創世記39:1-20 『夢がつなぐヨハネの人生』 2006/11/05 松田健太郎牧師
創世記 39:1~20
39:1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。39:3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。39:4 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。
39:5 主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。
39:6 彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。
39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。
39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。
39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
39:13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、39:14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。
39:15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」
39:16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。
39:17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。
39:18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」
39:19 主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。
39:20 ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。
皆さんの夢は何ですか?
本当は時間があったらここでひとりひとり聞いていきたいくらいなのですが、夢を語り始めたらひとりで1時間くらいは止まらないという方もいらっしゃるでしょうから、皆さんのお話いただくことは、今は差し控えておきましょう。
しかし夢と言うと、一般的には若者や子供たちが抱くものというイメージがあるようです。
「昔はこんな夢を見ていたけど、あの頃は若かったなぁ。」と言うような思い出話として聞かされることが多いんですね。
皆さんの中にももしかしたら、「夢を語れと言われても、私はもう年をとっていて、夢なんて今さらありません。」なんて思われている方がいらっしゃるかもしれませんね。
でも、聖書はその様には言っていません。
旧約聖書の時代、ヨエルという預言者はこの様に神様の約束を語っています。
「わたしの霊をすべての者に注ぐ時。あなた方の息子や娘は預言し、年よりは夢を見、若者は幻を見る。」(ヨエル2:28)
これは、人々がクリスチャンとなり、神様の霊である聖霊が注がれた時にどうなるのかということが語られているのですが、“年よりは夢を見”と書かれています。
普通は若者が夢を見、社会の重鎮である年を経た方々がビジョンを語っていくものだと思いますが、私たちに神様の霊が注がれた時、その常識をひっくり返すような事が起こります。
若者がビジョンを指し示し、お年よりが将来のことに希望を持ち、夢をみるようになっていくのです。
ジョン・ウェスレーは「例え明日世界が滅びると知っていても、私は明日のために木を植え続ける。」と言い、死ぬ間際まで情熱的に福音を伝え、人々を救いへと導いていきました。
マザー・テレサもまた死ぬ直前まで、世界の貧困と戦っていくための夢を語り続けました。
これが救いを受け、永遠の命という希望の中に生きている人たちの人生です。
私たちも、同じ聖霊を注がれたものなのですから、死ぬ間際まで夢を語り続けられるような生き方をしたいものですね。
今日はヨセフの物語を通して、この“夢”というものに焦点を当てて一緒に考えてきましょう。
① ヨセフの夢
日本語の辞書で“夢”という項目を見ると、「はかないもの。叶わないもの。」という説明が出てきます。
皆さんの夢に対するイメージもそうでしょうか?
しかし西洋圏の、例えばWebsterという有名な英語の辞書を開いてみると、夢とは「叶えるもの」であると書かれているそうです。
この様な西洋人の価値観は、実は聖書からの影響を受けたものだと思うのです。
神様から与えられた“夢”、“計画”、“ビジョン”は、必ず現実のものと成るというのが聖書に書かれていることだからです。
しかし、そうは言っても夢を現実のものにすることは簡単なことではありません。
夢さえあれば全てがうまくいって、とんとん拍子に事が進むと言うわけでもなく、むしろ夢によって人生が厳しいものになってしまうことだってあるのです。
もう3週間ほど経っているのでおさらいをしておきましょう。
ヨセフはある日、兄弟達の畑の束が、自分の束に向かっておじぎをしているという夢を見ました。
また、太陽と月と、兄弟の数である11の星々が、ヨセフを伏し拝んでいる夢を見ました。
これはもちろん“将来の夢”ではなく寝ている間に見た夢なのですが、ヨセフはそれこそ神様に与えられた夢である事を信じます。
そして、その夢を兄弟達の間で話したときから、ヨセフの人生は大きく変わり始めたわけです。
ヨセフは兄弟の中でも特別に父親から愛されていたので、いつも兄弟のやっかみや嫉妬を受けていました。
その上、兄弟達が自分を伏し拝むというような夢を語ってしまったので、それはヨセフへの憎しみへと変わっていきます。
やがてチャンスが到来すると、兄弟達はヨセフを穴の中に突き落とし、通りかかった外国人の商人達に奴隷として売りつけてしまいました。
夢を持ってしまったばかりに、ヨセフは奴隷になってしまったのです。
辞書を鵜呑みにするならば、ここで終わってしまうのが日本人的な夢のイメージなのかもしれませんね。
「夢ばっかり見て、夢を語ってばかりいてはいけない。」
「現実は厳しいのだ。」
「夢ははかなくて、叶えられない。」
「夢は手に届かないからこそ美しい。」
確かに、人の夢ははかなく、厳しい現実に耐えられずについえてしまうものなのかもしれません。
しかし、神様に立てられた夢は決して消えてしまう事がない。
だからヨセフの物語はここで終わってしまうことなく、話はこの後も続いていくのです。
② 囚人達の夢
ヨセフが奴隷として仕える事になったのはポティファルというエジプトのパロの廷臣の家でした。
ヨセフは奴隷になってしまったことに絶望してしまうのではなく、希望を持ってこのポティファルの元で仕えていきます。
ヨセフが余りに忠実で、素晴らしい働きをするしもべだったので、ポティファルはやがて、ヨセフに家の管理を全てまかせ、全財産を預けるようになります。
さて、それなりの成功をおさめ、神様の守りを感じていたのも束の間、またも状況は逆転します。
ポティファルの妻がヨセフに言い寄り、自分のものに出来ないと知ると、ヨセフを策略にかけて牢獄に入れてしまったのです。
奴隷から囚人へ。
どう考えても絶望的な事態となっていく中、ヨセフは牢獄でふたりの人物と出会いました。
二人の人物とはエジプト王(パロ)の献酌官(いわゆる毒見役)と、調理官です。
その時ふたりは奇妙な夢を見たのですが、その夢の意味がわからず、不安に苛まれてイライラしていました。
さあ、ここでまたもやチャンスがやってくるわけです。
ヨセフには、神様から与えられた夢を解き明かす力があったからです。
ヨセフはそのふたりに声をかけます。
「夢を解き明かす事は神様がなさることではありませんか。それを私に話してください。」
そこで最初に献酌官が自分の夢について話すと、ヨセフはそれが良い夢である事を解き明かしました。
必ず疑いが晴れて三日後に出獄できるから、その時には自分の事を覚えていて、無実の罪で投獄されている自分のために釈明して欲しいとヨセフは頼んだのです。
献酌官の夢が自分の夢と似たものであり、いい夢である事を知った調理官は、自分も良いことを言ってもらえるに違いないと思ってヨセフに夢を打ち明けました。
しかし、その夢の解き明かしは献酌官のものとは逆で、三日後にパロに裁かれて処刑されるというものだったのです。
かくして三日後、献酌官はヨセフの解き明かしの通りに釈放され、調理官は処刑されてしまいました。
献酌官は恩赦にあずかって出獄したのですが、ヨセフに掛けられていた嫌疑は晴らされることがありませんでした。
献酌官はヨセフのために釈明するどころか、ヨセフのことなどすっかり忘れてしまったのです。
いつまで待てばいいのか分からない状態で待たされることほど辛いことはありません。
明日こそ迎えが来るに違いない、そう思って待っても、待っても、迎えは来ない。
絶望的とも言える時間が過ぎていったことでしょう。
しかし、いつまで経っても迎えは来ず、ヨセフが釈放されることはありませんでした。
ヨセフの事を忘れ、二年間もほったらかしにするなんて、献酌官もひどい奴だと思われるかもしれません。
しかし、これはこれでよかったのです。
これもすべて神様の計画のうちなのです。
献酌官がもし、出獄した時にヨセフの釈明をしていたら、ヨセフは釈放されてそれなりに良い暮らしができたかもしれませんが、おそらくそれはそれだけの事で終わっていたでしょう。
あるいはヨセフが牢獄で何年も過ごす事によって、内面的に変えられる必要があったのです。
私たちも今、誰かに忘れ去れている事があるかもしれません。
それは、それでいいのです。
私達は神様のタイムテーブルを信じて、神様の時を待つなら、その先にはヨセフがこれから目にしていくような素晴らしい計画が用意されているでしょう。
③ パロの夢
さて、献酌官が釈放されてから2年経ったある日、今度はエジプトの王(パロ)が夢を見ました。
第一の夢は、肉付きのいい七頭の雌牛とやせ細った七頭の雌牛が出てきました。
第二の夢は、よく肥えた七つの穂と、しなびた七つの穂の夢でした。
朝目覚めると、パロは心が騒ぐのでエジプト中の占い師や呪い師を集め、夢を解き明かそうとします。
しかし、誰もその夢の意味を説明できる者はいませんでした。
その時、献酌官は思い出したのです。
かつて牢獄で、自分の夢を解き明かした人がいたことを。
献酌官はパロのもとに行き、かつて自分の夢を解き明かした男がいたことを話し、ヨセフのことを申し出たのでした。
パロは早速ヨセフを釈放し、彼の元に呼び寄せました。
「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」(15節)
それに対してヨセフはこの様に答えます。
「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせて下さるのです。」(16節)
「私ではなく、神です。」と私達がいつも言えるなら、神様はどれほど私たちを用いてくださることができるでしょうか?
ヨセフは神様の導きによって、パロの夢を解き明かします。
そしてこのふたつの夢は一つの出来事を指しており、第一にこれから7年の大豊作がくること、そしてその後全てを覆して食い尽くしてしまうように7年の大飢饉が起こるとパロに述べました。
そして知恵のあるものを見つけて監督させ、7年の豊作の間に、後に来る7年の飢饉に対する備えをするように警告します。
それだけの大役を任せることができるほど知恵のある者は、エジプト中を探しても一人しかいません。
パロは躊躇なくヨセフを任命し、大臣としてエジプトの飢饉の対策をさせたのでした。
ヨセフは羊飼いから奴隷に、奴隷から囚人に、囚人から大臣へと変わっていきました。
そして7年の大飢饉が訪れた時、ヨセフの兄弟達がエジプトの大臣となったヨセフの下に跪き、食料を分けてもらうように頼んだのです。
このようにして、ヨセフが17歳の時に神様から与えられた夢は、現実のものとなりました。それまでに、なんと22年の時が流れていたのです。
そこにいたるまでの道のりは険しく、あの夢が実現するとはとても思えないような場面もあったことでしょう。
私たちは事がうまく運んでいるときには神様の御心に適っていると感じ、神様の愛を感じたり、神様を身近に感じたりするのですが、何もかもがうまくいかなかったり、状況がずっと変わらない状態に置かれると途端に不安になってしまったり、神様は自分のことなどどうでもいいのではないかと思えたりしてしまいます。
そんな時にはヨセフのことを思い出してください。
後から彼の人生を振り返る私達には、いつでも神様の御手が彼の上に置かれていた事は明らかです。
しかし彼自身は、どれだけの苦難を経験し、神様の積極的な働きを感じられない時間をどれだけ長く過ごしたことでしょうか。
全てを益として下さる神様を信じて、忍耐を持って待つことによって彼はその苦難を乗り越えてきました。
どんなに辛い経験も、無駄だと感じられる時間も、神様は知っていて下さるのです。
今、皆さんの人生の中にも苦難があるはずです。
あるいは待たなければならない状況、忍耐を必要とする状況があるはずです。
神様の愛や導きを感じられない時かもしれない。
そんな時、私たちに必要なのは、神様を信じて忍耐する信仰です。
パウロがローマ人への手紙の中で言っていますね。
「イエス様の十字架によって救われた私達は神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
それだけではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すからだと知っているからです。そして、この希望は、決して失望に終わる事がないのだ。」と。
また、イザヤという預言者はこの様に言っています。
「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:30~31)
私達はそこに確信を持つ事ができます。
それは、私たちもまた聖書の中に歩んでいるからです。
聖書の出来事は、大昔にどこか遠くで起こったような、何か私達には関係のない出来事なのではありません。
私達はもうずっと前に完結した聖書を、現代人として学んでいるのでもありません。
私たちもまた、この聖書の人々と同じタイム・テーブルの上を歩いている所なのです。
アブラハムにされた約束を待ち望んで、イスラエルの人々は2000年の時を待たなければなりませんでした。
しかし、約束は果たされ、救い主としてイエス様が人類に与えられたのです。
いま私達は、イエス様がもう一度来て下さる時を待ち望んでいます。
アダムとエバから始まった人類の歴史は、イエス様の再臨の時までは完結しません。
私たちもまた、聖書の中を歩み続けているのです。
聖書の中で、神様が約束を破られた事が一度でもあったでしょうか。
ならば私たちも神様を信頼し、信じようではありませんか。
私たちの希望は決して失望には終わらないという信仰、それこそが私たちの力なのですから。