創世記4:3-8 『心の値打ち』 2008/04/20 松田健太郎牧師
創世記 4:3~8
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
神様は、私たちを愛しています。
どれくらい愛しているかといえば、たったひとりしかいない息子を私たちと引き換えにしても惜しくないほどに。
それは2000年前に起こった出来事というだけでなく、今の私たちに対する愛でもあります。
そしてそれは、何億人もの人類のいのちとの引き換えというだけの事ではありません。
神様は、たとえ世界に私ひとりしかいなかったとしても、私のためにそのひとり子を犠牲にしてくださったでしょう。
私たちが、神様の愛の広さ、深さ、高さを理解すればするほどに、神様の私たちに対する愛の大きさを実感するのです。
私たちはどうでしょうか?
私たちは、神様を愛しているでしょうか?
私たちは神様を、どれくらい愛しているのでしょうか?
今日はアダムとエバの子供たち、有名なカインとアベルのお話から、ともに学んでいきましょう。
① ふたりの捧げもの
カインとアベルが、それぞれ捧げものをもって、主の前にいけにえを捧げました。
土を耕すものとなったカインは作物を捧げ、羊飼いとなったアベルは子羊を捧げました。
ところが、神様はアベルの捧げものだけに目を留め、カインの捧げものには目を留められませんでした。
アベルの捧げたものは評価されたけれど、カインの捧げものには評価をしなかったという事です。
皆さんは、自分がした事が評価されずに、他の人の方が認められたとき、どのように感じるでしょうか?
その人が評価された事を素直に喜べたら素晴らしいですね。
でも、時として私たちは、人の祝福を喜ぶ事ができず、苦々しい思いになってしまわないでしょうか。
あるいは、悔しいという感情が沸き立ってはこないでしょうか。
この時、カインの心には、怒りの感情が起こりました。
それは、アベルに対する嫉妬、神様に対する不公平だという思いもあったかもしれません。
それにしても、神様はどうしてアベルの捧げものだけを喜び、カインが捧げたものは評価しなかったのでしょうか。
神様は野菜よりも肉を好むという事でしょうか?
カインが捧げた作物の中には、ピーマンか何か、神様が嫌いな野菜が入っていたのでしょうか。
そうではないのです。
礼拝の初めに読んだ、今日の聖書箇所をもう一度思い出してみてください。
箴言 21:2 人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。
私たちが生きている社会は、ほとんどの事において結果だけが評価されてしまう社会です。
どれだけ怠けていても、テストでいい点を取れば評価されます。
仕事の中身がどうであろうと、営業成績がよければそれだけでいいとされます。
逆に、どれだけ一生懸命であろうと、結果がでなければ何も評価されなかったりします。
しかし、神様は表面的な事だけでなく、心の内側をご覧になる方です。
私たちが捧げる捧げものに目を留められるのではなく、捧げる私たちの心に目留め、私たちの思いを受け取って喜ばれるのです。
ですからこの時、カインが捧げた作物に問題があったのではありません。
捧げたカインの心の態度に問題があったのです。
とは言え、どんな思いをもって捧げたかという事は、捧げものそのものにも現れてくるものですね。
カインはただ、“地の作物から主へのささげ物を持って来た。”と書かれています。
これはささげ物をすれば内容はどうでもいい、という態度でされたささげ物でした。
一方でアベルは、一番ダメージが少ないとされる、羊の初子をささげました。
その中でも最良のものを選び、しれも自分自身で持ってきたと書かれています。
自分自身で持ってきたというのは、心を込めて捧げられたという事を意味しています。
私たちはどのような思いで神様に捧げているでしょうか?
私たちが捧げる賛美、礼拝、奉仕、献金は、本当に心のこもったものとなっているでしょうか。
それとも、人目ばかりを気にしたり、形だけのものとなってしまってはいないでしょうか。
私たちは、カインとアベルが捧げる捧げ物から、学ぶべき事があるのではないかと思うのです。
② 最初の殺人
さて、神様がカインのささげ物を受け取らなかったのは、ただ単にカインのささげ物は気に食わなかったという事ではありません。
ましてや、アベルは気にいったけれど、カインの事は嫌いになったのでもありません。
神様は、その捧げ物を受け取らない事を通して、カインに何かを悟ってもらいたかったはずです。
聖書には書いてありませんが、神様のこの様な声が聞こえてきそうです。
「どうして私があなたのささげ物を受け取らなかったか、考えてごらん。どうしてアベルのささげ物を受け取ったのかを理解すれば、次にどうしたら良いのかがわかるはずだよ。」
しかし、カインはまったく意に介しませんでした。
カインの心に湧き出てきたのは、アベルに対する嫉妬心、神様に対する不公平だという思い、カインは悔い改めるべきところで開き直り、心に怒りを燃やしたのです。
そんなカインを心配し、神様は警告の言葉を発しています。
創世記 4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
罪は、私たちの怒りの感情を苗床として、大きく成長していきます。
私たちも時として、何かに怒りを覚える事があるでしょう。
しかし私たちは、怒りに身を任せてはいけません。
私たちが怒りに任せて行動を起こすなら、罪はさらに大きな罪へと私たちを導いていくのです。
カインがもし、ここで神様の言葉に従い怒りを納め、自分の過ちを認めていたら、神様はカインにも大きな祝福を与えていたでしょう。
しかし、カインは怒りに我を忘れ、神様の警告を無視しました。
カインはアベルを野に誘い、襲い掛かり、ついにアベルを殺してしまったのです。
神様は、怒りそのものを禁じているのではありません。
神様やイエス様も怒りを見せた事もあるように、中には正当な怒りもあるでしょう。
また、私たちがどれだけ自分の中に怒りの感情そのものを否定しても、内側に溜まってやがて爆発してしまうかもしれません。
でも、たとえそれが正当な怒りであったとしても、感情に任せて制御を失ってしまうのではなく、その様なときにこそ神様を見上げ、冷静さを保って主に従っていきたいものです。
③ 主の愛は止まらない
さて、取り返しのつかない罪を犯したカインでしたが、それでも主は、その裁きをすぐには下しませんでした。
神様は、それでもカインが立ち返るのを、忍耐強く待っていたのです。
神様はカインに対して、悔い改めるチャンスをいま一度与えます。
4:9a 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。
カインとアベルの間に何が起こったか、神様が知らないはずはありません。
これは、神様がカインに与えた、全てを打ち明けるチャンスでした。
ペテロの手紙第一に、このような言葉が書かれています。
Iペテロ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
もしカインがここで、アベルを殺した事を認め、その事を心から悔い改めていれば、罪の報いは受けるにしても、神様はきっとその罪をお赦しになられたでしょう。
しかし、カインはまったく意に介さず、開き直って嘘をつきました。
4:9b カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
こうしてカインは、せっかく与えられた悔い改めの機会も逃し、その罪を決定的なものとしてしまったのです。
神様のため息が聞こえてくるようです。
カインには、神様からの厳しいさばきが下されました。
創世記 4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
みなさん、神様は忍耐強い方です。
私たちが自分の中にある罪を認め、神様に立ち返るのを忍耐強く待っていて下さいます。
しかし、やがて主が、裁きの決断を下さなければならない時が来るのです。
土地を耕して収穫を得る事を生業としていたカインにとって、土地に呪われるとは何という厳しい状況だった事でしょうか。
この時になって、カインは事の重大さに初めて気がつきます。
創世記 4:13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。
4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
カインは、悔い改めたわけではありません。
彼が訴えたのは、自分に下される裁きの大きさがあまりに大きいという事であって、それでもカインが自分の罪を言い表して悔い改めるという事ではありませんでした。
さすがの神様も呆れ果てて、カインを見捨てたと思いますか?
創世記 4:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
罪の中にあり、断固として悔い改めようとしない人々の上にも、神様の愛と憐みは注がれます。
神様は私たちの命が尽きる最後の瞬間まで、忍耐をもって待ち続けて下さっているのです。
しかし、私たちの命は永遠には続きません。
私たちの肉体はやがて滅び、神様の裁きの前に立たされる時がきます。
そしてそれは、明日かもしれないのです。
さらにもうひとつ、例え神様の愛と憐みが注がれているとは言え、悔い改めることなく罪の中に生きる人生は、罪の実を刈り取り続ける苦しい人生でもあります。
ひとりでも多くの方が、少しでも早く神様の元に立ち返ることができる事を、僕は心から望んでいます。
私たちが主イエスの十字架によって罪が赦されたという事を信じ、キリストに従う人生を選ぶなら、私たちはすぐにでも神様のもとに立ち返ることができるのです。
主にあって、皆さんが新しい人生を歩み始める事ができますように、心からお祈りしています。