創世記7:11-24 『信じて委ねよ』 2006/04/02 松田健太郎牧師

創世記 7:11~24
7:11 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。
7:12 そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
7:13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟にはいった。
7:14 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。
7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。
7:16 はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
7:17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。
7:18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。
7:19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。
7:20 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。
7:21 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。
7:22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。
7:23 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。
7:24 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。

今日はノアの話の2回目です。
神様と共に歩んだノアの生涯から、私達は多くのことを学ぶ事ができます。
今日は特に、信仰と救いということに関してノアから学びたいと思います。

① 信じることの大切さ
船は用途に合わせて色々な形をしています。
船には長さ、幅、高さがありますが、スピードを重視すると細長く、安定と居住性を考えると横幅を広く作らなければなりません。
造船技術が進歩していく中で、船による長距離の大量輸送を考えて作られたのが、タンカーです。
タンカーは、普通の船舶より輸送量を増やすことを目的として作られましたが、それと同時に載積量が最大の時にもっとも安定した状態であることを要求されました。
それまでの船舶の概念を打ち破るような条件下での開発が始まったのですが、研究の中で発見した最良のバランスを皆さんはご存知でしょうか?
長さ、幅、高さの順で言うと、およそ30:5:3の比率が、載積量を満載にした時にもっとも安定した状態となる船の比率だそうです。
ある程度の推進力が加わる事を考えると、弱冠この比率も変わってきますが、現在造船されている巨大石油タンカーは、この比率を基準に造船されています。
さて、ノアの箱舟はどのような比率で作られていたのでしょうか?

創世記 6:15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。

これがまた、きれいに30:5:3になるのです。
タンカーの発明者は、もしかしたらノアの箱舟を基準にしてこの比率を割り出したのかもしれません。
それにしても、近代になってこの比率が発見されるまで、箱舟がどうしてこのような比率で作られたのかを聖書を読む人たちは理解できなかったでしょう。
私達が聖書を読み進めて行く上で、今の私達にはわからないことがたくさんあります。
しかし、世界をお創りになった神様は、私達よりずっと多くのことを知っているのです。
聖書に書かれていることが科学的でないように見えたり、私達の常識からはかけ離れているように見えても、私達は神様を信用して、そこに書かれていることに耳を傾けなければなりません。

ノアという人の正しさは、神様への従順にありました。
雨が降って洪水が起こるなんて誰にも想像できなかったときに、ノアは神様の御言葉に従い、箱舟を造りました。

6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。

7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。

しなければならない事に足りないということもなく、余計な事をたしてしまう事もなく、ノアはすべて主が命じられたとおりに行いました。
私達は主の声に耳を傾け、命じられたとおりにしているでしょうか?
この世の声に惑わされて、神様の声に耳を傾けられなくなってはいないでしょうか?
足りなかったり、余計な事をしてしまったりはしていないでしょうか?

先日、祈り会の時にマシューさんと話をしていて教えられたことがひとつあります。
それは、本当に多くの人たちが、自分の感情に支配されて生きているということです。
例えば、好きで好きでたまらない人が、他に好きな人が出来たとたんにどうでもいい人になってしまったり、何かをきっかけに憎むほどに大嫌いになったりするのが感情です。
感情を人生の価値基準として置いてしまったら、感情が変わるたびに振り回されてしまうのは当然の結果です。

ところが、信仰に関しても感情を優先させてしまう場合があるのです。
今日は何だか神様が近いような気がしたり、神様に愛されている実感がないから、愛されていないと思ってしまうのは、感情が価値基準になってそれに振り回されているからです。

イエス様が「世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいます。」(マタイ28:20)と言ったのだから、そんな気がしなくても神様はいつも私達と共にいるのです。
「私の目にはあなたは高価で尊い、あなたを愛している。」(イザヤ43:4)と神様がおっしゃったのですから、愛されていないような気がしても私達は愛されているのです。

先ほども言いましたが、雨一つ降りそうにない、洪水なんて起こるなんて誰にも予想できなかった時に、神様の御言葉を信じて箱舟を作ったのがノアの信仰です。
もしノアが、「洪水なんて起こらないような気がする。」と感情を頼りに決断していたら、彼もやはりほかの人たちと共に溺れ死んでしまった事でしょう。

もちろん頭でっかちであることが大切なのではありません。
「神様は私達と共にいるのだ。」「私は神様に愛されているのだ。」といくら眉間にしわを寄せて唱えていても、喜びは私達のものとはなりません。

私達が主の御言葉を心から信じ、受け入れ、自分のものとするとき、御言葉は私達の心に染み渡り、いつも主が共にいる嬉しさと、神様に愛されている喜びとに満ち溢れてくるのです。
信仰は感情を超えたものです。
真実を受け入れ、それを信じることによって、感情がついてくるのが信仰です。
例え神様の愛を感じる事が今はできなくても、意図するところが理解できなくても、それを信じて受け入れ、実行に移す信仰を、私達は身につけたいものです。

② どんな時にも信じる

7:16 はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
7:17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。
7:18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。
7:19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。
7:20 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。
7:21 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。
7:22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

この時、神様に従わなかったものがすべて滅ぼされる裁きのときが来ました。
この日洪水が押し寄せ、雨は40日もの間降り続け、地にあるものは、人も、動物も、すべて滅ぼされていったのです。

1年と3ヶ月ほど前、スマトラ沖で大きな地震があり、津波によって20万人も命がなくなりました。
みなさん、彼らは裁きを受けたのですか?

パキスタン地震の被害者は、5万人を越えたということです。
この被害者の方々は悪人で、神からの天罰を受けたために死んでいったのでしょうか?
決してそうではありません!
災害で亡くなった方々の中には、もちろんクリスチャンもいましたし、年端も行かない子供たちも含まれてしました。
私達は、彼らが自ら犯した罪のために裁かれて死んだのだとは、絶対に言ってはなりません。

しかし神様がなぜこの様な悲劇が起こる事をお許しになったのかを、理解するのは難しい事です。
私達が目にする悲劇は、自業自得だというようなものもありますが、時には何の罪もない子供たちが、あるいはどうしてこのような素晴らしい人にこの様な事が起こるのかというような、理解を超えたものがたくさんあります。
それがどうして起こるのか、私達に答を出す事はできません。
それは神様の領域の事であり、神様が起こる事を許し、神様がお決めになった事なのです。

突然の不慮の事故で一人息子を亡くしたある牧師が、その週の礼拝のメッセージでこのように語ったそうです。
「鋼鉄で作った板やボルトは水には浮きません。しかしそれらを組み立てた船が完成した時、鋼鉄で出来ているものが水の上に浮かぶのです。
私の息子が死んだ事は、私にとって悲劇以外のなにものでもありません。
神様がどうして幼い息子を天に召されたのか、今の私には理解する事ができません。
しかし、主のご計画がそこに成るとき、息子の死には必ず何か重要な意味があったと知る日が来ることを、私は信じています。」

信仰生活の中で目にする事は、良い事ばかりではありません。
自分の都合のいい時だけ神様を信じているというのは、信仰ということができません。
しかし、私達が苦しみ喘ぐ時にも、いやその様ような時こそ神様に信頼し、神様のご計画のままに事がなることを、私達は祈り、見守るべきなのです。

③ 救いの条件
皆さんは、箱舟がどのような形をしていたがご存知でしょうか?
ノアの箱舟は色々な画家のモチーフになったり、子供の絵本に描かれたりしていますが、殆どの場合、3階建ての船で、船の上に家のようなものが建っていて、像やキリンが顔を覗かせているイメージだと思います。
しかし、私達は箱舟と呼びますが、実はノアが作ったのは舟ではないのです。

ノアの箱舟を英語でNoah’s Arkと言います。
“インディー・ジョーンズ”という映画がありましたが、第1作目のサブタイトルは、“失われたアーク”でした。
僕は学生の頃このアークという言葉に混乱して、「インディー・ジョーンズが探していたのは箱舟だったのか? しかしその割にはあまりにも小さいよな?」と勘違いしていたことがありました。
インディー・ジョーンズに出てきたアークは、箱舟の事ではなく、聖書に出てくる“契約の箱”です。
この様に言えばわかってくる方もいらっしゃると思いますが、アークというのはラテン語で、“箱”という意味なのです。
ということはノアが作ったのは、船ではなくて箱だったのです。

考えても見てください。
船を作るにはかなりの技術力が必要です。
しかも全長150mもある船を、総勢8人の家族だけで作ることができるはずがありませんよね。

先週もお話しましたが、ノアの箱舟はイエス様を信じるときに与えられる救いを表すものです。
私達が箱舟をイメージする時に船を思い浮かべていると、私達は本当の意味で救いがどの様なものなのかを理解する事ができません。
船とは帆があったり、オールがあったり、舵があったり、操縦者がいて動かし、進路を決めていくものですよね。
箱は違います。
箱に出来るのは、ただ浮いているだけです。
救いというのは、このようなものなのです。

救いを受けるために必死になってオールを漕ごうとしたり、帆を張って自分の思う方向に行こうとしたり、一生懸命救われようとしているクリスチャンが多いのはなぜでしょうか?
救いはどれだけ善い行いをしたかとか、何人の人に伝道したかとか、どれだけ敬虔な生涯を送ったかということの結果ではありません。
救いの条件は、神様の声に耳を傾けてそれを信じ、イエス様という箱舟に乗るか、乗らないか、それだけです。
一度イエス様を救い主として受け入れ、信仰に入ってしまったら、あとはもう乗っているだけなのです。

私達がどうしても自分の行いに頼ろうとしてしまうのは、私達の中に不安があったり、恐れがあるからです。
私達の人生の中で、雨が降り続け、嵐になり、やがて地が水の底に沈んで波が高くなってきたら、私達はどうしても不安になってくるでしょう。
本当に大丈夫なんだろうか、こんな箱では壊れてしまうのではないか?
私達は弱い人間ですから、信仰よりも恐れという感情が先立ってしまうことがどうしてもあるかもしれません。
箱舟の中でどれだけ一生懸命にもがいてみたり、泳ぐしぐさをして見ても構いませんが、それはあまり意味のあることではありません。

そんな時には、イエス様が私達と共にいるということを思い出して下さい。

マルコ 4:35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

私達の目の前に広がる状況がどれほど絶望的に見えても、私達は恐れる必要がありません。
信仰をもって、心から信じ、すべてを神様に委ねましょう。
船が揺れても、壊れてしまいそうでも、イエス様を信じてともにいるなら、私達は決して溺れる事はありません。
箱舟に乗るなら、絶対に救われるというのが神様の約束だからです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です