Iサムエル記9:1-17 『 サムエル記④~祝福を逃さないために 』 2010/08/01 松田健太郎牧師

Iサムエル記 9:1~17
9:1 ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。――キシュはアビエルの子、順次さかのぼって、ツェロルの子、ベコラテの子、アフィアハの子。アフィアハは裕福なベニヤミン人であった。――
9:2 キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
9:3 あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。そこでキシュは、息子サウルに言った。「若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」
9:4 そこで、彼らはエフライムの山地を巡り、シャリシャの地を巡り歩いたが、見つからなかった。さらに彼らはシャアリムの地を巡り歩いたが、いなかった。ベニヤミン人の地を巡り歩いたが、見つからなかった。
9:5 彼らがツフの地に来たとき、サウルは連れの若い者に言った。「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから。」
9:6 すると、彼は言った。「待ってください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへまいりましょう。たぶん、私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」
9:7 サウルは若い者に言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、その神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」
9:8 その若い者はまたサウルに答えて言った。「ご覧ください。私の手に四分の一シェケルの銀があります。私がこれを神の人に差し上げて、私たちの行く道を教えてもらいましょう。」
9:9 ――昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は、「さあ、予見者のところへ行こう。」と言った。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。――
9:10 するとサウルは若い者に言った。「それはいい。さあ、行こう。」こうして、ふたりは神の人のいる町へ出かけた。
9:11 彼らはその町の坂道を上って行った。水を汲みに出て来た娘たちに出会って、「ここに予見者がおられますか。」と尋ねた。
9:12 すると、娘たちは答えて言った。「ついこの先におられます。今、急いでください。きょう、町に来られました。きょう、あの高き所で民のためにいけにえをささげますから。
9:13 町におはいりになると、すぐ、あの方にお会いできるでしょう。あの方が食事のために高き所に上られる前に。民は、あの方が来て、いけにえを祝福されるまでは食事をしません。祝福のあとで招かれた者たちが食事をすることになっています。今、上ってください。すぐ、あの方に会えるでしょう。」
9:14 彼らが町へ上って行って、町の中央にさしかかったとき、ちょうどサムエルは、高き所に上ろうとして彼らに向かって出て来た。
9:15 主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。
9:16 「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」
9:17 サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」

サムエル記から4回目のメッセージになります。
まずは、先週のメッセージを少し思い出していただきたいと思います。
これまで、イスラエルという国は神様を王として、士師(さばきつかさ)が人々と神様との間に立つ神政国家でした。
しかしイスラエルの人々は、「わたし達にも他の国と同じように王を与えて下さい。」と士師であり預言者であるサムエルに申し立てたのです。
イスラエルが王様によって治められるという事は、神様の計画ではありませんでしたが、神様はイスラエルが求めるように、王を与えるようにサムエルに伝えます。
今日の話は、その続きで、イスラエルの初めての王様が与えられるという話です。

イスラエルで最初の王様は、サウル王といいます。
皆さんは、このサウル王がどんな王様だったかご存じでしょうか?
まぁ具体的な話に関してはこれから数週間の間一緒に見ていくわけですが、一言でいえば悪い王様でした。
そこで今日は、どうしてこのような人物が王として立てられる事になったのかという事。
そして、神様が選んだ王様なのに、どうして結局は王座から退けられるようになってしまったのかという2点に焦点を当てて見ていきたいと思います。

① サウルの選び
さて、イスラエルが王様によって統治されるという事は、少なくともこの時点では神様の御心ではなかったんです。
それなのに、それでも神様は、イスラエルが望むままに王を与えたんですよね。
実を言うと、この様な事が起るだろうという事は、神様はずっと前からご存じでした。

申命記 17:14 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、
17:15 あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。

さすが全知全能の神様ですね。
イスラエルの民がどんな理由で王を欲しがるかという事まで、見事に言い当てています。
そしてその王は、「自分達で選んで決めるのではなく、神様が選ぶ者を王として立てなければならない。」と、言われているのです。
だから神様は、預言者サムエルを通して、イスラエルの王サウルを選びました。
じゃあ、「神様が選んだ王がこんな人だったの? どうして神様はこんな人を選んだの?」という事になりませんか?

イスラエルの民はサムエルと神様を退けて、自分たちのための王を求めた。
だからその罪を思い知らせるため、悪い王を選んだのだ、というとらえ方があります。
ホセア書には神様の言葉として、このような記述があるんです。

ホセア 13:10 あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ。」と言った者たちは。
13:11 わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る。

神様は怒って、王を与えた。
だから神様が与えたサウルはイスラエルへの罰であり、悪い人を敢えて王として選んだのだ。
そのような見方もできます。(実際にそのように解説している註解書もあります。)
でも、そうじゃないだろうと、僕は思うんです。
今、王様を得ても、イスラエルにとってよい事にならない事を、神様が知っていた事は確かです。
しかし神様は、世界に苦しみを与えるために誰かを選ばれるような方ではありません。
第一、それではサウルがあまりにもかわいそうじゃないですか。

そしてその論理からいえば、イエス様を裏切りローマ帝国に売りつけてしまったユダも、そのような呪われた役割を果たすために神様から選ばれた事になります。
そうすると、わたし達の人生もまた、呪われた人生を送る事を宿命づけられているのかもしれないということになるじゃないですか?
そのような運命を決め付けられるのでは、人の自由意思なんてどこにもありません。

ユダは悔い改めて正しい事をするチャンスがあったのに裏切ったから、問題だったのです。
わたし達にも、神様が計画されている最善の道を選ぶか、神様に逆らって自分の道を歩み続けるのかという選択があります。
そして、サウルもまた悪い王として選ばれたわけではなくて、最高の王となるチャンスが与えられて選ばれたのだと僕は思うのです。

② 王として最高の人材
ではそもそも、サウルとはどういう人だったのかという事を見ていきましょう。

Iサムエル 9:2 キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

サウルは、背が高くていわゆるイケメンでした。
イスラエルの中でもっとも美しかったというのですから、誰から見てもすごく魅力がある人だったんですね。

そして、サムエルがサウルに向かって「あなたが王になる。」と告げた時には、サウルはこのように答えました。

Iサムエル 9:21 サウルは答えて言った。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」

少し卑屈的すぎるかもしれませんが、サウルは謙遜な心の持ち主でもあったのです。
決して野心家ではなく、偉そうな態度をとるのではなく、自分はその恵みには相応しいものではないという事を理解しています。
少し頼りない部分もあるけれど、人間的には新しい王として申し分のない器だったんですよ。

それだけではなく、神様はいくつもの方法でサウルの後ろ盾をしました。

Iサムエル 10:1 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。

第一に、サムエルはサウルに油を注いで祝福しました。
油注ぎというのは、王とか預言者に与えられる神様からの特別な恵みと祝福です。
あなたは王として選ばれたという意識を高めるために、王の任命式が密かに執り行われたのです。

次に、サウルには主の霊が激しく下り、新しい人とされるという経験が与えられました。

Iサムエル 10:6 主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
10:7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。

これによって、サウルは王としての能力を神様から受けたのです。
この出来事についてもいろいろ話したい事はありますが、今日の話の本筋からずれてしまいますので、今はさらっと流しておきたいと思います。
とにかく、サウルには神様からの特別な力が与えられたんだという事です。

さらに、イスラエルの国民に認められるようにお膳立てが行われました。

Iサムエル 10:19 ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい。」
10:20 こうしてサムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。
10:21 それでベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づけたところ、マテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが取り分けられた。そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。

これによって、神様の選びがサウルの上にあるという事が、全国民に知らされたのです。
こうして立てられたサウルを見て、人々はこのように言いました。

Iサムエル 10:24 サムエルは民のすべてに言った。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな、喜び叫んで、「王さま。ばんざい。」と言った。
誰も文句を言うものはなく、むしろこれ程王様に相応しいものは民の中にはいないと言って喜んだのです。

さらにその後11章で、アモン人ナハシュがイスラエルに攻めてくると、サウルの上には神様の霊が激しく下り、スーパーマンのような大活躍をして、彼こそが王に相応しいのだという実績を打ち立てて、彼こそが選ばれた王であるという事を全ての人に証明します。

サウルは、この時王として選ぶ事ができる最高の人でした。
それにも関らず、最終的にサウルは悪い王となり、よくない結果が起ってしまったのです。
神様は最高のものを選び、与えました。
しかし、受け取る人間の側に問題があったのです。

わたし達は、時として神様がどうしてこんなものを自分に与えたのかと感じる事があるかもしれません。
しかし、それが神様から与えられたものであれば、それは本来わたし達にとって最高のものです。
例えわたし達の不信仰を見て怒ってその要求に応えるような時でも、決していい加減な事をする事はなく、最高のものをわたし達に与えて下さいます。
でも、多くの場合わたし達の方が、それを最高のものとして受け取る事ができていないのです。
受け取るわたし達の側に問題があるから、神様の祝福をうまく受け取れなくなってしまうのです。
それは、ただ単にわたし達が喜べないという事ではなく、わたし達が祝福をすべて台無しにしてしまう事もあるという事です。

わたし達の方にその準備ができていなければ、神様のどんな祝福も、わたし達を幸せにはしません。
わたし達には、祝福を受け止める準備ができているでしょうか?
ではその準備のために、何が必要なのでしょうか?

③ サウルに欠けていたもの
これだけ人間的な魅力や能力をもち、神様のお膳立てが与えられていても、サウルには決定的に欠けているものがありました。
その具体的な部分は、再来週からのメッセージで見ていきたいと思うのですが、今はその答えだけを先にお話しましょう。
サウル王に欠けていた決定的なもの、そしてわたし達が祝福を受ける準備に必要なもの、それは信仰です。

サウルは、あれだけたくさん神様の御業を経験し、神様によって王という地位が与えられたにも関わらず、自分自身で神様への信仰を持つ事がありませんでした。
神様の選びがなければ王になる事もなかったし、神様があれだけ力を注ぎ、環境を整え、奇跡まで経験したのに、驚くべき事ですが、サウルは神様を信じていなかったのです。
信仰を持つためのきっかけや素材はいくらでも与えられているんです。
神様に背いて信仰を持たない人というのは、こういうものなんでしょうね。

神様が共にいて下さる事を信じていないので、サウルは事あるごとに恐れに取りつかれました。
神様を本当には信じていないので、サウルは神様の言葉をないがしろにしました。
神様の助けを信じていないので、サウルは失敗すれば劣等感にさいなまれ、成功すればプライドに満ちていたのです。
結果的にサウルは正気を失い、王座にしがみついて不信感と復讐にもえるような、酷い王様になっていってしまったのです。
神様が与えた祝福が、こんな風に悲劇へとなっていくのは、本当に残念なことです。

わたし達の周りを見渡す時、クリスチャンであるわたし達よりも能力のある人はいくらでもいます。
クリスチャンよりもまじめで、クリスチャンよりも優しく、クリスチャンよりも愛の行いをする人もたくさんいます。
でも、神様を知らないのであれば、それは自分の意志だけでそうしているのであり、気持ちがいいからそうしているのであり、自分のエゴが満たされるからそうしているのです。
それは結局のところ自分自身のための行いであって、神様の栄光となるものでは決してありません。
そしてそれは、行いとして素晴らしいものであっても、人の力を超えるものにはなりえないのです。

信仰がなければ、神様からの祝福を本当の祝福として受け止めていく事はできません。
しかし、そこに信仰があるなら、2匹の魚と5つのパンが5000人の胃袋を満たしたように、わたし達の力や実力を超えた御業がそこに行われるのです。

皆さんには、この世界の創造主を信じる信仰がありますか?
わたし達の罪を贖い、わたし達を主に似た者として下さる愛の神様を信じる信仰がありますか?
神様の祝福をどうか、取りこぼさないでください。
祝福を、悲劇としないでください。
神様の選びと油注ぎは、わたし達の上にもあります。
しかしその選びと油注ぎは、信仰があってこそ本当の祝福となるのだからです。

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