I列王記18:16-21, 36-39 『⑦ 主こそ神です』 2011/02/20 松田健太郎牧師

I列王記18:16~21、36~39
18:17 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」
18:18 エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。
18:19 さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。

18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
18:37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
18:38 すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。

先週に引き続いて、エリヤのお話です。
そこで、先週いらっしゃった皆さんには先週のお話を思い出していただければと思います。

イスラエルはソロモンが死んだあと、北イスラエルとユダというふたつの王国に分裂してしまいました。
北イスラエルの最初の王となったヤロブアムは、神様から選ばれて王になったにも関わらず偶像崇拝を始め、以来北イスラエルは偶像崇拝の罪を続けました。
今日の舞台となる時代はアハブという王様でしたが、これは中でも史上最悪の王でした。
イゼベルという異国の王女との結婚によって異国の偶像崇拝を持ち込み、広めたのです。
バアルとアシェラという偶像の教えによって、神殿には神殿娼婦があふれ、赤ん坊がいけにえとして捧げられました。
イゼベル達による迫害によって、多くの預言者は殺され、真の神様を信仰する人々は身を潜めるしかありませんでした。
イスラエルが悔い改めるために与えられた3年間の干ばつの後、エリヤはいよいよアハブと再会する事になったというのが今日の話です。

① 多数の意見や強い主張に流されてはならない
開口一番、アハブはエリヤにこの様に言い放ちました。

18:17 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」

普通に考えれば、アハブ王がイスラエルを惑わし、煩わせているのです。
しかし、自分の思いをもってイスラエルを導こうとしているアハブにとっては、悪者はエリヤであり、彼こそがイスラエルの平和を乱すものでした。
何しろエリヤの宣言によって、3年間の大干ばつが始まったのですから。

人々はバアルとアシェラを信仰し、自分に従っている。
そのお陰で周りの諸国とも関係がよくなってきて、これから繁栄していこうとしているところなのに、このエリヤが余計な手を出して、イスラエルの秩序を乱そうとしている。
それがアハブの言い分だったかもしれません。

罪が当たり前となってしまった世界の中でその罪を暴こうとするなら、わたし達はこの時のエリヤと同じ状況に直面する事になります。
ある会社員は、会社の不正を明らかにしようとした時に、「こんな事はどこでもやっている。会社で働く数百人の社員たちを路頭に迷わせる気か。」と言われました。
また学校で、いじめを止めようとしたばかりに、今度は自分がいじめられるようになるという事もよく聞く話です。
あるいは、こんな風に言われた経験はないでしょうか。
「あなたは日本人なんだから、日本の神様を崇めていればいいのだ。」
「どうしてそんな異教の宗教を持ち込んで、家の平和を乱そうとするんだ。」
1%しかクリスチャンがいない日本の国では、わたし達がクリスチャンとして生きるというだけで平和を乱す者とされてしまう事もあるのです。
そのようにして、多数の意見が力を持ち、世の中を動かしていきます。

イスラエルにはたくさんのバアル信仰者、アシェラ信仰者がいましたが、それでも全ての人がそうだったわけではありません。
でも、国王を始め権力者は偶像崇拝を奨励し、もともと仕えていたはずの神様を信仰する人達はどんどん迫害され、容赦なく殺されて行きました。
そのようなプレッシャーの中で、大多数のイスラエルの人々は流されている状態だったのです。

しかし、多数の意見が必ずしも正しいとは限りません。
イエス様は、むしろ滅びの道は大きく、命に至る道は小さいと言っています。
大多数の人が滅びの道を選んでしまい、命への道を見出す人は少ないのです。
わたし達は、多数の意見だからと言って考える事なしに流されてしまってはいないでしょうか?
わたし達は例え人から責められる事があっても、正しい事のために行動しなければならない事もあるはずです。

② 主が神であればそれに従え
さて、エリヤとアハブが話し合うその場には、おびただしい数のイスラエル人たちが集まり、事の成り行きを見守っていました。
どうしてこんな野次馬ができたのか、その理由をエリヤは見抜いていました。

18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。

そもそもイスラエルの人々はバアルを本当に神として信じているのかと言えば、必ずしもそうではなかったのです。
バアルの預言者となってしまった人達はともかく、ほとんどの人達はイゼベルを恐れていたのであり、周りの雰囲気にのまれていただけに過ぎません。
実は多くの人達は、バアル信仰にうんざりしながらも、勇気をもって主に従う事ができないでいたのです。
それに向かってエリヤは言います。
「いつまでどっちつかずでいるつもりなのか? 主が神だと信じるなら主に従い、バアルが神だと思うならバアルに従いなさい。」
これは、あなたは主なる神様を信じますか、それともバアルを神として信じますかと言う話ではありません。
どちらを信じるかではなくて、どちらに従うのか、とエリヤは言っているのです。
その問いに、イスラエルの人々は答えませんでした。
いや、“無言”というのが彼らの答えだったという事です。

救いは行いによるのではなく、信仰からであるというのが、ローマ人への手紙にも書かれている聖書の真理です。(ローマ3:28)しかし同時に、「わたしはイエス様を信じます。」と言う事が信仰ではありません。
信じているならば、行いが伴うはずなのです。

ヤコブ 2:17 信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

エリヤとアハブの対決を見守っていた人々は、バアル信仰にはうんざりしていたし、恐らく主なる神様への信仰を忘れていなかったはずなのです。
これまでは身を隠し、その信仰を隠していたという事も仕方のない事かもしれません。
でも今は、神様によって遣わされた預言者であるエリヤがそこにいて、バアル信仰と対決しようとしているのです。
今こそ、どちらの側に立っているのかを明らかにするべき時のはずです。
しかし、誰も何も答えない。
それは、彼らが神様よりもアハブやイゼベルの力を恐れていたという事に他なりません。

これは、わたし達にとってもとても厳しい話だと思います。
わたし達も、自分がクリスチャンであることを隠してしまう誘惑に駆られる事が頻繁にあるからです。
また、神様に従いきれない自分を見出す事もあるからです。
聖書はそんなわたし達を励まし、わたし達を神様に立ち返らせてくれます。
わたし達はこの時のイスラエルの人々のように無言で答えるのではなく、神様に立ち返ることで答えたいものですね。

③ バアルとの対決
さてこのようにして、バアルの預言者450人と、エリヤ一人の対決が、カルメル山上で行われました。
二頭の牛が用意され、いけにえとして裂かれ、薪の上に乗せられます。
人間が火をつけるのでなく、預言者の呼びかけに答えて天から火を送ってそのいけにえを焼き付くし、自ら献げ物を受け取る神こそがまことの神だ、という対決です。
まず450人のバアルの預言者たちが自分たちの祭壇を用意し、バアルに呼びかけます。
そうしてバアルの預言者達が大声を上げ、飛びまわり、自分の体に傷をつけても、結局何も起る事はありませんでした。

次はエリヤの番です。
エリヤは壊されていた祭壇を築き直し、周囲に溝を掘ってから薪と雄牛を整えると、その上に水を注ぐように命じました。
そうしていけにえが水浸しになると、エリヤはたった一言、こう祈ったのです。
18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。

18:37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」

すると天から火が降り注ぎ、いけにえを舐めつくし、完全に焼き尽くしてしまったのです。
それを見ていた人々は、「主こそ神です、主こそ神です。」と言いました。
先ほどまで無言を決め込んでいた人々も、さすがに認めざるをえなかったのです。
神様の力がどれほど大きく、イゼベルよりも強いかという事を目の当たりにした瞬間でした。
それを目にしたエリヤは、彼らに命じました。「バアルの預言者を捕らえよ。ひとりものがすな。」
そうしてバアルの預言者達は捕えられ、ひとり残さず殺されました。

エリヤが特別な存在だから、こんなすごい事が起ったんだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、聖書にはエリヤは私たち同じような人だったと書かれています。(ヤコブ5:17)
天から火を降らし、いけにえを焼き尽くしたのは神様の力です。
エリヤは神様に命じられた事をしただけであり、そこにエリヤの力は少しもありません。
敢えて言うならば、王の権力や、450対1という圧倒的な状況よりも神様を信じる信仰です。
そしてその信仰も、3年間の干ばつの間に、神様が試練を通して整えてくれた結果なのです。

一方で、バアルの預言者達を捕えて殺したのは、人の力です。
ある意味では、イスラエルの人々が最初からやろうと思えばできた事なんです。
しかし、彼らは多数の力を恐れるあまりに行動に移すことができませんでした。
神様の力を目の当たりにして体験した時、立ち向かう勇気が与えられ、人々は勝利を収めたのです。

エリヤとバアルの預言者達との戦いは色々な事を教えてくれます。
450人のバアルの預言者に対して、たったひとりで立ち向かうという事は、普通に考えればあまりに無謀な事でした。
誰ひとり味方をしてくれない中で、神様だけを信じて戦いに臨むという事。
わたし達にも、そのような戦いが訪れるかもしれません。
クリスチャンが1%未満の日本にいれば、可能性は十分にあるでしょう。
その時わたし達は、自分の信じる信仰に従って行動する事ができるでしょうか?
わたし達に必要なのは、エリヤのように神様を信じて従い続けるという事です。
大丈夫、わたし達にもできます。
そのための力は、神様が備えて下さるのですから。

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