエナイムの入口にすわっていた。それはシェラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知っていたからである。
38:15 ユダは、彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたので遊女だと思い、
38:16 道ばたの彼女のところに行き、「さあ、あなたのところにはいろう。」と言った。彼はその女が自分の嫁だとは知らなかったからである。彼女は、「私のところにおはいりになれば、何を私に下さいますか。」と言った。
38:17 彼が、「群れの中から子やぎを送ろう。」と言うと、彼女は、「それを送ってくださるまで、何かおしるしを下されば。」と言った。
38:18 それで彼が、「しるしとして何をあげようか。」と言うと、「あなたの印形とひもと、あなたが手にしている杖。」と答えた。そこで彼はそれを与えて、彼女のところにはいった。こうしてタマルは彼によってみごもった。

あるひとりの婦人が、カトリックの神父のところに行ってざんげをしました。
「神父さん、私は毎日鏡を見るのですが、鏡を見るたびに、『何とわたしは美しいのでしょう。』と思ってしまうのです。私の中にはこのような傲慢の罪があることを、今日は告白いたします。」
彼女がそのようにざんげすると、普段は開かないざんげ室の小窓が開き、神父はしばらくじっと彼女の姿を見ました。
やがて小窓が閉じ、神父はこの様に言いました。
「愛する姉妹、安心しなさい。それはあなたの傲慢の罪ではありません。
・・・それは、あなたの勘違いです。 」

この女性は自分のことを勘違いしていたのですが、私たちも自分のことを勘違いしてしまうものですね。
私達はみんな罪にまみれてしまっているのに、自分は罪びとではないと勘違いしてしまいます。
また、神様は私たちのことをいつでも愛しているのに、自分は神様からは愛されていないと勘違いしてしまうものです。
これは自分の事を勘違いしているというだけではなく、神様に対する勘違いもあるだろうと思うのです。

勘違いされやすいのは神様ご自身のことだけではありません。
私達は神様の御言葉である聖書のことを、かなり勘違いしてしまう傾向があります。
考えてみれば、罪人である私達が聖い神様の御言葉をそのままスムーズに理解できるはずがないということもできるのですが、私達が聖書を勘違いして捉え、理解していたのでは、神様の事がよく判らないのも当然のことです。

多くの人は、聖書には、“聖”なる“書”というくらいだから、私たちの心を聖くするような素晴らしいことが書かれているに違いないと思っています。
あるいは、聖書を道徳の書物だと考えている方も多いようです。
しかし、今日の箇所を読んで心が清くされるような清々しさを覚えたり、道徳的な手本としたいと思うような方はおそらくひとりもいないだろうと思います。

この様なおぞましい出来事までも聖書の中にたくさん記されていることにはもちろん大きな意味があるわけですから、今日はその事を一緒に考えていきましょう。

① ユダとタマル
さて、まずは実際にどの様な事が起こっていたのかを見なければなりません
先週のメッセージは、ヤコブの11番目の息子ヨセフが、他の兄弟たちから妬まれ、憎まれ、とうとう奴隷として売られてしまったというお話でした。
ところがここで、主人公であるはずのヨセフがどうなったのかを差し置いて、四男であるユダの話へと焦点が移されてしまいます。
どうしてここでユダの事が語られているのかということも疑問に思われる所なのですが、それについては今日ここではお話しません。
それはおいおい明らかにされていくことですから楽しみにお待ちいただきたいと思います。

さて、皆さんはユダがどういう人物だったか覚えていますか?
あのヨセフを、奴隷としてイシュマエル人たちに売ってしまった張本人が、このユダです。

ユダはヨセフを売ってしまった後、家族の下を離れてカナン人たちの中で生活することになります。
彼は、ヨセフにしてしまった仕打ちを後悔したのかもしれません。
その張本人が自分であるだけに、悲しむお父さんの顔を見ていたくなかったのでしょうね。
そのようなわけで、ユダはカナン人の妻をめとり、3人の子供たちを生んだわけです。

長男であるエルが大人になると、ユダはエルのため、カナン人の女タマルをその妻として迎えました。
ところがエルは罪深い男で、(前後関係から、恐らく性病ではないかと思われますが)その罪のために彼は子供が生まれる間もなく死んでしまいます。

彼らの間では、長男が後継ぎを産まずに死んでしまったら弟がその妻をめとって子供をつくり、兄のための後継ぎとするという慣習がありました。
なので今度は、ユダの次男オナンがタマルをめとることになります。

しかしオナンは、子供が生まれたら財産は自分のものにならない事を知っていたので、タマルとの間に子供が生まれないようにしたのです。
やがてこのオナンもまた、彼自身の罪のために死んでしまいます。
ユダには三人目の息子もいたのですが、彼はふたりの息子達が死んでしまったのはタマルのせいに違いないと思い、三人目の息子が大人になるまで待っていなさいと言って実家に帰し、そのまま放ったらかしにしてしまいました。

このままでは自分には子供を生むチャンスがないと知ったタマルは遊女のふりをしてユダに近づきます。
そしてタマルは、義理の父ユダを通して自分の子孫を得ていく事になるわけです。
事情を把握していないユダは、タマルが息子以外の男との間に子供を孕んだ事に怒り、タマルを殺そうとします。
しかし、タマルが誰が自分を孕ませたのかという印を見せると、ユダはそれが自分である事を知り、「この女は私より正しい。」と言って認めざるを得なくなってしまう。
これが今日の箇所の概要です。
実に、このおぞましい話のために1章が、まるまる割かれて語られているのです。

創世記を書いたのはモーセであると言われているわけですが、モーセはどうしてこの様な事を聖書に記したんだと思いますか?
彼らの歴史を記す事だけが目的なのだとしたら、民族としての尊厳が失われるような出来事をこれほど事細かに残す必要はないでしょう。
この箇所から、ユダやタマルを手本にして学べることがあるわけでもありません。
「この様な事をしてはいけません。」ということは言えるかもしれませんが、そんな事は、わざわざ言われなくても誰にでもわかることです。
その謎を解くために、私達はもう少し具体的に、今の状況を把握する必要があるのかもしれません。

② 神の民の危機
では、これまでの状況を振り返って見ましょう。
100年以上前に神様は、曽祖父アブラハムに彼の子孫を星の数ほどに増やし、彼の子孫を通して全人類を祝福するという約束をしました。
その契約はアブラハムからイサクへ、そしてヤコブへと受け渡されてきました。
父ヤコブはイスラエルとなり、これからその子供たちは選ばれた民族として増え広がっていく事になるはずなのです。

しかし、ここに横たわっている現実はどうでしょうか?
長男ルベンは父親のめかけと寝るという不道徳を犯し、父親の尊厳も踏みにじりました。
シメオンやレビは近隣の村を襲って残虐性を発揮している。
ユダはカナン人と交わってしまってその純粋性をすでに失ってしまった。
そのうえ、ヤコブのお気に入りだったヨセフは奴隷として売られてしまっている。
これから神様の働き人として召されているはずの彼らは、すでに堕落してメチャクチャになっていたのです。
神様の約束と計画はどうなってしまうのか、イスラエルという民族はすでにこの時、危機的状態に置かれていたわけです。

しかし私達は、イスラエルがここで途切れ、神様の計画が失敗に終わる事がなかったということを知っています。
イスラエルはこの後もしっかり続き、神様の計画通りにちゃんとメシアは生まれ、イスラエルは国としては滅亡の憂き目を見ながらも、世界中にチリヂリバラバラになっても民族としては存在し続け、4000年経った今再び国家を建設するに至って存在している。

では、その不可能と思われる危機的状態を乗り越え、不可能を可能としたのは何だったと思いますか?
これからの話をまだ知らない方も想像して見てください。
彼らは、この後神の民としての役割を思い出し、自覚して、自分たちの力で不道徳を正し、失われたヨセフを探したし、危機を脱したのだと思いますか?

どの様に成されたかという事に関してはこれから見ていくとして、結論だけ先に言いましょう。
イスラエルの子供たちの足りない部分を補い、助け、選ばれた民としての器を存続させ続けたのは、彼ら自身の力ではありません。
神様の力です。

実は、聖書の話はその繰り返しなのです。
旧約聖書は神の民イスラエルの歴史です。
その歴史は、神の民としての役割を与えられながら、罪ゆえにその役割を果たす事ができないイスラエルの人々の現実と、それを補い完成させる神様の介入の繰り返し。
聖書の中にひとりでも自分だけの力で与えられている役割を果たす事ができた人がいたでしょうか。

どうでしょう、見つけることができますか?
・・・ただひとりいますね。
それが、イエス・キリストその人であり、それ以外には誰もいないのです。

③恵みと贖いの原則
だから私達は、この様に言う事ができます。
・ イスラエルの民は、素晴らしい人々だから神様に選ばれたのではない。
・ それと同時に、イスラエルの民は、神様に選ばれたから素晴らしい人々になったのでもない。
ということです。
彼らは神様に特別な役割を与えられて、選ばれた民です。
しかし罪人のひとりでしかない彼らは穴だらけで、神様の働きをするためには不十分なのです。
その穴を埋めるのは、彼らの努力や根性ではありません。
彼らの罪の穴を埋めるのは、神様の恵みと贖いです。
これが、聖書の最初から最後まで通して統一されている。、神様の原則なのです。

イエス様を通して救いを受けた私たちにとっても、この原則は同じですね。
・ 私達は、素晴らしい人間だからクリスチャンになったのではない。
・ それと同時に、クリスチャンになったから素晴らしい人間になるのでもないのです。
私達は誰一人として、救われるに足る素晴らしさを持っていません。
しかしその不足を、神様が補って下さるのです。

「まぁ、そうかもしれないけど、でも私はユダやタマルよりはましだな。」
と思っている方がいるかもしれません。
そういう方には神様がこうおっしゃるでしょう。
「愛する兄弟姉妹、それは、あなたの勘違いです。」

私たちの中にある罪は、彼らとさほど変わりありません。
もし私達が誰かより少しはましな行いができているとしたら、それはその人たちよりましな環境で育てられたというだけの事です。
親のしつけがよかったのかもしれないし、思いやりが育まれるような環境にいたのかもしれない。いずれにしても、それは私たちの手柄ではありません。
それもまた、神様によって与えられた恵みと贖いなのです。

初めにも言いましたが、私達は色々な勘違いをしていますね?
私はクリスチャンになったのだから、素晴らしい人間でなければならない。
いつも笑顔を絶やさず、どんな人にも親切にしなければならない。
私はクリスチャンなんだから、こんなことで心配してはいけない。
このような思いがプレッシャーになって、クリスチャンである事が辛くなってきてしまいます。
そして、私はクリスチャンなのにどうしてこんな辛い目に合うのだろうと心配したり、「この人はクリスチャンのくせにこんなことをしている。」と裁いたりするのです。

素晴らしい人格をもち、いつも笑顔を絶やさず、どんな人にも親切にできるクリスチャンになれるなら、もちろんそれは素晴らしい事です。
隣人を愛し、敵のために祈るのがイエス様の教えでもあります。
しかし、それは私たちの内側から出てくるものではありません。
神様からの恵みと、贖いです。

イスラエルの子供たちが罪ゆえに悲劇的な状況を作り上げていく中で、神様がどのように恵みを与え、贖い、勝利へと導いていくのかを、私達はこれからの学びで見ていくことになります。
これからの展開を楽しみにお待ちください。

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