創世記41:1-16 『エジプトの大臣になる』 2008/11/16 松田健太郎牧師

創世記41:1~16
41:1 それから二年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。
41:2 ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいた。
41:3 するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立った。
41:4 そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。そのとき、パロは目がさめた。
41:5 それから、彼はまた眠って、再び夢を見た。見ると、肥えた良い七つの穂が、一本の茎に出て来た。
41:6 すると、すぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来た。
41:7 そして、しなびた穂が、あの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまった。そのとき、パロは目がさめた。それは夢だった。
41:8 朝になって、パロは心が騒ぐので、人をやってエジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。パロは彼らに夢のことを話したが、それをパロに解き明かすことのできる者はいなかった。
41:9 そのとき、献酌官長がパロに告げて言った。「私はきょう、私のあやまちを申し上げなければなりません。
41:10 かつて、パロがしもべらを怒って、私と調理官長とを侍従長の家に拘留なさいました。
41:11 そのとき、私と彼は同じ夜に夢を見ましたが、その夢はおのおの意味のある夢でした。
41:12 そこには、私たちといっしょに、侍従長のしもべでヘブル人の若者がいました。それで彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かし、それぞれの夢にしたがって、解き明かしてくれました。
41:13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、パロは私をもとの地位に戻され、彼を木につるされました。」
41:14 そこで、パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。
41:15 パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」
41:16 ヨセフはパロに答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

先進国の現代人は、待つという事が苦手な傾向が高いのだそうです。
ファースト・フードとか、カップ・ヌードルを始めとするインスタント・フードの存在がそれを裏付けていますね。
また、日本の鉄道の正確さは世界一だそうですが、それも待つことを嫌う傾向が出ているように思います。
そして、エレベーターの“閉”のボタンも、現代人の忍耐力のなさを物語っています。
“閉”ボタンを押さなくても、エレベーターの扉は自動的に閉まるようになってますよね。
だいたい、自分が乗ってから閉まるまでの時間は、せいぜい数十秒くらいのものです。
その時間さえも待てない。
しかも、たまに“閉”ボタンを連打している人もいますよね。
何回押しても閉まるスピードは変わらないのですが・・・。

私達は、神様に祈る時にも、その傾向が顕著に出てしまいます。
祈りの結果は、すぐに見たいと思ってしまうのが私たちではないでしょうか?
確かに私達は、祈っている最中に祈りの結果を目にする事もありますが、多くの場合は、待たされる事の方が多いのではないでしょうか。
神様は、私達の忍耐力を鍛える事を通して、私達の信仰を成長させようとしているのです。

このような聖書の箇所があります。

ヤコブ 1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ローマ 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5:5 この希望は失望に終わることがありません。

信仰というものは、私達がまだ目にしていないものを信じて待つ心なのですから、信仰と忍耐との間には、実は深い関係があるのです。
皆さんの中には、まだ聞かれていない祈りがあるでしょうか?
その祈りの結果がまだはっきりと出ていないのならば、あきらめてしまうのではなく、主に期待して希望をもって待ち望んでください。
私たちの中の忍耐が十分に練られた時、その希望が祝福へと変わっていくのかもしれないのですから。

① 夢を見たパロ
さて、先週までのお話を思い出していただきたいと思います。
ヨセフは監獄で献酌官の夢を解き明かし、パロにとりなしてくれるように頼んでいました。
しかし、解き明かしの通りに釈放された献酌官は、ヨセフの事などすっかり忘れてしまったんですね。
それから2年もの間、ヨセフは日の目を見ることもなく監獄で過ごし続けました。
しかしその間にも、彼の忍耐は練られ続け、信仰は強められていったのです。

そんな出来事があってから2年経ったある日、パロがふたつの夢を見ました。
その夢は今まで見たどんな夢とも違い、ひどく不気味で、パロの心を騒がせました。
それは、こんな夢だったんです。

41:1b 見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。
41:2 ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいた。
41:3 するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立った。
41:4 そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。そのとき、パロは目がさめた。
41:5 それから、彼はまた眠って、再び夢を見た。見ると、肥えた良い七つの穂が、一本の茎に出て来た。
41:6 すると、すぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来た。
41:7 そして、しなびた穂が、あの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまった。そのとき、パロは目がさめた。それは夢だった。

「たかが夢、と言えば夢。
しかし、これはただの夢ではない。
この夢は一体何なのだ。」

パロは国中の賢者、魔術師、占い師、あらゆる呪法者たちを呼んで、夢の意味を読み解かせようとしました。
しかし誰ひとりとして、そこから納得のいく読み解きをする者が誰もでてきません。
みんな、わからないか、口から出任せで、これだというものはひとつもないのです。
パロの中で、その夢に対する不安と、知りたいという思いばかりが強くなっていきました。

その時、あの献酌官がヨセフの事を思い出したのです。
「どうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう?
思えば2年前、私の夢の意味を見事に的中させた者が牢獄にいたではないか。
パロに執り成すようにと頼まれていたのに、今まですっかり忘れてしまっていたとは!」

41:9 そのとき、献酌官長(彼は今や献酌官長となっていました)がパロに告げて言った。「私はきょう、私のあやまちを申し上げなければなりません。
41:10 かつて、パロがしもべらを怒って、私と調理官長とを侍従長の家に拘留なさいました。
41:11 そのとき、私と彼は同じ夜に夢を見ましたが、その夢はおのおの意味のある夢でした。
41:12 そこには、私たちといっしょに、侍従長のしもべでヘブル人の若者がいました。それで彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かし、それぞれの夢にしたがって、解き明かしてくれました。
41:13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、パロは私をもとの地位に戻され、彼を木につるされました。」

神様の時が満ち、ヨセフの運命が動き出す瞬間でした。
献酌官がそれ以前に執り成しを申し出ても、パロは聴く耳を持たなかったかもしれません。
しかしこの時ばかりはパロも、興味深々でヨセフに会いたがりました。
こうしてパロは献酌官長の言葉を聞き、監獄にいるヨセフを呼び出す事になったのでした。

② 夢を解き明かすヨセフ
パロはヨセフを監獄から呼び出して、聞きました。

41:15 パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」

するとヨセフは、どう答えたか。
「私ではありません。神が知らせて下さるのです。」と答えたんです。
“自分が”ではなく、“神様が”それをして下さる。
すべての栄光は、私たちではなくて神様にある。

以前の彼とずいぶん違うと思いませんか?
かつて自分の見た夢を、聞かれてもいないのに兄弟達に伝えて回ったヨセフの面影はもうありません。
彼が経験した数々の試練によって、ヨセフは人格的に練られ、謙遜な人物へと変えられていったのです。

謙遜と言うと、相手の下手にでるというイメージがありますが、私達が神様の前に謙遜であるという事は自分を下手に見せるという事ではありません。
すべてをなしてくださるのは主であり、自分が主導権を持っているのではないという事実を認めるというそれだけの事です。
ヨセフは苦労を重ねていく中で、自分が中心だった価値観を砕かれ、神様に生かされている自分に気がつくことができたのです。

同じ試練を経験しても、そこから多くのことを学び取る者もいれば、どんどん卑屈になってしまう人もいます。
私達は主に与えられる試練の中で、多くのことを学び取るものとなっていきたいですね。

さて、神様がパロに見させた夢は、これから7年の間エジプトの上に大豊作があり、その後7年間の大飢饉に見舞われるという内容だとヨセフは答えました。
そして、知恵のあるリーダーを立てて、これからの7年の豊作の間に可能な限りの蓄えをさせて、その後の7年間の大飢饉に備えるべきだとパロに答えました。
ヨセフは夢を解き明かしただけでなく、それに備えて何をするべきかという事を、すべて的確に教え示したのです。

③ エジプトの大臣となる
ヨセフのこの答えほど、パロを納得させるものはありませんでした。
これこそ求めていた解き明かしであり、これが答えだという確信がありました。
そしてパロは、それが正しくて的確な答えであるというだけでなく、その背後に人知を超えた力が働いている事を認めざるをえませんでした。

そこでパロは、ひとつの大きな決断を下します。

創世記 41:38 そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
41:39 パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。
41:40 あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

これからの豊作の間に十分な蓄えをし、その後の飢饉に備えるための知恵と知識をもつ指導者は、彼以外には考えられませんでした。
それだけではなく、パロは長い間囚人であり奴隷だったヨセフに、パロに次ぐ位を与えたのです。
それは、パロがヨセフの上に神様の力が働くのを見たからに他なりません。
かつてヨセフがポティファルの目に留まって家を任されたように、今度はパロからの絶対の信頼を得る事ができたのでした。

こうしてヨセフは、羊飼いから奴隷に、奴隷から囚人に、囚人から大臣へと変わっていったのです。
ヨセフは自分自身がパロに解き明かし、助言したように、7年の豊作の間に食料を蓄えるための政策を始めます。
やがてエジプトは、量りきれないほどの穀物を貯めるほどになりました。
この働きがなければ、人々はこの後の大飢饉を乗り越える事ができなかった事でしょう。
この蓄えはエジプトの人々だけでなく、近隣に住むほかの国の人々をも救う事になりました。
そしてその中には、あのヨセフの兄弟達も含まれていたのです。
ヨセフの兄弟達は、エジプトの大臣が実はヨセフであるとは知らず、彼の元に跪く事になります。
それは、まさしく17歳の時、自分自身が夢を通して主に示されたその通りでした。

主の計画が実現するにいたる道のりはとても険しくて、その夢が現実のものになるとはとても思えないほどでした。
私達はヨセフの経験を通して、今の私達がどのような状況にあっても、主の御心は必ずなるという事を知る事ができるのです。

聖書の中でパウロが残しているこの言葉を思い出します。

ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

もしかしたら今、皆さんは逆境の状況にあるかもしれません。
苦難があり、忍耐を試される時にあるかもしれません。
しかし、それが神様の導きによって与えられた苦難なのだとしたら、私達がそこを通る意味があるのです。

私達は、神様のご計画に従って歩み続けるのであれば、例え今は苦難の中にあったとしても、神様は必ずすべてのことを働かせて益としてくださいます。
忍耐とは、ただあきらめて我慢する事ではありません。
主のご計画が必ずそこになり、素晴らしい祝福がその先にあると信じて待つことこそ忍耐なのです。
忍耐は私たちに品性をもたらし、練られた品性は私たちに希望を与えます。
どんな状況でも主を信じて従う時に生まれる希望は、決して絶望に変わることがありません。
それを信じて、希望の思いをもって主のときを待とうではありませんか。

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