創世記6:11-13, 7:7-10 『全き人として生きる』 2008-04-27 松田健太郎牧師

創世記 6:11~13、7:7~10
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

7:7 ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟にはいった。
7:8 きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、
7:9 神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところにはいって来た。
7:10 それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。

「赤信号、みんなで渡ればこわくない。」
僕が子供の頃、こんな言葉がはやった事がありました。
僕の記憶では、確かビート・タケシさんが言ったのではないかと思います。
非道徳的な標語ですが、日本人の特徴をよく言い表している言葉でもありますね。
赤信号で渡って車に轢かれるかもしれないという恐れも、みんなで一緒に渡っていれば恐さを感じないというのです。

日本人は、『恥』意識はあっても『罪』意識がほとんどない文化だと言われます。
これは日本だけのものではなく、儒教がよく広がった文化の中でよく見られる現象だそうです。
なぜ悪い事をしないかというと、それが『悪い事だから』しないというよりも、『それが他の人に知られたときに恥ずかしいから』だという事ですね。
それは、善悪が尺度となっているのではなく、自分の体面とかメンツの問題なのです。
だから私たちの文化では、それが悪い事でも『顔を立てる』ために黙っていたりします。
逆に、それが悪い事だと指摘して相手の『顔をつぶす』様な事をすれば、場合によっては「なに、カッコつけちゃってんの。」なんて事になって逆ギレされる事にもなります。
このように、日本人にはなかなか『罪』がわかりにくいのだと言うのです。

それだけではなく、私たちの中には、集団意識というものも深く関わっていますね。
「赤信号、みんなで渡ればこわくない。」と言っているくらいならまだかわいいのですが、「みんなが渡っているのに、なんであんたは渡らないんだ。」というような事になってくるわけです。
そのようなプレッシャーの中では、私たちには『恥』意識がありますから、逆らう事が難しいのです。
そして悪い事は心のどこかでわかっていながらも逆らいきれず、ついついみんなと一緒に赤信号を渡ってしまう。
今日は、そんなプレッシャーの中で戦ったノアについて、一緒にまなんでいきましょう。

① 主の裁きが下るとき
初め、神様がこの世界を創造されたとき、世界は美しく、愛にあふれ、素晴らしい世界でした。
しかし、アダムとエバを発端として罪が人類に入り、その罪はこの世界全体に影響を与え、苦しみと痛みが伴う世界になってしまいました。
その後も、罪と悪はどんどん広がり続け、地上では暴力と破壊が重ねられたのです。

先週も言ったことですが、神様は本当に忍耐強い方です。
悪に染まってしまった人間をすぐに裁き、滅ぼすという事はしませんでした。
神様は忍耐強く、人々が神様に立ち返るのを待ったのです。
しかし、残念な事ですが人類は決して悔い改めることなかった。
それどころか、悪い方へ悪い方へと変わり続けたのです。
聖書にはこの様に書かれています。
創世記 6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

“その心に計る事がみな、いつも悪い事だけに傾く”とはどんな恐ろしい状況だったでしょうか。
それを見た神様は、大変心を痛められたのです。
聖書には神様が“人を造った事を悔やんだ”と書かれています。
でもこれは、神様が人間を創造した事を後悔したり、造らなければよかったと思ったわけではありません。
私達がお葬式のときに、挨拶として「お悔やみ申し上げます。」というのと同じですね。
神様は心から残念に思い、本当に心を痛められたという事です。

神様は心を込めて世界を造り、人間という存在を心から愛していました。
その人類に裁きを下し、もう一度やりなおさなければならないという事は、神様にとってどれ程辛い決断だった事でしょう。
罪が入ってしまった人類は、神様から離れて、御言葉を無視し、自分勝手に生き始めると、それほどまでに歯止めなく恐ろしい方向へと進み続けるものなのです。

しかし、そこにひとりの人がいました。

創世記 6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
6:9b ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

ノアには罪がなく、完全無欠の素晴らしい善の人だったというのではありません。
ノアもまた、私たちと同じように弱さを持ち、失敗もし、原罪を内に秘めたひとりの人でした。
それでもノアが主の心にかなっていたと言われるのは、ノアが神とともに歩んだ人だったからです。
私たちには、弱さがあります。
しかしだからこそ、私たちはいつでも神様を見上げ、従い、共に歩む事が大切なのです。
私たちが神様から目をそらし、自分の道を歩むなら、私たちは途端に罪の影響と支配を受けて崩れてしまいます。
私たちもまた、全き人と呼ばれるほどに、いつでも神様と共に歩む人でありたいものですね。

② ただ神だけを見て、従う事
さてその様な状況の中、神様は全き人であったノアにその計画を明らかにしました。
第一に、神様がすべての肉なるものを滅ぼそうと計画された事。
第二に、救いのための計画があること。
そして第三に、救いのための手段とその詳細です。

アモス 3:7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。

神様はアブラハムに対しても、モーセに対しても、そしてもちろんイエス様に対しても、その計画を伝え、その中にそれぞれの役割を与えました。
神様が何かをなさる時、神様はそれを私たちに伝えます。
私達には、私達がその働きの中で役割を与えられているからですね。
大切なのは、その全てが神様の側から表され、与えられるものだと言う事です。

神様がノアに裁きの計画を打ち明けた時、ノアは「どうしよう。どうやって助かろう。」と言って助かる方法を見つけ出したのではありません。
救われるための方法も、その詳細にいたるまで神様がモーセに伝えたのです。

箱舟に乗らなかった人たちも、中には助かろうとして舟に乗り込んだり、高いところに逃げようとした人たちもいるかもしれません。
しかし、全地が覆われてしまうような大洪水の中で、間に合わせの方法によって逃げ延びる事はできないのです。

私達に与えられている救いの方法、手段もまた、神様から与えられたものだけです。
私達がどれだけ工夫して神様の元に行く方法を考えても、自己流の方法では、私達は決して神様の元に届く事はできません。
それが、聖書の中で繰り返し伝えられているひとつの真理なのです。

さて、ノアに示された救いの手段とは、大きな箱舟を建造するという事でした。
ノアは神様に従い、近くに海もない場所に突如、巨大な箱舟を建造し始めたのです。
「洪水が来る。神様の裁きの時が来る。」と言って突然大きな船を作り始めたノアたちは、まるで気が触れてしまったかのように、人々の目には映ったかもしれません。
人々に嘲笑われ、そんな非現実的な事があるわけがないといわれる中で、ひたすら神様の言葉を信じて、それに従って行く事は大変な事だったでしょう。
自分が『恥』をかかないという事だけを気にしていたとしたら、ノアはとてもそんな事に従い続ける事ができなかったはずです。
私達が神様に従う時、その様なプレッシャーを他の人々から受ける事もあるという事です。

私たちのクリスチャンとしての生活も、そうではないでしょうか?
他の人たちがどこかに出かけて楽しんでいる日曜日にこの様にして教会に来るということ。
クリスチャンと言うだけで、他の人たちからちょっとおかしな目で見られる事あるかもしれません。
時には、「そんな事を信じているなんて純粋なんですね。」なんて皮肉を言われたり、「それでもクリスチャンか」と言って責められる事もあります。
イエス様も、この様に言っています。

マタイ 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

私達は、周りに流されて真理から外れてはいけません。
周りの人たちが何を言おうと、正しい事は正しく、間違っている事は間違っているのです。
私たちにできるのは、ただ唯一正しい方である神様の言葉を信じ続け、主の道を歩き続けていくことなのではないでしょうか。

③ 福音の箱舟に乗って
最後にもうひとつのお話をしたいと思います。
みなさんは、ノアが神様から裁きの計画を聞いてから、洪水が起こるまでにどれくらいの時間が経ったと思われますか?
これは聖書の解釈によっては、120年という月日が経ったと読み取る事ができます。
本当に120年だったのかどうかは色々な捉え方もできるでしょうが、たった8人の男女で一万五千トン級のタンカーに匹敵する大きさの箱舟を建造しなければならなかったのですから、相当な時間を必要とした事でしょう。
そしてそんな大きさの舟ですから、隠す事もできません。
ノアが舟の建造を始めると、その噂はたちまち広がっていったのではないでしょうか。

ノアたちは、舟を建造する間、ただひたすら嘲笑に耐えながら、黙々と仕事を続けたのではありません。
少しでも人々を説得し、これから何が起ころうとしているのか、神様の言葉を彼らに延べ伝えたはずなのです。
当時その場所に洪水が起こるなどという事は、確かに起こりそうにない事だったのかもしれませんが、ノアの深刻で必死な様子を見ても、誰もそれを信じる事がなかった・・・。

ノア達だけが選ばれて、彼らだけが密かに救われたのではありません。
神様の計画は、おそらくその時代の全ての人々に伝わった事でしょう。
しかし、例え神の裁きが来るという情報を知っていたとしても、それを信じないで箱舟に乗らなければ、誰も救われる事はないのです。
もし人々がノアの言葉を信じ、神様の裁きを恐れて悔い改めていたら、ヨナ記の中でニネベという町に対する裁きを神様が思い直されたように、世界は滅ぼされる事がなかったかもしれません。
あるいは、ノアと一緒に箱舟を建造し、力を合わせて同じものをいくつも建造してそれに乗れば、その人たちは助かった事でしょう。
しかし、誰にもノアの言葉に耳を貸さず、神様の言葉を恐れる事もなかったのです。
イエス様もノアの時代の事に触れて、この様に話しています。

マタイ 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

ノアの時代、人々は救いを耳にしても、信仰をもってそれを受け止めようとはしなかった。
今の時代も同じです。
私たちにもやがて、神様によって裁かれる時が来ます。
罪人である私達は、神様の正しさの前に誰も無罪ではある事ができない。
しかし、イエス・キリストが十字架にかけられ、その死によって私達の罪が赦されたという福音を受け入れ、信じるなら、私達は救われるのです。
それは、まるで洪水の時、箱舟に乗りさえすれば救われたのと同じように、信じさえすれば誰もが救いに預かる事ができるのです。

福音の箱舟に、乗るか、乗らないか。
キリストを信じるか、信じないか。
今日ここに集まった皆さんが、すべて救いを受ける事ができますように、心から祈ります。
また、私たちの家族や友人達が、ひとりでも多くその箱舟に乗る事ができるように、共に祈りましょう。

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