I列王記19:1-18 『エリヤ~落ち込んだ時のために』 2009/11/01 松田健太郎牧師

Ⅰ列王記19:1~18
19:1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。
19:2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
19:7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。
19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。
19:9 彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。
19:10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
19:14 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
19:15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
19:16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。
19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」

ある小学生のお子さんが事故に合い、亡くなられるという悲しい出来事がありました。
突然のお別れに、周りの人たちは驚きと悲しみに打ちひしがれました。
そのお子さんの父親は、ある教会の牧師でした。
彼は葬儀の時にも涙を流すことなく、笑顔さえ見せて自ら子供の司式を執り行ったのです。
「クリスチャンにとって死は別れではない。だから突然の事故も悲しくはない。主が共におられるのだから、悲しんではならない。」
それが、礼拝の中でのメッセージでした。

彼の言っていることが完全に間違っているとは思いません。
そして、教会の信徒たちをつまずかせてはならない、という信念は立派だとも思います。
でも、本当にそうなんだろうか? と僕なんかは思ってしまうのです。
クリスチャンは、悲しんではならないのか?
クリスチャンは、辛いと思ってはいけないのだろうか?

Ⅰテサロニケ 5:16 いつも喜んでいなさい。という言葉が、聖書の中にはあります。
しかし、たった一節の言葉だけを取り出して、それが全てだと片付ける事はできないと僕は思います。

その言葉を大事にするあまり、自分の中の悲しみや辛さに嘘をつくなら、わたし達はむしろ別の罪を重ねてしまう事になるのではないでしょうか。

クリスチャンであろうと、なかろうと、わたし達は失敗すれば落ち込み、時にはウツ状態になる事だってあります。
それはわたし達が弱いからなのではなく、わたし達の心が自分に嘘をつくことなく、正常に働いている証拠です。

今日はエリヤの話の最後です。
エリヤは850人の異教の預言者たちと対決して、勝利しました。
エリヤは数々の奇跡を行い、後世に伝えられるような預言者でした。
エリヤは死を経験する事なく、そのままの姿で天に上げられた数少ない人類のひとりです。
エリヤは、どこからどうみても、偉大で人並み外れた人でしたが、そんな彼も、わたし達と同じように落ち込んだのです。
モーセも、エレミヤも、ペテロも、パウロも、みんな落ち込みを経験しました。
クリスチャンも落ち込みます。
今日はエリヤの人生を通して、落ち込みと回復について共に学んでいきましょう。

① 神の民の落ち込み
エリヤとの対決に破れ、850人の預言者たちを失ったアハブは、喧嘩に負けた子供が母親に泣きつくように、妻のイゼベルに泣きつきました。

19:2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

その時、大の男、大預言者と呼ばれたエリヤが、イゼベルの言葉に恐れ慄いたのです。

19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

つい先ほどまで、最悪の王アハブと、850人の預言者たちとの戦いに勝利し、天から火が下るという奇跡まで経験したエリヤが、どうしてこのような状態になってしまったのでしょうか?

第一にエリヤは、アハブと預言者たちとの戦いの中で力を使い尽くしていたからです。
天から火を降らせ、奇跡を起こしたのはもちろんエリヤではなく、神様です。
しかし、エリヤはこの戦いの中で極度な緊張の中にあり、そこで力を出し尽くしていたのです。
とうとう勝利を手にし、力を抜こうとした途端、次はイゼベルとの戦いが始まろうとしている。
彼には、それに立ち向かう気力も、元気も、そして信仰の力も残っていなかったのです。

時としてわたし達には休む事が必要です。
わたし達の人生には容赦なく次の問題が飛び込んできて、休みなく解決を求められますが、それを続けていればやがて破産して力尽きてしまうのも無理のない話しです。

第2に彼は、自分ひとりで荒野に出て行ったという事です。
わたし達は何か悩みを抱える時、ひとりになりたいと思うものです。
しかし、わたし達がひとりで解決できる事には限界があります。
いま自分が抱えている問題を他の人に話して、聞いてもらうだけでも、頭の中が整理されて問題に立ち向かう力が与えられる事もあります。
わたし達には、重荷を分かち合う仲間が必要なのです。

第3に、エリヤが自分を歴史上の人々と比較して、「私は先祖たちに勝っていませんから。」と必要以上にハードルを上げてしまったという事です。
素晴らしい信仰者の証しは、時としてわたし達の手本となり、励ましになります。
しかし、間違えた受け取り方をするとわたし達は素晴らしいクリスチャンになれない自分を責める種になるのです。
「自分はどうしてあの人のようにできないのだろう。あの人のようになれないのだろう。」
皆さんは、その様な思いに苦しめられてはいないでしょうか。

僕自身、素晴らしいメッセージをする牧師や、人々を導いて大きな教会を作った牧師と自分を比べてしまって落ち込む事があります。
しかし、わたし達に与えられている人生は、他の人の人生と同じではありません。
神様はわたし達それぞれに使命を与え、それに見合った成長をしていけばいいのです。
成功という結果だけを求め、方法論を学んでどれだけそれを真似してみても、わたし達には同じようにできるわけではないのです。
逆に言えば、他の人にはなく、自分にだけ与えられている賜物や役割というものにこそ、わたし達は目を留めていくべきなのだと思うのです。

② 落ち込みがもたらすもの
さて、落ち込んでしまったエリヤは、自信を失くし、孤独に打ちひしがれました。
ストレスが過剰になり、ウツ状態になってしまうと、思い浮かぶ事はネガティブで悲観的なものばかりになってしまうものです。
さらに、何をする気力も失ってしまい、起き上がることすらできなくなっていきます。
そしてついには、死んでしまった方がいいのではないか、死んでしまえば楽になれるのではないかとばかり考えるようになってしまうのです。

クリスチャンであるかどうかに関わらず、わたし達日本人は、このような落ち込みへの対処を苦手としているのかもしれません。
だからこそ、先進国ではずばぬけて多い、年間3万5千人もの自殺者を出し続けてしまっているのではないでしょうか。
それでは、エリヤの落ち込みに対して、神様はどのように対処したのでしょうか。

③ 落ち込みからの回復
神様は、エリヤにこの様に声をかけました。

19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。

神様がエリヤに与えた対処法の第一は、食べ物と休息でした。
神様はエリヤに、「私への信仰があればそんな風にはならないはずだ。預言者のくせにだらしがないぞ。」と叱りつける様なことはしませんでした。
また、「徹夜と断食で祈り、罪を悔い改めて悪霊を追い出しなさい。」とも命じませんでした。
しかし、わたし達は苦しんでいる人に対してこの様なアドバイスをしたり、自分自身をそのように追い込んでしまう事があるのです。

わたし達がストレスと疲労でいっぱいいっぱいになって、もうどうしようもないという状態に陥った時、わたし達にまず必要なのは食べて、休む事です。
当たり前のように思えなくもないですが、これがなかなかできません。
しなければならないタスクが、次から次へと来るからです。
エリヤももしかしたら、じっとしていたらイゼベルに見つかって殺されるという思いに追われていたかもしれません。
しかし神様は、まず休む事を求められるのです。

次に神様は、エリヤにこの様に命じました。

19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

外に出たエリヤは、大風が山々を裂き、岩々を砕くのを目にしました。
しかしエリヤは、そのような激しさの中に神様を見つけ出す事はできなかったのです。
次に、自信が激しく地を揺らしましたが、その中にも天のお父様はいませんでした。
地震の後に、今度は激しい業火を目にしましたが、主はいなかったのです。
その火の後に、エリヤはかすかな細い声を聞きました。
優しく、彼にささやく声。
それこそが、神様の声でした。

この出来事を通して、天のお父様は、ご自分がどのような存在であるのかをエリヤに示したのです。
これまで神様は、もっと激しく、厳しく、力強く、恐ろしい存在だと思っていました。
しかし、激しさの後に囁かれる優しい声。
その声で神様は、「あなたは何をしているのか?」と問いかけたのです。
それは、エリヤの不甲斐なさを責める言葉ではなく、エリヤが冷静になって自分自身を見つめなおすための問いかけです。
エリヤは、自分に起こった出来事を神様に話しました。
自分がどれだけ頑張ったか、それが何をもたらし、自分がどんなに怖い目にあったのか。
それは、幼い子供が父親や母親に対して、泣きながら「怖かった」と訴えかける姿に似ていたことでしょう。
神様はそれを叱り付けるのではなく、エリヤの言葉にそっと耳を傾けたのです。
エリヤが見失いかけていた天のお父様との関係が、この時回復されました。
そして主は、わたし達に対しても同じようにして下さるのです。

三つ目に、神様が優しい声でエリヤに命じたことがありました。

19:15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
19:16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。

エリヤは預言者です。
預言者にできるのは、武器を使って人々と戦って勝利する事ではありません。
預言者にできるのは、預言です。
神様は、預言者であるエリヤに預言をさせ、彼が何者かという事をもう一度思い出させました。

この世界で生きていく中で、わたし達は時としてできない事もやるようにと言われ、自分以外の者になるようにというプレッシャーを受けます。
時として、それを避けることができないのは確かな事です。
そしてそれは、わたし達を著しく疲れさせ、力を奪っていきます。
しかし、神様はわたし達に、自分以外の者になるようにとは絶対に命じません。
わたし達にはすでに、神様に与えられた役割があるのであり、それを100%活かす事がわたし達の使命であって、それ以上のことではないからです。
それによってエリヤは自分の自信を回復し、アイデンティティをも回復していったのです。

最後に、神様がエリヤに与えた回復の手がかりがもうひとつあります。
それは、仲間です。
ひとつには、これから彼の弟子となるエリシャ。
エリシャは、エリヤにとっての跡継ぎであるというだけでなく、唯一彼と同じ視点を持つ事ができる理解者であり、心の友でした。

さらに、これまで孤独に、たったひとりで戦いを挑んできたエリヤにも多くの味方が与えられたのです。

19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」

信仰を持ってクリスチャンになるという事は、決して悲しまなくなったり、どんな事でも辛いとは思わないようになるという事ではありません。
どんなに落ち込んで、深い悲しみの中にあっても、主にあって必ず立ち直る事ができるという事なのです。
皆さんの中で、いま落ち込んでいる人がいるでしょうか?
今は大丈夫でも、やがて他人や自分自身に絶望し、落ち込む経験をする事は必ずあるでしょう。

そんな時には、どうかエリヤの回復を思い出してください。
そして何よりも、神様の計画にフォーカスを合わせることです。
神様はわたし達に対しても、エリヤに対してそうしたように必ず回復を与えて下さいます。
そして再び立ち上がった時には、これまでの自分が持っていなかった新たな強さが与えられているはずです。

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