Iヨハネ1:5-10 『自分の影に背を向けて』 2008/02/03 松田健太郎牧師

Ⅰヨハネ 1:5~10
1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10~12)

聖書には、私達は罪人であると書かれています。
その罪とは、私達が創造主である神様に背く罪です。
“背く”という字は、背中の“背”と書きますね。
私達が罪の中にある状態とは、私達が太陽に背を向けているようなものなのかもしれません。

みなさん、太陽に背を向けて歩くとどういうことになるでしょうか?
太陽に背を向ければ、私達は必ず自分の影を踏むようになります。
同じように、私達が神様に背く時、私達は誰でも心の闇という影を踏んで歩く事になります。
心の闇とは、孤独や劣等感、自己嫌悪、挫折感、失敗、過ち、罪とが、憂い、癒されていない過去の傷、罪責感、羞恥心、性格上の悩み、病気や悪癖などです。

自分の影を踏まないようにするにはどうしたら良いでしょうか?
私達が影を踏まないためには、方向転換をして太陽の方を向けばいいのです。
私達が神様に背を向けて歩む事を止め、神様に向かってUターンする事を、“悔い改め”と言います。
イエス・キリストによる十字架の贖いを信じ、イエス様を心に迎え入れる事が、私たちの人生の方向転換です。
私達が悔い改めて、影から光の方に方向転換するなら、私達は光の中を歩む事になるのです。
この教会に集う皆さんが、ひとり残らずこの新しい道を歩み始め、イエス様と共に光の中に歩まれるようになる事を心からお祈りいたします。

① もう一度振り返る
さて、この様な形で悔い改めをした人の中には、振り向くことなく、そのまま光の中を歩み続ける方たちがいます。
その様な方々にとっては、クリスチャンとして生きる人生は本当に素晴らしいものだと思います。
聖書にはこの様に書かれていますね。

ヨハネ 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

一方で、ちゃんと従っていけばいいのに余計なところで振り向いて、何度も挫折しながら信仰生活を続ける方々もいます。
どちらかといえば僕も、この様なクリスチャンのひとりだなぁと思います。

聖書の中にこの様な言葉があります。

エペソ 5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

ああしかし、自分はちっとも光の子らしく生きていない。
クリスチャンとしての素晴らしい人生については聞かされるけれど、自分の人生は相変わらず問題だらけで、ちっとも変わったようには思えないのです。
それはそうですね。
せっかくUターンして、神様に向かって歩き始めても、何かあると途端にまた振り返ってしまって、自分の影を見つめながら歩む人生に逆戻りしてしまうからです。
私達はそれによって救いを失ってしまうわけではありませんが、神様に背を向け続ける限りは、私達の人生はノンクリスチャンの人生と何も変わりがありません。

私達はどういう時に、神様に再び背を向けて影を見つめてしまうと思いますか?
それは多くの場合、私達が罪を犯すときではないかと思います。

私達が人の悪口を言い始めた時、私達が誘惑に駆られて、してはならない事をしてしまう時、私達は神様の方を見て罪を犯す事ができませんから、神様に背を向けてしまうのです。
そうすると、私達の足元に見えるのはまたしても心の闇です。
そしてたちまちサタンが語りかけてくるのです。
「それでもお前はクリスチャンになったつもりか? 結局前と何も変わっていないじゃないか。キリスト教はお前には向かないんじゃないのか?」
そして自分の状況を見つめなおしてみて、「ああ本当にそうかもしれない。」と言って落ち込んでしまうのです。

皆さんは、本当にサタンの言うとおりだと思いますか?
こんな時、私達はどうしたらいいのでしょうか?
答えは簡単です。
もう一度、神様の方に向きなおればいいのです。
それは、最初に悔い改めた時と同じではありません。
自分では元も場所に戻ってきてしまったように思えても、もう一度振り返れば、そのすぐ後ろにはイエス様がちゃんと待っていてくださるからです。

② 罪が私たちを傷つける
みなさんは、イエス様が述べた最初の宣教の言葉は何だったかご存知ですか?
マタイによる福音書の4章にそれが書かれています。

マタイ 4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

『悔い改めなさい。』
決して耳障りのいい言葉ではありませんね。
これがイエス様の宣教にとって、とても大切な言葉です。
しかし、この言葉には、実に多くの人が反発をしました。
イエス様が十字架にかけられる事になったのも、ユダヤ人たちがこれに反発したからでした。
そして、人々がそのような反感を感じるのは、今でも同じですね。
自分に罪があるなんて、誰も認めたくありません。
そんな事は、誰にも言われたくない事だからです。

なぜ、私達は罪から離れなければならないと皆さんは思いますか?
悪い事をしたら神様に叱られるからでしょうか?
私達が罪から離れなければならないのは、罪そのものが私たちを傷つけ、苦しめるからです。
迷惑をかけないように思えることでも、とても害があるとは思えないようなことでも、罪の中には私たちを破滅させる働きがあるのです。

私達が十字架によって罪を贖われた後も、それは変わりません。
イエス・キリストを救い主として受け入れましたから、私達は罪によって裁きを受ける事はありませんが、罪から離れない限り罪そのものが持つ苦しみから離れる事もないのです。
愛する我が子が苦しむのを見て喜ぶ親がどこにいるでしょうか。
神様は、私たちが一刻も早く滅びの道から抜けさせるように、救われているのなら不必要な苦しみを受ける事がない様に「悔い改めなさい。」「早く、罪から離れなさい。」と言うのです。

ところが私達は、自分の中の罪に関して考え始めるとつい、どうして罪を犯さなければならなかったかという言い訳を始めてしまうんですね。
それは、火の中に片足を突っ込みながら、こんな所で焚き火をしたあいつが悪いんだとか、みんなやっているのになんで自分ばかり責めるんだとか、「やめろ」と言われると余計になりたくなるんだとか言っているようなものです。

誰が悪いんだとか、そんな事はどうでもいいのです。
犯人探しはやめましょう。
パウロはこの様に薦めています。

ローマ 12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

私たちが今しなければならないのは、私たち自身が足を火の中から出し、その場から離れる事なのではないでしょうか。
それは自分自身の罪を罪と認め、何度でも悔い改めるということです。
私達は同じ失敗を何度も繰り返してしまいますが、そこから抜け出すための力は、イエス様が必ず与えてくださいます。

③ 光の中を歩む
悔い改めるために必要なのは、まず私達が自分の中の罪を認めることです。
そしてそれを神様の前に差し出し、その罪から離れる事。
先ほど聖書箇所として読んでいただいたところをもう一度開いてみましょう。

Iヨハネ 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

自分の罪を認める事は、本当に勇気がいる事です。
罪を犯してはいけないと判っているからこそ、神様の愛の中にあって、十字架の血による贖いを受けて、それでもまだ罪を犯し続けてしまう自分が情けないし、許せないものです。
しかし、私達は何度でもその罪を自覚し、主の元に持ってこなければなりません。
そして、何度でも悔い改めなければなりません。
私達が悔い改める事をしなければ、私たちは神様に背を向け、罪の中に留まり続ける事となるのですから。

そして、主が必ず罪から離れる力を与えてくださると信じてください。
聖書には、罪への誘惑の事に関してこの様に書かれています。

IIコリント 10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

私たちを捨て置かず、試練には脱出の道を備えてくださる主に信頼して、私達が罪の連鎖から抜け出す事ができるように祈り続けましょう。
そして、私達は自分を正しいものとして罪に留まってしまうことなく、自分の弱さを認めて謙遜に、何度でも悔い改め続けましょう。

これから祈りのひと時を持ちたいと思います。
聖餐式に備えて、私達の内にある罪をもう一度主の前に明らかにし、悔い改める時間としましょう。
その後で賛美をはさんで、聖餐式に移って行きたいと思います。

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