I列王記15:9-23 『⑨アサ王~平安で生きるために』 2011/03/06 松田健太郎牧師

I列王記15:9~23
15:9 イスラエルの王ヤロブアムの第二十年に、ユダの王アサが王となった。
15:10 彼はエルサレムで四十一年間、王であった。彼の母の名はマアカといい、アブシャロムの娘であった。
15:11 アサは父ダビデのように、主の目にかなうことを行なった。
15:12 彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。
15:13 彼はまた、彼の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を王母の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、これをキデロン川で焼いた。
15:14 高き所は取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、主と全く一つになっていた。
15:15 彼は、彼の父が聖別した物と、彼が聖別した物、すなわち、銀、金、器類を、主の宮に運び入れた。
15:16 アサとイスラエルの王バシャとの間には、彼らの生きている間、争いがあった。
15:17 イスラエルの王バシャはユダに上って来て、ユダの王アサのもとにだれも出入りできないようにするためにラマを築いた。
15:18 アサは主の宮の宝物倉と王宮の宝物倉とに残っていた銀と金をことごとく取って、自分の家来たちの手に渡した。アサ王は、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王ヘズヨンの子タブリモンの子ベン・ハダデのもとに遣わして言わせた。
15:19 「私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間に同盟を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金の贈り物をしました。どうか、イスラエルの王バシャとの同盟を破棄し、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。」
15:20 ベン・ハダデはアサ王の願いを聞き入れ、自分の配下の将校たちをイスラエルの町々に差し向け、イヨンと、ダンと、アベル・ベテ・マアカ、および、キネレテ全土と、ナフタリの全土とを打った。
15:21 バシャはこれを聞くと、ラマを築くのをやめて、ティルツァにとどまった。
15:22 アサ王はユダ全土にもれなく布告し、バシャが建築に用いたラマの石材と木材を運び出させた。アサ王は、これを用いてベニヤミンのゲバとミツパとを建てた。
15:23 アサのその他のすべての業績、すべての功績、彼の行なったすべての事、彼が建てた町々、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。ただ、彼は年をとったとき、足の病気にかかった。

列王記のシリーズの9回目です。
ソロモンの罪によって、北イスラエルとユダに分裂してしまった時代を見てきています。
ここしばらく北イスラエルに焦点を定めて、預言者エリヤの活躍を見てきたのですが、これから第2列王記に入っていく前に、少しユダ王国についても見て行きたいと思います。

皆さんは、北イスラエルとユダが分裂してしまった時の王様の名前を覚えていますか?
ヤロブアムと、レハブアムでしたね。
ヤロブアムが北イスラエルの王として選ばれ、ソロモンの息子であるレハブアムがユダの王となりました。
北イスラエルについては、3週間くらい前のお話ししましたが、何度も反乱が起って王朝が変わったんです。
一方でユダは、ずっとダビデの家系で王朝が続いて行くんですね。
今日は、その中からダビデ王朝5代目であるアサ王の事を少し見ていきたいと思います。

① 罪を取り除く
イスラエルの王達のお話をするに当たって、区別されるポイントがひとつあります。
それは、それが良い王様だったか、悪い王様だったかという事です。
イスラエルの最初の王であるサウル王は、悪い王でした。
ダビデは、それ以降のお手本とされるような良い王様でした。
次のソロモンは、良い王としてスタートしましたが、堕落して悪い王となりました。
ソロモンの堕落によって分裂した北イスラエルでは、ヤロブアム以降全て悪い王様でした。
もう一方のユダは、レハブアムが悪い王様であり、次のアビヤムも悪い王様でした。
今日の話は、そのアビヤムの息子アサ王ですが、この王様は良い王のひとりとして数えられています。

何が良い王様であり、何が悪い王様なのでしょうか?
これは、政治的な手腕や国を平和にしたかどうかの業績と言う事よりも、完全に神様との関係の問題なのです。
預言者サムエルの話の時から言っている事ですが、イスラエルにおいて王というのは、本来神様ご自身であるはずなのです。
王様はその代理人として神様と人の間に立っているわけですから、神様との関係がしっかりしていない限りは本来の王としての役目を果たす事なんてできるはずがありません。
神様に信仰し、しっかりとした関係を築いている王様のもとでは、問題が起らない訳ではありませんが、政治も比較的うまくいき、国も安定するんですね。
しかし、王様が神様から離れると、国全体が方向を見失って崩れて行きます。
そして最後には、神様からの裁きを受けるほど、手の施しようがない状態になってしまうのです。
先週までお話していたアハブ王が、まさにそのような状態にありましたね。

神様との関係がうまくいっているかどうかを計るのは、意外と簡単です。
イスラエルが神様から離れている時は、必ず偶像崇拝が起るからです。
わたし達は、どうしても何かに信仰し、頼る存在を求めていますから、真の神様から離れると偶像崇拝を始めるようになるんですね。
それは、わたし達も同じです。

わたし達が神様から離れている時は、神様以外の何かに頼ろうとします。
お金がないとダメだと思ったり、仕事がないと、人に愛されていないと自分には価値がないんだという事になってしまう時、実はわたし達は偶像を作ってしまっているのです。
わたし達が神様以外の何かを愛し、頼り、依存するなら、人生の方向を見失ってしまう事にもなっていくのです。

そこでアサが王になった時、まず最初に行ったのはイスラエルに広がり始めていた偶像を取り除く事でした。

15:12 彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。
15:13 彼はまた、彼の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を王母の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、これをキデロン川で焼いた。

その結果イスラエルがどのようになったかという事が、列王記の並行箇所である歴代誌の中に描かれています。

II歴代誌 14:1 アビヤは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をダビデの町に葬った。彼の子アサが代わって王となった。彼の時代には、この地は十年の間、平安を保った。

歴代誌にはこの後にも、アサの治世の最初の10年は平安があり安息があったという事が何度も書かれているんですね。
これは、神様と共にある者が受ける祝福としての平安なのです。
皆さんの中に平安と安息はあるでしょうか?
わたし達がこのような平安と安息を取り戻すために必要なのは、まずわたし達の中に留まっている罪を取り除く事です。
まずはその代表的なものである、偶像崇拝を取り除く事です。
わたし達が何にもまして神様を愛し、神様に頼る時、わたし達の中には平安が戻ってくるはずです。
わたし達は何でも偶像にする事ができてしまうので、なかなか自覚がなかったりもしますが、心に平安と安息がないなら、まずは自分の中で偶像としているものがないかという所から、見直してみる必要があるかもしれません。

② アサの叫び
さて、神様との関係が良い時でも、問題が起らないという訳ではありません。
次に、主に信頼する人がどのようにして問題を切り抜けて行くのかという事を見て行きたいと思います。
アサ王については、列王記にはあまり詳しい事が載っていないのですが、歴代誌の中にこのような記述がされています。
アサが王様になって15年くらいが経った時、クシュ人がユダに攻めてきたのです。
クシュというのは今のエチオピアですから、アフリカから遥々と攻めてきたわけです。

全部合わせて60万人に満たないユダの歩兵に対して、クシュ人は100万人の歩兵に加えて300の戦車。
戦力でみる限りは、とても勝ち目がありません。
自分の力だけではどうしようもないような状況に、ユダは立たされたのです。
その時、アサは神様に向かってこの様に祈りました。
II歴代誌 14:11 アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」

アサ王は、自分の軍隊で立ち向かうのではなくて、神様の力により頼んで戦うという方法をとりました。
それは主に信頼する信仰の現れです。

わたし達も時として、勝ち目のない戦いに挑まなければならない時があるのではないでしょうか。
もう、自分の力ではどうしたらいいのかわからないような問題があるわけですね。
あるいは、絶対的多数の反対意見の中で、クリスチャンとして正しい道を歩むために戦わなければならない時もあるわけですよ。
そんな時、わたし達はその戦いの中で絶望してしまいそうになります。
しかし12節には、

14:12 主はアサの前とユダの前に、クシュ人を打ち破られたので、クシュ人は逃げ去った。と書かれているのです。

主がわたし達の敵と戦い、勝利して下さいます。
その事を信じて、主に信頼してこの戦いを戦い抜いて行きたいものだと思います。

③ アサ王の失敗
こうして見ていると、アサ王はダビデにも劣らないような素晴らしい王だったのだなぁと思えるのですが、しかしアサ王も完ぺきだったわけではありません。
その生涯の晩年には、その信仰に影が差す事もあったのです。
それは、アサの治世の第36年に、もうひとつの戦いを経験した時に訪れます。

ユダに対して、イスラエルの王バシャが戦いを挑んできたのです。
この時の戦いは、20年前のクシュ人との戦いと違って、戦力が拮抗している相手との戦いでした。
前の戦いでは、とても勝ち目がないと思えましたが、今回は何とかなりそうな相手だったのです。
そこでアサ王がどうしたかと言うと、策略をめぐらしたのです。
アサ王は、イスラエルの向こう側にあるアラムという国に対して賄賂を送って援助を求めました。
そして、その策略は功を成し、バシャはユダに攻め込む事ができなくなりました。
つまりアサ王は、今回の戦いは神様に頼るのでなく、政治的で実質的な手段を取ったのです。
こうしてアサ王は、自分の知恵と力によって危機を乗り越えたように見えました。
しかし、それは神様の目に適うものではありませんでした。

II歴代誌 16:7 そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。
16:8 あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」

戦いを回避して問題は無くなったのだからいいじゃないかとわたし達は思います。
しかし問題なのは、アサが神様ではなく別のものに信頼したという事なのです。
先ほども言ったように、イスラエルの王に何よりも大切なのは、神様との関係なんですね。
しかしここに来て、その関係にひびが入ってしまうのです。

その上アサ王は、忠告をした予見者ハナニに対して怒りを露わにし、ハナニを捕え、足枷をはめて閉じ込めてしまいました。
そして予見者の忠告に耳を貸すという事もなく、神様から離れた道を歩み始めたのです。
その後、アサ王は両足に重い病気を抱える事になりますが、それでも神様に立ち返る事がなく、医者に頼ったと書かれています。

わたし達は、自分の力で何とかできそうな時にこそ、気をつける必要があるのです。
わたし達が本当に気をつけなければならないのは、自分には載り超えられないような試練にある時ではなく、自分の力で何とかなりそうな問題に直面した時です。
そのような時には、わたし達は神様を忘れて自分の力に頼ってしまうからです。
しかしわたし達が神様から離れてしまうなら、わたし達も道を見失って、歩むべき道から外れてしまうのです。

予見者ハナニによって注意された時にも、アサ王は「自分は正しい道を歩んでいるはずだ。」と決めつけて、悔い改める事ができませんでした。
しかしわたし達は、自分が罪びとであり、失敗もするのだという事を覚えて、悔い改める者でありたいものです。

これから聖餐式を執り行いますが、その前に鎮まる時間をもって、神様との関係を見直してみてください。
もし偶像崇拝が自分の中にあるなら、どうかそれを捨てて主に立ち返って下さい。
もし悔い改めていない罪があるなら、今主の前に悔い改める時としていこうではありませんか。

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