創世記3:1-6 『生きる事が辛いわけ』 2008/04/13 松田健太郎牧師
創世記 3:1~6
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
この世界は、神様によって創られました。
それなのに、この世界にはたくさんの問題があるのはなぜなのでしょう。
私たちという存在もまた、神様によって創造されました。
それなのに、たくさんの問題を起こしてしまうのはなぜなのでしょう。
私たちは、神様に愛されています。
それなのに、私たちがいつも満たされない思いでいるのはなぜなのでしょう。
そのすべての原因が、私たちの中にある“罪”というものにあります。
私たちの中には罪があります。
ある人は、他の人より罪が多かったり、少なかったりするように見えるかもしれません。
時には、ある人の心は清くて神様に近いのではないのかと思えるかもしれません。
それに比べて私の心はなんて汚いんだろう。
しかし、きれいで澄んでいるように見えるその人の心も、やはり罪で汚れているのです。
泥水を入れたコップを置いておくと、泥の部分が沈んで、表面的にはきれいな水のように見えます。
でも、その水をかき回してみれば、コップの水はあっという間に泥水に逆戻りです。
平常心でいる時の私たちも、自分自身には罪なんてないと感じるかもしれません。
しかし、少しかき乱されれば、たちまちいろいろな問題が浮上してきて、自分の心の醜さを思わされるのではないでしょうか。
今日は、罪についてもう一度、一緒に考えてみたいと思います。
① 誘惑
初め世界を創造したとき、神様はエデンの園という理想の地を創りになりました。
そこにはすべてのものがあって、食べるものに不自由することもなく、完璧な環境だったんです。
そこではじめの人アダムは、地上を管理するという素晴らしい働きが与えられ、ふさわしい助けでが与えられ、いつでも神様と話すことができました。
神様はアダムにこの様に言っていました。
創世記 2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
アダムとエバには、たくさんの自由が与えられていました。
しかし、善悪の知識の木からだけは食べてはならない。
言ってみれば、それだけが彼らに課せられた戒めでした。
ところがアダムとエバは、蛇の姿をとった悪魔(サタン)によって誘惑され、禁じられていた善悪の知識の木から取って食べてしまった。
それが最初の罪となって、私たちの中にも同じ罪があるのだという訳です。
聖書のこの話で、本当に多くの方々がこの様に言うのを聞きます。
「食べるな、と言われれば食べたくなるのが人間だ。神様はそれを知っているはずなんだから、食べてはならない善悪の知識の木を手の届くところに置いた神がイジワルなんだ。」
皆さんはどのように思われるでしょうか?
考えてみてください。
人には、本当にたくさんのものが与えられていました。
神様はアダムに、「この園にあるどの木からでもとって食べてよい。」と言っていたんです。
エデンの園は最初に作られた天国みたいなものでしたから、本当にたくさんの木々があり、アダムとイブがその木の実を食べ飽きる事さえなかったでしょう。
彼らがその木の実を食べる必要など、全くなかったのです。
もうひとつの事として、神様はアダムに、「食べたら死ぬ。」と言っていたという事です。
人には確かに好奇心があります。
禁じられれば好奇心が湧くというのは、わからなくはありません。
でも、食べたら死ぬというのに、食べてみたいと普通思うでしょうか?
例えば、皆さんは農薬を原液のままなめて見たいと思いますか?
しょう油を一本丸呑みしたらどうなるんだろうという好奇心に駆られるでしょうか?
普通、そうは思わないのではないでしょうか。
神様のイジワルによって、アダムとエバが堕落したのではありません。
アダムとエバが神様への信頼を失い、背いた結果が罪なのです。
そしてその影には、サタンの罠と誘惑があったのです。
蛇の姿をとったサタンはこの様に言いました。
3:1b「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
神様がそんな事を言っていない事くらい、エバにだってわかります。
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
さて、実はここに、サタンのたくみな罠はすでに働いているのです。
みなさん、エバの言った言葉と、神様が言った言葉が微妙に違う事にお気づきになったでしょうか。
これこそサタンの罠の巧みさがあります。
サタンは、私達の中にあるわずかな間違いに付け入り、私達の心に囁きかけます。
サタンは巧みに私たちに語りかけ、神様の言葉を歪め、神様が私たちを愛していないように感じさせ、神様はイジワルで自分勝手な存在であるように感じさせ、時には存在すらしていないように感じさせて、私たちを神様から引き離します。
そしてサタンは、とどめの言葉をかけませした。
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
これを食べたら死ぬと言ったのは、私たちが神様のようになったら困るからなのだ。
しかし私たちが神様のようになれば、どうして神を恐れる必要があるだろうか・・・?
確かに誘惑したのはサタンでした。
でもエバは、ただ間違って、禁じられていたものを食べたというだけの事ではないのです。
この時エバの中にあったのは、神様への明確な反逆でした。
自分自身が神となり、神様と同じ立場に立とうとした。
そしてあわよくば、自分が神に取って代わろうとしたのではないでしょうか?
そうしてエバは、禁断の木の実を取って食べ、夫のアダムにも与えたのです。
② 罪の正体
私達は罪と聞くと、人を殺したり、傷つけたり、嘘をついたり、人に迷惑を掛ける事であると考えてしまいがちです。
もちろんそれも罪に違いありませんが、実は表面的には現れてこない罪の方が深刻です。
人に迷惑をかけなければいいというものではないのです。
罪の本質は神様への反逆である、と聖書は教えています。
人類が神様に背き、裏切り、自分自身が神になろうとする事が、全ての罪を生み出しています。
自分の人生は自分のもの。
自分の事は自分が決める。
自分の力で自分は生きている
自分が、自分で、自分の喜びのために、この人生を生きている。
すべてが自分、自分、自分。
この様な自己中心が私達すべての中にあって、神様との関係を引き裂いているのです。
罪がアダムとエバに入ったとき、『それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』と言われていたように、神様の前にふたりは死んだ者となりました。
アダムとエバの肉体は、その後も長く生きましたが、ふたりの霊は死んでしまったため、正しい形での神様との関係を持つ事ができなくなってしまったのです。
私達の人生に、苦しみがたくさんあるのは、私達の中にある罪によって、神様との関係が壊れてしまっているからですね。
だから私達は、生まれたままの状態では、なかなか神様の存在を知る事ができない。見る事ができない。感じる事ができない。
私達人間という存在は、神様の前に汚れたものとなり、全ての価値を失いました。
人のために与えられていた祝福は呪いとなり、世界がそのバランスを崩してしまいました。
祝福である出産には痛みが伴い、男女の愛にはゆがみが生じ、仕事をする事は苦しみが伴うようになりました。
人は死を経験しなければならなくなり、自然界も大変な厳しさを伴うようになってしまったのです。
人間がもたらした罪の汚れは世界をも汚し、世界は楽園ではなくなりました。
神様が創造した素晴らしい世界は、苦しみと、悲しみと、痛みがあふれる不完全な世界となってしまいました。
そしてこの世界の管理を任せれたはずの私達は、今でもこの世界を汚し続けているのです。
どうして赦されるでしょうか?
世界をムチャクチャにしてしまった私達が、どうして救われる事なんてあるでしょうか?
しかし、人が罪を犯したその瞬間から、神様は救いの計画を始められたのです。
③ 救いの計画
今現在、私達が生きるこの世界は、サタンの支配下にあります。
多くの人たちは罪の奴隷となり、歪められた世界の中で生きているのです。
サタンは、私たちに間違った神様のイメージをささやき続けています。
だから、多くの方々が勘違いをしていますね。
“聖書の神は、信じた者しか救わない心の狭い神だ。”
“神は我々を創造しておきながら、我々が従わないのにかんしゃくを起こし、我々を滅ぼそうとしている。気紛れで、自分勝手な創造主だ。”
そんな意見を、僕も何度も聞いてきました。
サタンの囁きに惑わされてはなりません。
そうじゃないのです。
神様が人類に裁きを下し、自分に従わない者を滅ぼそうとしているのではありません。
罪によって神様から離れ、サタンの奴隷となってしまった私たち人類を、サタンの支配の元で苦しみ、絶望する私たちを、神様は奪い返し、救い出そうとしているのです。
聖書のメッセージの中心は、ここにあります。
創世記 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
2000年前、神様はそのひとり子を地上に送りました。
サタンはそのかかとに噛み付き、イエス様は十字架の上で殺されました。
しかし、その十字架によって神様の救済は完成し、サタンの頭はふみ砕かれたのです。
創世記の時代から始まった人類の罪の歴史は、今もまだ続いています。
サタンの力は、まだ猛威を振るっているように見えるかもしれません。
でも、私達が恐れる必要はありません。
主は、すでに勝利を手にしているからです。
ハリウッド映画はハッピーエンドで終わるので、安心して観る事ができますね。
少年ジャンプというマンガ雑誌がありますが、ここに連載されているマンガも、最後は正義の勝利で終わります。
私たちに与えられているのも同じ、神様の勝利による、ハッピーエンドです。
その結末に向けて、私達は今の人生を生きているのです。
さあ、やがて来る終わりの時までに、私達が選択しなければならない事があります。
それは、私達が今この世界を支配しているサタンに従い、サタンと共に滅びの道を選ぶのか。
それとも、神様が差し伸べる救いの手に自らの手を伸ばし、主と共に歩む道を選ぶのかです。
皆さんが選ぶ道に、勝利が共にありますように。