Iサムエル記3:1-10 『主の呼ぶ声に従う』 2009/10/04 松田健太郎牧師

Ⅰサムエル3:1~10
3:1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
3:2 その日、エリは自分の所で寝ていた。――彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。――
3:3 神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。
3:4 そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、
3:5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。
3:6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。
3:7 サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。
3:8 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。
3:10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

デジタル・カメラをバラバラに分解して、それを箱の中に入れ、その箱を振ります。
どれくらい振り続けたら、その箱の中の部品が組み合わさって、デジタル・カメラになるでしょうか?
実験してみたわけではないですが、たぶん何万回振り続けても、その部品は組み合わさる事がないでしょう。
部品が全て揃っていたとしても、偶然によってデジタル・カメラができる事はないのです。
わたし達の体は、デジタル・カメラなんて比べ物にならないくらい複雑で、精巧にできています。
それはわたし達が偶然この地上にできてしまったのではなく、目的をもって創られたという事を意味しているのです。

①  わたし達を知っているのは神様だけ
デジタル・カメラのデザインや機能は、大変な試行錯誤の中で形になります。
スポーツ・カーは巧みな計算の元にデザインされ、組み立てられます。
同じように神様は、わたし達を緻密な計画性によって、目的と意味を考えて創造されました。
わたし達が人生の意味や、本当の自分を外側に探さなくても、神様はすでにわたし達の中にそれを用意してくださっているのです。

しかし、神様から離れてしまったわたし達は、その計画を全く無視して、自分の目的や意味を自分で探そうとしてしまいます。
少し違う話をしましょう。
皆さんは、ディズニーのリトル・マーメイドというアニメを観た事があるでしょうか?
その中で人魚のアリエルは難破して海の底に沈んだ船から人間が作った道具を集めているのですが、使い方がわからないものばかりです。
そこでカモメのスカットルに使い方を聞くのですが、これまたデタラメばかり。
フォークを見て、「これはカミスキーという髪をセットするための道具だ。」とか、パイプを見て、「これはチビホーンという楽器だ。」と適当な事をアリエルに教えるわけです。
後で人間になったアリエルは、恥をかきながらその道具が本当は何のための物なのかを知る事になるんですね。

わたし達もまた、自分自身を本来の自分とは違う使い方をしてしまっているのです。
マイクとして創られたわたし達が、カナヅチとして使われたり、音楽を奏でるために創られたわたし達が凶器として使われてしまうようなことになってはないでしょうか?
現代を生きるわたし達の多くが、自分は何のために生まれてきて、何のために生きているのかという答えを持っていません。
そして何も知らないスカットルに相談して、間違えた使い方をしてしまっているのです。

わたし達は、本来創られた目的にそって生きるのでなければ、本当の意味で輝く事はできません。
マイクでも力を頑張れば釘を打つ事ができるかもしれませんが、その内マイクとしては使い物にならなくなってしまうでしょう。
エレキギターでも人を殴って攻撃する事はできるでしょうが、人を傷つけるのではなく、人の心を癒すという素晴らしい使い方ができるものなのです。

聖書にはこの様に書かれています。
詩篇139:15~16(現代訳)私が母の胎内に造られた時、あなたはそれをすべてご存知でした。あなたの目は、胎児として私が造られるのをご覧になり、まだ私の生涯の一日も始まらないうちに、そのすべては、あなたの書物に記されました。
わたし達は本来、どのような意味と目的をもって作られたのでしょうか?
その答えを知っているのは、神様です。
神様がわたし達を作り、この地上に送り出したのですから。
わたし達は誰で、何のために生きているのかという事を、当てにならないスカットルにはもう聞かないで、わたし達を作ってくださった神様に聞かなければなりませんね。

② 聞く心
しかし問題なのは、なかなか神様の声を聞くことができないという事です。
以前ある方にこの様な相談を受けました。
「けんたろ先生には、神様の声が聞こえますか?私にはどうしても聞こえないのですが。」
僕はその方に、聖書を読んでいますかと聞きました。
神様は多くの場合、御言葉を通してわたし達に語りかけられるからです。
しかしその方は言うんですね。
「私は聖書もたくさん読んでいますし、お祈りもしています。それでも神様が何を導いているかなんてさっぱりわからないんです。何が問題なのでしょうか。」

皆さんは、神様の導きをどれくらい明確に認識していますか?
皆さんは神様が語りかけられたという経験があるでしょうか?
これは何も特別な事ではなく、全てのクリスチャンに聖霊が与えられているという事は、すべてのクリスチャンが神様の声を聞き、導きに従う事ができるという事なのです。
神様は聖書の言葉を通し、祈りの答えを通し、他のクリスチャンを通し、ある時は想いが心の中に迫ってくる様にして、またある時は状況の変化を通してわたし達に語りかけます。
しかし、多くのクリスチャンがこの導きを明確なものとしては認識していないのが実際のところなのです。

預言者がまだはっきりした形で出てくる前の時代。
アブラハムやモーセの時のように、神様が直接心に語りかけてくると言う事もほとんどなく、おそらくは現代と同じように、神様の導きを実感する人が少なかった時代の事です。
そんな時代にサムエルという少年は、神様の声を聞きました。
昔の人は神様の声を聞いたと聞かされてはいたけれど、身近にそんな例があるわけでもなく、まさかそんな事が自分の身に起こるとは思ってもいなかったでしょう。
しかしなぜサムエルが選ばれ、神様の声を聞いたのでしょうか?
それは、彼の神様に対する姿勢にあったのではないかと僕は思います。

サムエルは神様から呼ばれたとき、2度にわたって「はい、ここにおります。」と返事をして、師匠であるエリの元に行っています。
彼を呼んだのがエリだと思ったからです。
しかし、サムエルが神様から呼ばれている事を悟ったエリは、神様に対して返事をするようにと彼にアドバイスしました。
そして、神様が三たびサムエルを呼んだとき、サムエルはこう応えたのです。
「お話しください。しもべは聞いております。」
これは、「私には従う準備ができています」という意味の言葉です。
サムエルは、「言われた事には何でも従います。」という姿勢を持っていたからこそ、神様の声を聞いたのではないかと僕は思うのです。

多くの場合、自分にとって都合の良い事しか聞きたくないというのがわたし達の態度ではないでしょうか。
自分が求めている事だけを示してほしいし、できれば都合の良い結果だけを聞きたい。
そして自分が聞きたくないことに関しては、どれだけ神様が語りかけてくれていても、わたし達の側が耳を塞いでしまうのです。

「赦せない人を赦しなさい。」。
「愛せない人を愛しなさい。」
「今すぐ、隣人に福音を伝えなさい。」
そのような神様の導きにわたし達は耳を塞ぎ、自分が聞きたいことだけを聞こうとしても、わたし達はそんなに都合よく、聞きたいことだけを聞けるわけではありません。
わたし達は、神様に従う準備が整っている時、神様の声を聞くことができます。
そして従う事を拒絶している限り、主の声を聞くことはできないのです。
今、わたし達はサムエルのように答えることができるでしょうか。
「お話しください。しもべは聞いております。」と・・・。


先月から皆さんにお知らせしていますが、いのちのことば社から「manna」というデボーション・ガイドが創刊されました。
木曜日のクラスを中心にして「manna」を使ってデボーションをしているのですが、これを通して日々神様の声を聞く機会を与えられています。
少し9月30日の聖書箇所からシェアをしましょう。

コロサイ 4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。
4:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。
4:4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
4:5 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

色んなやり方があると思いますが、僕は聖書箇所を読む前に、「神様が語って下さるように。」と祈るんですね。
そして、その箇所をゆっくり何度か反芻するように読みます。
その中で語られたのはこんな事でした。

まず第一に、自分の祈りの少なさを思わされました。
目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。と言われていますが、自分には何と祈りが足りない事だろうと思ったのです。

次に、みことばのために門を開いて下さるように祈る事の大切さを語られました。
出かける前に、「今日福音を伝える機会が与えられますように。そして必要な事を正しい形で伝える事ができますように。私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように。」と祈る事です。
9月30日から祈り始めて、現時点でまだその機会は与えられていませんが、わたし達の側でそれを願い祈らなければ、その機会が与えられていても素通りしてしまうでしょう。
主が出会いを与えてくださり、その関係の中に主がいて下さるようにと祈るのは、大切な事だと感じました。

さらに、外部の人に懸命にふるまい、いつでも塩味のきいた言葉を話せるようにと祈りました。
塩味のきいた言葉とは、ネガティブで人を傷つけるような言葉ではなく、人を生かす言葉を使おうということです。
子供に対してなど本当にそうですが、怒鳴ったり、不機嫌だったり、相手を傷つけるような言い方ではなく、塩味の聞いた言葉で話したいと心から感じ、主に願い求めました。

お金がほしいとか、肉的な祝福を願う祈りにはなかなか答えがありませんが、自分を変えてくださいという祈りにはすぐに答えが来るものです。
この短期間に、これまではちょっと距離を置いていた何人かの人たちと、会って一緒に聖書を読んだり、祈ったりする時間を定期的に持とうという話が進みました。
それは神様が祈りに応えてくださった結果だと思うんです。
その結果がさらに目に見えた結果としてわかるまでにはまだ時間が必要かもしれません。
また、この結果が明らかによい形では終わらないかもしれません。
でも、それが主の導きによって起こったことであれば、わたし達の目にわからなくても必ず益をもたらして下さる事を僕は信じます。

皆さんも、神様の声に耳を澄ましてみませんか。
神様の導きに従って行動をし始めると、その中に神様の御業をたくさん経験するようになります。
その経験そのものが、わたし達と主との距離を近くするのです。
そのために、毎日のデボーションを心からお勧めします。

また共に祈る時間を持ちませんか?
以前から、パソコンのスカイプというプログラムを使ってネットでの祈り会をしたいという話を何度かしてきました。
それを、水曜日の10時くらいから始めてみようと思います。
興味のある方は、ぜひ僕の方までお知らせください。

皆さんの人生が、ますます輝いたものになる事を心から願います。

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