I列王記22:29-39 『⑩ ヨシャパテ王とアハブ王』 2011/03/27 松田健太郎牧師
I列王記22:29~39
22:29 こうして、イスラエルの王とユダの王ヨシャパテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。
22:30 そのとき、イスラエルの王はヨシャパテに言った。「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。」こうして、イスラエルの王は変装して戦いに行った。
22:31 アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たち三十二人に命じて言った。「兵や将校とは戦うな。ただイスラエルの王を目ざして戦え。」
22:32 戦車隊長たちはヨシャパテを見つけたとき、「確かにあれはイスラエルの王に違いない。」と思ったので、彼のほうに向かって行って戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。
22:33 それで、戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。
22:34 ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」
22:35 その日、戦いはますます激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中に立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血は戦車のくぼみに流れた。
22:36 日没のころ、陣営の中に、「めいめい自分の町、自分の国へ帰れ。」という叫び声が伝わった。
22:37 王は死んでからサマリヤに着いた。人々はサマリヤで王を葬った。
22:38 それから、戦車をサマリヤの池で洗った。すると、犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。
22:39 アハブのその他の業績、彼の行なったすべての事、彼が建てた象牙の家、、彼が建てたすべての町々、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
今日から列王記のシリーズを再開です。
わたし達は、イエス様が生まれるずっと前の、イスラエルの歴史を学んできたのでしたね。
前回はユダ王国についてお話しするために、少し時間をさかのぼってお話したのですが、今日は再びアハブ王の時代に戻りたいと思います。
しばらく間が開いてしまったので、アハブ王に関して少しおさらいしておこうと思います。
ひとつの国だったイスラエルが、北イスラエル王国とユダ王国に分裂して50年くらい経ったころ、アハブ王は北イスラエルの王として就任しました。
アハブ王は、外国の王女イゼベルと結婚し、その国で信仰されていたバァルという偶像信仰をイスラエルに広めたんです。
それによって神殿には神殿娼婦があふれ、赤ん坊が生贄として捧げられるという恐ろしい事態が、イスラエルには起りました。
そのためアハブは、イスラエル史上最悪の王として覚えられるようになったのです。
そんな最悪の王の元に神様によって送り出されたのが、史上最高の預言者エリヤでした。
エリヤは神様の言葉を王に告げ、バアルの司祭たちと対決し、真の神は聖書の神様であるという事を証明して見せたのです。
そんな出来事から数年の月日が経った頃と言うのが、今日の話の舞台となります。
① 主の道を進むヨシャパテ王
さて、今日のお話しの中心となるのはもうひとりの王様、ヨシャパテです。
アハブ王は、イスラエル王国の王様ですが、ヨシャパテは前回お話しした、アサ王の子供であり、分裂したユダ王国の王様です。
イスラエルの歴史の中で新しい王様が出てきた時に注目されるのは、それが良い王様か悪い王様かという事も先週お話ししました。
良い王様か悪い王様かということは、政治的な手腕や良い人だったかどうかということ以上に、その王様と神様との関係によって判断されるという事でしたね。
ヨシャパテは、良い王様として知られる王様です。
それどころか、“主はヨシャパテとともにおられた(Ⅱ歴代誌17:3)”という滅多にない表現がされるほど、信仰豊かな王様だった事がわかります。
ヨシャパテはお父さんのアサ王と同じように、ユダの国に広がり始めていた偶像礼拝を取り除きました。
さらに、国中に祭司たちを送り、人々に神様の事を教えさせたのです。
つまりこの頃、ユダ中でバイブル・スタディが行われたという事です。
それによって、国中の人々が神様を求めるようになり、その評判は周りの国々までも及びました。
そして主の恐れが周りの地のすべての王国に臨んだため、ヨシャパテに戦いを仕掛ける者はだれもなかったのです。
そればかりか、ダビデ王やソロモン王の時代の時のように、他の国々が贈り物を持ってヨシャパテ王の元にやってくるようになり、この時代ユダ王国は大いに繁栄しました。
わたし達は、国の繁栄とか平和を考える時、産業がどうだとうか経済的な事であったり、外交的な問題を考えたりするだろうと思います。
あるいは、生活をするのに忙しくて、聖書の勉強をしているどころではないと思われるかもしれません。
しかし、本当に大切なのは神様との関係なのです。
それがわたし達の土台であり、わたし達を建て上げて行くものなのです。
もちろん、勉強をするだけで聖書を実践しなければ何の意味もありませんが、神様の御言葉を知り、神様と共に生きる事がわたし達を変え、わたし達の地域を変え、わたし達の国を変えるのです。
先日、フィジーで起ったリバイバルのビデオを見ました。
フィジー諸島共和国というのは、現在軍事政権によって支配されていたりして、政治的にはあまり良い状態ではありません。
一時は観光地として大きな発展をしましたが、結果として治安は下がり、犯罪が増えて悪い影響もたくさんおこるんですね。
そんなフィジーに、数年前にリバイバルが起りました。
リバイバルと言うのは信仰復興という意味の言葉ですが、特定の地域で多くの人がクリスチャンになる事を意味しています。
すると、フィジーの国全体が変わってきたんです。
町はきれいになり、犯罪率が劇的に減り、川の水の汚染度までが改善されたというのです。
人々の顔には昔のように笑顔が戻り、平和が訪れました。
政治的にはまだまだ問題がある国だと思いますが、人々の内側に起った変化は、国全体に影響をおよぼしているのです。
これからわたし達は、日本を立て直していかなければなりません。
そのためには物理的な働きももちろん欠かすことができませんが、それと同じくらい、神様との関係を確かなものにする事が大切だという事を覚えていていただきたいのです。
② 裁きの道を選ぶアハブ王
さてそんなわけで、最悪の王であるアハブがイスラエルを治めていた時、その兄弟であるユダの王様は素晴らしい信仰をもった王様でした。
でも、そればかりではありません。
分裂したレハブアムとヤロブアムの時代から、イスラエルとユダの関係はいつも悪く、争ってばかりいましたが、この時には争いが起らなかったのです。
ある時アハブ王は、アラムという国に奪われていたラモテ・ギルアデという町を奪還するために戦いを決意するのですが、その時にアハブ王は、ヨシャパテ王に援助を申し出ました。
I列王記 22:4 それから、彼はヨシャパテに言った。「私といっしょにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。」ヨシャパテはイスラエルの王に言った。「私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。」
これまで争いが続いていたイスラエルとユダに、一体何があったのでしょうか?
「私とあなたとは同じような者、私の民とあなたの民、わたしの馬とあなたの馬も同じようなものです。」とヨシャパテは言っていますね。
ヨシャパテは、本来一つの国であるはずのイスラエルとユダは、分裂していても協力するべきだと考えていたんです。
そこでヨシャパテは、アハブとイゼベルとの間に生まれた娘を妻として迎えたのです。
ヨシャパテは本当に素晴らしい王様だったんですね。
彼の考え方は、それ自体はとても正しい考え方だったと思います。
北イスラエルのアハブ王も、一見ヨシャパテの影響を受けて正しい道を進み始めたかのように見えました。
共に戦う事を引き受けるに当たって、ヨシャパテが「これが御心に適う事かどうか、神様に聞いてみましたか。」と問うと、アハブ王は400人の預言者達を呼んだのです。
I列王記 22:6 そこで、イスラエルの王は約四百人の預言者を召し集めて、彼らに尋ねた。「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。」彼らは答えた。「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。」
偶像バァルを信仰していたアハブ王の姿は、そこにはありませんでした。
どういう経緯でこの様な事になったのか、バァルやアシェラはどうしてしまったのかはわかりません。
バアルの預言者達が、エリヤとの戦いに敗北した事が、アハブを変えたのかもしれません。
あるいは、ヨシャパテとの縁組が、アハブ王を悔い改めさせたのかもしれない。
そんな風に思わせるほど、アハブ王は当たり前のように預言者達を召し集めたのです。
しかし、普段から神様との関係を深く築いている人は違います。
ヨシャパテは何か違和感を感じ取り、アハブ王に訊ねました。
I列王記 22:7 ところが、ヨシャパテは、「ここには、私たちがみこころを求めることのできる主の預言者がほかにいないのですか。」と言った。
この辺りの話も実に興味深いのですが、時間がないので大きく端折ります。
結局のところ、アハブ王は自分にとって都合の良い事を言う預言者だけを召し抱えていたのです。
たくさんいる預言者の中で、ミカヤという預言者だけがアハブを恐れることなく、神様の言葉を正直に伝えました。
そして、アハブは神様の怒りを買ったので、この戦いの中で死ぬのが神様の御心だという事をミカヤは伝えたのです。
問題なのは、自分に都合の悪い事を言うこの預言者を、アハブは遠ざけていたという事です。
更に、この戦いで死ぬと聞いたにも関わらず、アハブは自分にとって都合のいい事だけを言う預言者を信じてラモテ・ギルアデへと向かったという事です。
結局、神様からの言葉なんてどうでもいいのです。
アハブ王にとっては、神様の言葉は自分のしようとしている事を正当化するためのものでしかなかったという事です。
アハブ王はヨシャパテへの体面上、表面的には悔い改めて神様への信仰に立ち返ったようなふりをしていたけれど、実際には何も変わっていなかったのです。
アハブは、ヨシャパテ王と預言者ミカヤの言葉を聞いてラモテ・ギルアデには行かないという選択が最後のチャンスとして与えられていましたが、それでも自分の道を選びました。
神を恐れないというのは、こういう事をいうのでしょうね。
アハブ王は、自ら滅びの道を選んだのです。
そのようにして、先ほど読んだ聖書箇所へと入っていくのです。
アハブは神を恐れず、頑なに自分の選んだ道を進みましたが、彼には彼なりの策がありました。
変装して、自分が王である事をわからせないようにしたのです。
アラムの兵たちは初め、王服を着ているヨシャパテがイスラエルの王だと思って追いましたが、最終的には兵士が何気なく射た矢に当たって、アハブは死んでしまいました。
人の策略などで、神様の裁きを防ぐ事は出来ないという事です。
わたし達は、アハブ王ほどひどい事をする事はないかもしれません。
でも、わたし達もアハブ王がそうだったように、神様の言葉を選択し、自分に都合のいい事だけを聞くという事はしてしまいがちではないでしょうか。
「あなたを愛する。」という言葉は聞くけれど、「愛しなさい。」という言葉には耳をふさぐ。
「あなたを赦す。」という言葉は聞くけれど、「赦しなさい。」という言葉は聞かない。
自分は神様の言葉に耳をすませるけれど、「述べ伝えなさい。」という言葉は実行しない。
でもそれでは、神様がわたし達を導きたいと思っても、正しい道に導く事ができません。
あるいは、表面的な部分だけ取り繕うという事も、わたし達はしてしまいがちです。
表面的にどれだけ信仰があるように装っても、本質的には何も変わりません。
それどころか、自分は正しい事をしているつもりになりますから罪の意識も少なく、悔い改めないのでなおさら始末が悪いのです。
わたし達ひとりひとりが、決して表面だけ取り繕うのではなく、心から罪を認め悔い改め、そして主に従っていくなら、ユダに起ったようなリバイバルは必ず起ります。
そしてフィジーで起ったように、国全体をも変えて行く力となるのです。
日本が復興のための力を必要としている今、わたし達は神様の力によってこの困難を乗り越え、内側から変わっていこうではありませんか。