I列王記17:1-10 『⑥整えられる主の器』 2011/02/13 松田健太郎牧師
I列王記17:1~10
17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
17:2 それから、彼に次のような主のことばがあった。
17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
17:5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。
17:7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
17:8 すると、彼に次のような主のことばがあった。
17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。
先週のメッセージを聞いて下さった皆さんは、先週のお話を思い出していただきたいと思います。
それまでサウル、ダビデ、ソロモンと続いてきたイスラエル王国は、ソロモンの罪により北と南に分裂してしまいました。
北はヤロブアムが治める北イスラエル、南はソロモンの息子レハブアムが治めるユダです。
ユダは比較的安定していて、良い王が出たり悪い王が出たりはするものの、基本的にはずっとソロモンの(というよりはダビデの)子孫が治めて行きました。
しかし、今日の舞台となる北イスラエルはそうではありません。
神様から選ばれて王となったヤロブアムの王朝は、ヤロブアムが偶像崇拝を始めとする大きな罪を犯したために、結局子供のナダブの時代までしか続きませんでした。
その後反乱によってバシャという人が王となり、バシャの子供のエラの時代に再び反乱が起りジムリという人が王となりました。
その7日後に、今度はオムリという人がジムリを倒して新しい王となりました。
このように、北イスラエルは次から次へと王朝が変わっていく不安定な状態となったのです。
まったく一致がないようですが、そこにはひとつの共通点もありました。
それは、全ての王が「主の目に悪となる事を行った。」という事です。
ヤロブアムが神様に背いて以来、北イスラエルはどんどん神様から離れていったのです。
今日の舞台となるのは、オムリの子供アハブの時代の北イスラエルです。
このアハブというのは、これまで悪を行ってきた王の中でも最悪の王でした。
彼はシドン人の王の娘イザベルを妃として迎え、バアルという偶像の神を拝んだのです。
このバアルというのが酷いカルト集団のような偶像なのです。
バアルの神殿では常に神殿娼婦と呼ばれる女たちがいて、いけにえとして人間の子供が捧げられたりしていたのです。
このように、最悪の状態になってしまったイスラエルに送り込まれたのが、エリヤという最高の預言者だったのです。
今日からしばらくの間、このエリヤの活躍を通して神様からの祝福を受け取っていきたいと思います。
① 試練に告ぐ試練
さて、預言者エリヤがアハブ王のために預かった神様の言葉はこれでした。
列王記 17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
この大干ばつを通して、神様に背き続けるアハブとイスラエル王国には試練が与えられたのです。
これは、アハブとイスラエルが自分たちの罪に気が付き、悔い改めるために与えられた試練でした。
しかしそれは、アハブやイスラエルだけでなく、エリヤ自身への試練でもありました。
彼自身も、その干ばつの真っ只中にいたわけですから。
17:2 それから、彼に次のような主のことばがあった。
17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
それからというもの、毎日朝と晩に、カラスがエリヤのためにパンと肉を持ってくるようになったのです。
カラスが人のためにパンと肉を持ってくる・・・、これはそうそうある事ではありません。
でも「うわっ、すげっ、カラスがパンと肉を持ってきたよ!」っておもしろがっていられるのは、最初の数日くらいですよね。
毎日毎日、カラスがどこかから持ってくるカチカチのパンと肉、そして川の水。
自分がカラスにパンくずをやるというならまだしも、カラスに養われるって・・・。
そんなみじめな生活が、長い間続いたのです。
しかし状況は、さらに悪くなります。
しばらくすると、ケリテ川も涸れてしまったのです。
やむを得ずエリヤが場所を移動すると、そこにいたのは、わずかな小麦と油しか持っていない、やもめとその息子でした。
彼らはわずかに残った小麦と油でパンを焼き、それを食べたら死んでしまおうと思っていたのです。
そんな彼らを見て、エリヤはこう言ったのです。
17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
酷い話ですよね。
自己チューにも程がある。
しかし、これも神様の導きでした。
だから、エリヤはそれに従ったのです。
すると不思議な事が起りました。
もう一人分あるかないかと思っていた小麦と油が、どれだけパンを焼いてもなくならないのです。
こうしてエリヤは、やもめと息子が持っていたパンによって養われる事になりました。
それにしても、本当なら自分が助けて養ってやらなければと思わされるような貧しいやもめに、自分が養われなければならないという状況もまた、何と情けない状況でしょうか。
わたし達の人生には、時としてこういう事が起るのです。
神様の導きに従った結果が、すぐに良い事に繋がるならわかりやすいですよね。
「あぁ、このために神様はそう言ったのか。」とすぐにわかるなら、あまり苦労はないのです。
ところが、神様の導きに結果が現れるまでには時間がかかる事があります。
せっかく神様の導きに従ったはずなのに、さらに酷い状態、厳しい状態になってしまうという事があるのです。
でもそれは、本当の結果に向かうまでの通過地点に過ぎません。
そこを乗り超えて行く事を通して、本来の目的に達する事もあるのです。
乗り越えるためには、わたし達は神様に信頼する信仰が必要とされるのです。
② 準備期間としての試練
それでは、エリヤはどうしてこのような経験をする必要があったのでしょうか?
神様そうして下さるなら、エリヤは飢饉の中でももっと楽な生活をすることだってできたでしょう。
しかし、エリヤはここでこの経験をする必要がありました。
エリヤは、次への一歩を踏み出すために、整えられる必要があったのです。
エリヤはこの後、450人のバアルの預言者たち、そして400人のアシェラたちと対決しなければならないのです。
想像すると恐ろしいですよね。
人を人とも思わぬ、子供をいけにえに捧げたりするようなカルト集団の預言者850人に対して、「どちらが本物の神様か対決だ!」って挑むわけですから。
ちょっとやそっとの勇気、信仰では到底そんな事はできません。
しかし、だからこそエリヤは、心を新たにされ、信仰を強められるために今の経験をする必要があったのです。
わたし達が、明日すぐ42.195kmのフルマラソンを走れと言われたってムリです。
僕がこのまま走ったら、たぶん5km地点くらいでリタイヤという感じでしょう。
マラソンを走る事ができるために、わたし達は長い期間を掛けてトレーニングをする必要があります。
同じように、いきなり850人のカルト預言者達と対決しろと言われても絶対にムリです。
エリヤが飢饉の2年間に経験した様々な出来事は、これからの戦いのための準備期間として必要な時だったという事です。
わたし達は人生の中で、辛い経験をする事があります。
どうしてこんなに苦しい目に合わなければならないのかという事が起る事があります。
でもそれは、これから先に起る使命のための、準備段階としての試練なのかもしれません。
この準備段階でつぶれてしまわないために必要なのは、やはり神様に信頼する信仰なのだろうなぁと思うのです。
③ 全てを委ねるとき
それでは次に見ていきたいのは、この様な試練によってどうなるんですか、という事です。
試練の中で、エリヤの身には何が起ったのでしょうか。
どうしてエリヤには、この様な試練が必要だったのでしょうか?
聖書にはこういう言葉があります。
詩編 34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
また、この様にも言われています。Iペテロ 5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
エリヤに必要だったのは、打ち砕かれた心、謙遜にへりくだる心です。
彼はまず、そのプライドが粉々に砕かれなければなりませんでした。
なぜなら、神様の力が最も働く時は、わたし達の力ではどうしようもない時だからです。
自分にできることであれば、神様が奇跡を起こしたりする必要なんてありませんよね。
わたし達が奇跡を見る事がないのは、多くの場合わたし達が自分でやってしまうからです。
あるいは、わたし達が自分にできる事しかしないからです。
神様の導きがある時にも、その中から自分にできる事を選び、そこだけしかしないのです。
それとももしかしたら、自分の力でやっていると思い込んでいるのかもしれません。
自分にできそうにない事は、最初から避けているという事もあります。
でも、考えてみていただきたいのです。
自分にできる事なんて、最初からたかが知れていますよね。
わたし達の力ではどうにもならないような事であるからこそ、そこに神様の力が働き、その時に初めて、わたし達は奇跡を目にする事ができるのです。
エリヤは、この準備期間であり、トレーニングの期間であるこの時期に、その事を身を持って体験する事になりました。
エリヤが世話になっている母子の家庭から、かめの粉が尽きる事はなく、つぼの油がなくなる事はなく、彼らが飢え死にする事はありませんでした。
しかしその子供は、その後病気によって死んでしまったのです。
母親は、エリヤに訴えました。
I列王記 17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
もともと最後のパンを作って食べたら死のうと思っていたのに、何を言っているんだという感じがしなくもないですが、気持ちはとてもわかります。
誰かを糾弾しないではいられなかったのでしょうね。
辛いのは聴いているエリヤです。
自分のせいで病気になったわけではないでしょうけど、何もできなかい自分の無力さを本当に思い知った事でしょう。
エリヤは三度、その子の上に身を伏せて、主に祈りました。
「私の神、主よ。どうかこの子のいのちをこの子の内に帰して下さい。」
すると、この子供は生き返ったのです。
こんな事、エリヤ自身の力ではできるはずがありません。
エリヤはこの試練の中で自分の無力さ、霊の貧しさというものを心から理解して、すべてを神様に委ねる事を学びました。
そして自分の力ではなく神様の力が働く時、そこにどんな力強い、素晴らしい奇跡を神様が見せて下さるのかという事を、身をもって体験する事ができたのです。
自分の無力さを知り、神様に全てを委ねる事は、わたし達の力です。
でも、わたし達は自然にそれができるようになるわけではありません。
それを学ばされる時にはとても辛い経験もするものですが、その先には祝福がある事を信じて、主に従っていきたいものだと思います。