創世記22:1-19 『イサクを捧げる』 2008/08/17 松田健太郎牧師
創世記 22:1~19
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
みなさんは、「神様はどうしてこんな状況に私を置くのだろう。」と思った事はありませんか?
何かつらい経験があった時、私達は神様の御心や愛を計りかねるという事があります。
神様がいて、私を愛しているのなら、私はどうしてこんな目に合わなければならないのだろう。
神様はどうしてこんな試練を私に与えるのだろう。
そんな風に思う事は、もしかしたら決して少ないことではないかもしれませんね。
今日の聖書箇所で、アブラハムが経験しなければならなかった試練も、私達にはなかなか理解する事ができないほど大変なものでした。
アブラハムにとってそれは、これまでに積み上げてきた全てのものが崩れ去るような命令だったのではないでしょうか。
あるいは喜びの頂点から、どん底まで一気に引き摺り下ろされるような出来事だったかもしれません。
アブラハムが経験した出来事は特別なもので、私達がそのまま自分の人生に置き換える事ができるものではありませんが、私たちにとっては理解しがたいような試練の中にあっても、神様の愛は変わらないのだという事を、今日は共に学んで行きたいと思います。
① イサクをささげる
アブラハムは、神様の導きによって生まれ育った町を出て、カナンという所に移り住みました。
それまでに色んな試練を彼は経験してきたのですが、彼には神様から約束されていた事がありました。
それは、彼の子孫が星の数、砂の数ほどにも大きくされ、偉大な国民と呼ばれるようになる事、そして全ての人々が彼の子孫によって祝福されると言う素晴らしい約束です。
その約束が、いつでも彼にとって大きな心の支えとなっていたのではないかと思います。
しかしその様な約束とは裏腹に、彼にはひとりとして子供が与えられないまま、何年もの月日が経っていきました。
そして25年という年月を超えて、そして89歳になっていた妻が妊娠して子供を生むという常識をも超えて、神様の約束は現実のものとなり、アブラハムには約束の子イサクが与えられたです。
そしてイサクは順調に成長し、神様の約束はこのまま、滞りなく成就していくのではないかと思えました。
しかし彼らにはまだ、信じられないほど大きな試練が待ち受けていたのです。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
いけにえというのは、私たちの中にある罪の大きさは死に値することを示す象徴的な儀式です。
傷のない牛や羊や鳥といった家畜を捧げることによって、罪の代価として支払われるものが決して小さくない事を学ぶ事が目的でしたが、それに人が捧げられるなどということはこれまでありませんでした。
しかもそれが、25年間待ち望み、手塩にかけて育ててきたイサクなどと言う事があるのでしょうか。
神様の約束はどこにいってしまったのでしょう。
この子から大いなる民族が始まるのではなかったのか?
神様がそんな事を望むはずがない。何かの聞き間違いではないのか?
色んな思いがアブラハムの心を交錯した事でしょう。
しかしそれが御心ならば、自分は神様に従おう。
そこには、何か私の知りえないご計画があるに違いない。
アブラハムは葛藤の中で、そのような思いにたどり着いたのではないでしょうか。
② 引き裂かれる思い
翌朝早く、アブラハムは早速イサクを連れていけにえをささげるための旅に出ました。
私達は嫌な事を後回しにしようとしたり、もう少し良く考えてからとか、これが本当に神様の御心かどうか確かめてからとか色々考えてしまうのですが、アブラハムは思い切りがいいですね。
でも、私達には、未来の事を完全に予測する事なんてできません。
どうしたらいいのか、一体どうなってしまうのか、悩めば悩むほど前に進めなくなってしまうでしょう。
アブラハムは葛藤の中、神様に信頼し従うという決断をして、すぐに行動に移したのです。
しかし、だからといってすべての事が平安の内に起こったのではないでしょう。
我が子を手に掛けなければならないという思いの中で、アブラハムが平成でいられた事はなかっただろうと僕は思います。
私たちの心はこの様な状況で心が騒ぎ、不安でいっぱいになるのです。
我が子を生贄として捧げる自分を想像すれば、恐ろしさ、悲しさに身がすくみます。
イサクを焼きつくす生贄としてささげるために、まずイサクののどを刃物でかき切らなければならない。
そして生贄が灰になるまで完全に燃えるために、頭や足や内臓を切り分けていかなければならないのです。
愛する我が子に対して、そんなことができるだろうか?
生贄として捧げる真似をするだけで許してもらえないだろうか?
あるいは自分がイサクの身代わりとして死ぬことはできないのだろうか?
いけにえを捧げる場所として示されたモリヤの山に至るまでの道のりを、アブラハムは苦悩と葛藤の中で過ごした事でしょう。
アブラハムたちが住んでいた場所から、いけにえを捧げるために示されたモリヤまでは、本来なら徒歩で1日半もあれば着くような場所だそうです。
その距離を歩くのに、アブラハム達は倍の時間を費やしました。
進んでは休み、休んでは進み、途中で全焼のいけにえを捧げるために必要な薪を拾い、何よりもその道中に、神様が全く別の道を示して下さるのではないかと期待し、その声に耳を澄ませながら、重い足を一歩、一歩と進めていったのです。
しかし、神様はずっと沈黙を守ったままでした。
その重苦しい沈黙の中、アブラハムは意を決したようにしもべたちを後に残し、イサクと二人きりで歩き始めます。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
全焼の生贄のための薪は集めたけれど、肝心の捧げものである羊はどこですかと問うイサクに対し、アブラハムは主が生贄を備えて下さるのだと応えます。
しかし、アブラハムは知っているはずでした。
主が備えたいけにえとは、愛するひとり子イサクだということを。
「お前が生贄なのだ。」とは、アブラハムには言えませんでした。
言えるはずがありませんでした。
しかし、アブラハムのそのただならぬ気配から、イサクには何が起ころうとしているか容易く理解できたのではないでしょうか。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
アブラハムが、最後のこの瞬間まで神様に口答えをしたり、逆らったりしなかったのはなぜでしょうか?
それは、神様の約束を信じたからです。
「あなたの子孫を、星の数ほどにする。」「砂の数ほどに増やす。」「約束の子はアブラハムとサラの間に生まれ、その子孫からは王も生まれる。」という神様の約束。
これまで何度も疑っては神様を裏切り、罪を繰り返し、しかしその度に主の御手が伸ばされ、全てが祝福に変えられ、約束が果たされてきた。
その約束が、今回に限って破られるということはありえない。
主の約束は絶対に果たされる。
世界の創造主である神様は、例えイサクを殺しても、イサクを死者の中から蘇らせる事だってできるはずだ!
高熱の中で鍛えに鍛え抜かれた純金が素晴らしい輝きを放つように、
地の下で恐ろしいほどの圧力をかけられた石炭がダイヤモンドになっていくように、
ぎりぎりの中での試練を通してアブラハムの信仰はこの時、ダイヤモンドの輝きを放ち始めるのです。
すべての迷いを振り切り、アブラハムがその信仰によってついに生贄を捧げるその手をイサクに伸ばした時、アブラハムを呼ぶ声が、彼の脳裏に響きました。
22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
③ 与えられた備え
「あなたの愛する奈緒美を、全焼の生贄としてささげなさい。」と言われたとしたら、僕にそれができるでしょうか?
できません。できるはずがありません。
私達がアブラハムと同じようにする必要はありません。
これは、アブラハムの人生であり、彼に与えられた運命、彼に与えられた賜物だからです。
私達の人生には、私たちに与えられたそれぞれの試練があるはずです。
あるいはその中で、私達が神様に委ね、捧げなければならないものがあるかもしれません。
でもそれは私たちひとりひとりに与えられている課題であって、この時のアブラハムが経験した事とはまた別の事なのです。
愛するひとり子であるイサクを自らの手で生贄として捧げるという試練は、アブラハムだけに与えられた特別な試練です。
この時にアブラハムが経験した苦しみは、やがて神様が私たちのためにそのひとり子を捧げる時に経験された、その辛さと痛みです。
ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
罪人となって神様から離れてしまった私たちを、神様はご自身の身が引き裂かれるほどに愛してくださいました。
2000年前に神様のひとり子、イエス・キリストが私たちの罪の代価を支払うために十字架に掛けられた時、神様はまさに自分の子供を捧げる痛みを経験されたのです。
私達は愛する子イサクを捧げるアブラハムの苦悩に共感し、その壮絶さに想いを馳せる時、神様が私たちのためになして下さった犠牲の大きさがどれほどのものだったかという事を少しだけ理解する事ができるのです。
アブラハムは、その信仰のゆえに神様を信頼し、自分のひとり子を神様のために捧げました。
神様は、私たちへのその愛のゆえに、ひとり子を私達のために捧げ、十字架に掛けたのです。
アブラハムのその信仰の凄まじさを実感するとき、私たちは神様の愛の凄まじさを知る事ができます。
そのような大きな愛で、私達は愛されています。
その愛をムダにしないためにも、ひとりでも多くの方にその愛を受け取っていただきたいのです。
皆さんが主の愛の中で、安らぎを得る事ができますように。
そしてどんなに苦難と思われるようなときでも、主が必ず救いの道を備えてくださっている事を信じることができますように。
心からお祈りいたします。