II列王記4:8-37 『死からいのちへ』 2009/11/08 小西孝蔵
Ⅰ.エリシャの召命とエリヤからの霊の継承
皆さんは、サンプル百貨店をご存知ですか。
インターネットで会員企業のサンプルを会員に配布して、お客さんのニーズをアンケートで答えてもらい、商品開発に役立てるというビジネスで、設立して4年目、今では400社、会員登録数30万人に成長しています。
この会社を立ち上げたのが、先日お話を伺ったクリスチャンの渡辺明日香社長です。
渡辺さんは、かつて百科事典で有名なブリタニカの会社で、販売世界1に選ばれた、やり手の女性ですが、ある時、祈りの中で、会社を辞めて独立した会社を作りなさいという神様の召命を与えられたのです。
聖書を開くと、ルカによる福音書19章の「これで私が来るまでに商売をしなさい」という言葉でした。
豊かな収入が保証されている職業を捨てて、ゼロからのたち上げでした。
最初は、何を商売にしていいのかもわからず、資本もわずかしかなく、パートナーもいないままスタートしました。
それからが、奇跡の連続で、祈り求めるうちに、パートナーが与えられ、スポンサーも与えられ、事務所と事務機器が与えられ、テレビの特集番組にも取り上げられて会員が広がってビジネスとして成功するところまで来ました。
彼女は、すべてを神様の業と受け止めて、神の栄光のために伝道のために営業しています。
毎日の真剣な祈りが聞かれて、次々と思いがけない神の導きによって道が備えられていくのです。
渡辺明日香さんのように、「信じて祈り求める人生」が今日のお話の中心になるので紹介させていただきました。
先週まで健太郎先生が3回預言者エリヤのお話をされました。
今日は、神の召命によりエリヤの後継者として神から選ばれた預言者エリシャの召命とエリシャが亡くなった子供を生き返らせた奇跡のお話です。
エリシャは、裕福な牛飼い農家で、12くびき(対)の牛、即ち24頭の牛を使って、広い農地を耕すような当時としては豊かな資産家でした。エリシャは20代のころエリヤから見出され、声をかけられたとき、即座に飼っていた牛を放り出し、両親に別れを告げて、エリヤに従いました。
神様からの召命に従ったのです。
エリヤは、ヨルダン川のほとりで天にあげられる前、移動のたびにエリシャに「ここにとどまっていなさい」といいました。
エリヤは、恐らくエリアに試し、彼の自由意思にゆだねたのだと思います。
しかし、エリシャは、「私は、決してあなたを離れません。」と答えました。このことは3度繰り返されました。
エリシャは、あくまでエリアに従おうとしたのです。
列王記Ⅱ第2章9節「(ヨルダン川を)渡り終えると、エリヤは、エリシャに言った。
「私は、あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」
すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものとなりますように。」と言った。
エリシャは、エリアの持っていた神の霊を自ら受け継ごうと熱心に祈り求め続けていたのです。
列王記Ⅱ第2章11節「こうして、彼らがなお、進みながら、話していると、なんと、1台の火の戦車と火の車が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天に上って行った。」
こののち、エリヤに宿っていた主の霊がエリシャにとどまるようになり、預言者としての奇跡も行うことのできる霊的な力を持つようになりました。
ルカによる福音書第11章9節
「私は、あなた方に言います。求めなさい。
そうすれば、与えられるであろう。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば、開かれます。」同11節「してみると、あなた方も、悪い者ではあっても、自分の子供には、良いものを与えることを知っているのです。
とすれば、なおさら、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがあるでしょう。」
私たちは、こんなことは神様にわずらわせないで、自分の力でできると思いがちです。
自分が与えられた賜物を活かしてどのような形で神様のために、隣人のために、世の中のために役立てることができるのか常に祈り求めることがとても大事なことではないでしょうか。
教会において、仕事や勉強において、家庭において、友人関係において・・・なすべき事を祈り求めれば、主は、必ずこたえて下さいます。
最も大事なものは、神様の御心を祈り求めること、主は、助け主として、聖霊を遣わして下さいます。
2.エリシャを招き入れた婦人と子供の突然死
さて、成長の今日の聖書箇所列王記Ⅱ第4章8~37節のエリシャの奇跡のお話に移りましょう。
エリシャが、サマリアの北約40キロにあるシュネムという町に行った時、その町に住むある裕福な婦人が、エリシャを家に招いて食事をもてなしました。
彼女は、信仰心の篤い、愛にあふれた人であったようで、エリシャが神の人であると知って、夫と相談して、屋上にエリシャのために、休息所兼書斎としてのゲストルームを建てました。
エリシャは、婦人の厚意に感謝し、お礼に何をしてほしいと彼女に尋ねますが、彼女は、幸せに暮らしているので何も欲しいものはありませんと答えた。
ただ、彼女には、子供がなく、夫も年をとって子供ができそうにないとの情報をエリシャの召使のゲハジが伝えてきました。
エリシャは、ちょうど1年後に男の子を授かると彼女に予言するのですが、彼女は、まさかと思いました。
しかし、1年後には予言通り男の子が与えられたのです。どんなにか、彼女も、ご主人も喜んだことでしょう。
子供、特に男の子がいないということは、家系が途絶えてしまうし、老後に頼るべき身寄りもなくなるということで、心の底では、不安があったことでしょうが、神様の憐れみにより、子供が与えられました。
彼女の喜びはいかほどだったでしょう。
男の子が大きくなった後、ある日、父と一緒にいたとき、突然頭が痛くなって、母親の所に連れてこられ、昼頃に母親の膝の上で亡くなってしまいます。
年取ってから与えられた跡取りの一人息子は、どんなにか可愛がっていて、大事な存在だったはずなのに、何でこんな目に会うのか、彼女の悲しみと嘆きはいかばかりかと察せられます。
しかし、母親は、諦めませんでした。
予想もしていなかった子供を授かると予言してくれた預言者エリシャのもとに、会えるか会えないかお構いなしに大急ぎでロバにとび乗って向かいました。
その時エリシャは、シュネムの町から約50キロほど離れたカルメル山に住んでいたので、多分、休まず歩き続けて、昼過ぎに出かけて、多分夜中か翌日の朝まで夜通しかかったのではないでしょうか。それだけ必死でした。
エリシャのもとにたどり着くと、彼女は、エリシャの足にすがりついて離れませんでした。
彼女は、激しくエリシャに訴えました。 「私があなた様に子供を求めたでしょうか。この私に気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」(28節)
エリシャは、彼女の求めに応じて、まず、彼の杖を渡して、召使のゲハジを遣わそうとします。
しかし、彼女は、代理ではなく、エリシャ自身に来てほしいと必死に願って、「主は、生きておられ、あなたのたましいも生きておられます。私は、決してあなたを離しません。」(30節)といいます。
エリシャは、かつて、自分が予言者エリヤにすがりついて離れなかったように、彼女も自分にすがりついて離れようとしない熱心な求めにただならぬものを感じたことでしょう。
エリシャは、彼女の後について、彼女の家に向かいます。
先に着いたゲハジはエリヤの杖を子どもの上に置きましたが何も起きませんでした。
エリシャが家に着くと、その子は死んで寝台の上に横たわっていました。人間的に見れば絶望状態に置かれたことになります。
神様は、しばしば私たちに試練をお与えになります。
時には、絶望と思える状況に置かれることがあります。
それは、神様が、私たちを子供としてこよなく愛しておられるがゆえに、試練を通じて、自分中心の生活から、天の父のところに立ちかえってほしいと願っておられるのです。
へブル人への手紙第11章5節~7節「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主は、その愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、鞭を加えられるからである.訓練と思って耐え忍びなさい。神は、あなた方を子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
3.子どもを生き返らせたエリシャの奇跡
エリシャは、部屋に入り、死んだ子供と二人きりで、主に祈りました。
エリシャは、子供の母親の気持ちを察し、亡くなった子供を目の前にして、深い悲しみと憐れみの気持ちをもったと思います。
エリシャは、自分の力ではどうすることもできないことも知っていたはずです。
人間の力では不可能なことでも、神様にとって不可能なことはありません。
彼は、祈った後、子供の上に覆いかぶさるようにして、顔と顔、手と手を重なり合わせていると体が温かくなってきました。
そして、部屋を歩き回って再び子どもの上にかがめると子供は7回くしゃみをして生き返りました。
主がいやしの奇跡を起こしてくださったのです。
母親は、部屋に呼ばれて生き返った子供を見て、エリシャの足もとにひれ伏し、地に伏してお辞儀をしました。
そして、子供を抱いて出て行きました。どんなにか嬉しかったことでしょう。彼女の切実な祈りが今聞かれたのです。
詩篇第6編9節「主は、私の切なる願いを聞かれた。主は、私の祈りを受け入れられる。」
エリヤとエリシャとは、それぞれバプテスマのヨハネとイエスと結びあうといわれています。
エリシャが人々の間に入っていて数々の奇跡をしたことは、イエスの奇跡と復活の予兆とも考えられます。
イエスのなされた癒しの奇跡の中で、エリシャの今日のいやしの奇跡に近いのが、会堂司ヤイロの娘の癒しです。
イエスは、娘が亡くなって家の人たちが悲しみ、諦めているのを見てこう言われました。
ルカによる福音書8節50節「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」
私たちは、しばしば肉体的な病や精神的な病に陥ったりします。
皆さんは、主の御手によって癒された経験をお持ちでしょうか。
私たちの祈りに主が憐れみをもって答えて下さり、何度か癒された経験をお持ちの方もいらっしゃると思います。
私自身も、自分が肉体的にも精神的にも弱い人間であり、祈りも乏しい人間です。
胃腸があまり丈夫でないので、時折体調を崩した時には、家内に祈って手を置いてもらって、神様に癒していただいています。
自分が公私ともに背負いきれない責任を負うなど精神的に不安を感じたりすることもあります。
先日、精神的な重荷を抱えていたおり、健太郎先生に祈っていただいたところ、平安を取り戻し、問題も解決の方向に向かいました。
ペテロⅠ第2章24節「(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためである。キリストの打ち傷のゆえにあなた方は、いやされたのです。」
この言葉がいつも私の心に響いてきます。
父なる神様は愛の方ですから、私たちの苦しみや苦痛はすべてご存じなのです。
イエス様の十字架に至る苦しみと贖いにより、肉体的な病でも、精神的な病でも、経済的な痛みでも、それが、神様の栄光を表すためであれば、必ず癒しはなされます。
どんな小さいことでも、神様は、私たちの祈りを聞いて下さり、時には解決に時間がかかっても、必ず、最善の事を成してくださいます。そのことによって神様の栄光があらわされるからです。
先日、今年の夏亡くなった元韓国の大統領で敬虔なカトリック教徒の金大中氏は、1973年ホテルグランドパレスに滞在中拉致され、船で日本海に航行中、足に重りをはめられ、海に投げ入れられる寸前まで来ました。
船倉の閉じ込められていた時、彼はずうっと祈っていたところ、ふと眼をあけると光のような存在が目に見えて、そこにキリストの臨在を感じたそうです。
しばらくすると、かすかに飛行機のエンジンの音が聞こえてきたそうです。
彼の友人の通報により、米国政府の要請で日本の自衛隊機が金大氏の捜索に向かい、彼を拉致したまま日本海を航行中の韓国船を発見したことが後でわかりました。
神様は、死と向かい合わされた絶望の中でも、その御手によって救い出されるという奇跡を起こされたのです。
彼は、生還して自宅に戻った時に、日本の取材陣にこう言ったそうです。「暗闇の中でも尚日の出を信じ、地獄の中でも尚神の存在を疑わない。」と。
私たちの肉体は、いつかは滅びます。
肉体的な癒しは、神様の愛と憐れみの業としてなされますが、最も大事なのは、神様が、御子イエス・キリストを通して、私たちに聖霊を与え、復活されたイエスとともに永遠の命を与えられたことです。
ヨハネによる福音書第11章25節「私たちは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」肉体の滅びは誰でもいつかやってきますし、肉体的精神的な弱さや欠陥は、取り除かれないかもしれない。でも人間的な弱さのうちに神の恵みが溢れ、神の力が完全にあらわされるのです。
今日は、エリシャがエリアからの継承を熱心に祈り求めていたこと、シュネムの婦人が亡くなった子供の生き返りのために切実の求めていたことに対して、神様は、彼らの真剣な祈りにこたえて下さったことを学びました。
どんな試練の時でも、恐れず、主を信じて、祈り求めているうちに、主は、私たちの痛みや必要なものをご存じで、それらを癒してくださり、与えて下さるお方であり、必ず最善となることをして下さいます。
主は、私たちに聖霊を遣わし、困難に立ち向かう力もお与え下さる、そして、決して滅びることのない永遠のいのちと生きる喜びを与えてくださいます。
この1週間も毎日、聖書の御言葉をいただき、祈りを捧げ、そしてすべての事に対して感謝を忘れず、主に委ねていこうではありませんか。