I サムエル16:7 『無条件に愛される喜び』 2006/11/12 松田健太郎牧師
Ⅰサムエル 16:7
しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
皆さんは、自分が価値ある存在だということを知っているでしょうか?
旧約聖書の中にこの様な言葉があります。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
これは、神様が私たちひとりひとりに向けて語られた言葉です。
皆さんには価値があります。
皆さんは、愛されています。
この教会には子供たちが多いですが、当然のことながら、子供がいるお父さんお母さんもこの教会にはたくさんいらっしゃいますね。
親であれば、自分の子供を愛しいと感じ、誰が何と言おうと価値があると感じるのは当然のことです。
だとすれば、少なくとも私達は親には愛されていると言える事は当然の様に思えるのですが、残念ながら自分には価値があり、愛されていると誰もが自信をもって言えるわけではないというのが現実です。
本年度の日本の国内総生産(GDP)は世界7位だそうですが、世界191ヶ国中7番目に豊かな国である一方で、年に3万人以上の人々が自ら命を絶つ自殺大国でもあるという現実を見たとき、ひとりでも多くの方々が自分の中に価値を見出せたら、自分が愛されている事を知っていたら、もう少しみんなが幸せに生きていくこともできるのではないかなと思うのです。
今日は、このあと子供祝福式もありますが、子供たちの祝福を祈りつつ、子供たちが成長していくためには不可欠である“愛”ということに関して一緒に考えていきたいと思います。
① 条件つきの愛
誰でも人に愛されたいと思っています。
人に愛されるために私たちは、日夜いろいろな努力をするわけですね。
電車で雑誌の中吊り広告を見ていると、今“モテル”ということがひとつのキーワードになっていますね。
モテ髪とか、モテ顔とか、「この秋のモテファッションは・・・」などと書いてあったりします。
最近の女性雑誌の記事はどんどん恐いことを言うようになってくるなと思いますね。
モテないということがいかに惨めな事かということを延々と語り、あなたが愛されないのは美しくないあなたの責任だというような事が言われていたりします。
あるにきび化粧品のコマーシャルでは、「テレビでは明るく、いつもポジティブな事で知られている○○さんにも、昔は悩んでいた頃がありました。それは、彼女ににきびがあったからです。」と、まるでどんなに明るい人でも、にきびがあったらお終いだというような事が語られているのです。
モテたいという人々の思いは、人から愛されたいという、私たち人間の根底にある願望の現われに他なりません。
人は愛なしには生きられませんから、当然のことですね。
しかし、そこで現される愛の表現が、条件付の愛だということに問題があるのです。
美しいから愛される、可愛いから愛される、賢いから愛される、カッコがよければ愛される、良い子にして、言う事を聞けば愛される、稼ぎがよければ愛される。
ということは逆もまた然りということですよね?
美しくなければ愛されない、可愛くなければ愛されない、賢くなければ愛されない、かっこ悪かったら愛されない、良い子にして言う事を聞かなければ愛されない、稼ぎが悪ければ愛されない。
これは大人向けのテレビや雑誌を見て感じる事ですが、実はこの様な価値観は子供の頃から私たちの中にインプットされ続けているのだと言う事なのです。
それは、親の価値観を子供が引き継いでいくということでも言えるのですが、例えば童話のような一件なんの害もなさそうな所にもその様な価値観が潜んでいるのです。
考えてみれば、童話の中では美しくなければ価値がないというメッセージが繰り返し語られていますよね?
例えば白雪姫。
あるお城の女王様が、自分より美しい人がいることを許せないのです。
魔法の鏡に向かってこう言いますね?
「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しい人はだあれ? 私でしょ?」と聞くと、鏡は
「いいえあなたより美しい人が、ひとりだけいます。白雪姫です。」と答えます。
世界2位じゃないですか!
知花くららさんがミスユニバース第2位で大騒ぎですよ。
すごいことじゃないですか。
でも、彼女はそれでは満足できなかったんです。
世界2位では十分ではない。
「私は、一番でなければならない。」
彼女はこうして、白雪姫を殺そうとして、身を滅ぼしていくわけです。
もしかしたらこの女王様は、お母さんから、「あなたは一番になれる。一番になりなさい。一番でなければ価値がない。」そう言われて育ってきたのかもしれませんね。
世界で2番目に美しいということに満足して生きていけたら、彼女はどれほど素晴らしい人生を送ることができたでしょうか・・・?
眠れる森の美女もそうです。
これなんてもう、美しくなければ主人公になれないと言っているようなものですよね?
眠らされた主人公のもとに、ある日王子様が通りかかるわけです。
その女性があまりに美しいので王子様は馬を降り、思わず口付けをしてしまったところ目を覚ますわけですね。
内面的なものは何の関係もないわけです。
会話もなく、この女性の人格がどうだったかも関係なく、主人公は美しかったから王子様と結婚できて、幸せになっていきます。
これがもし、“眠れる森のあまり美しくない女性”というタイトルだったら・・・。(笑)
白い馬に乗った王子様はチラッと目をやり、
「あ、誰か寝ている。」と言って通り過ぎていきました。で、終わってしまうんですね。
みにくいアヒルの子。
これも、外見の話です。
みにくいアヒルの子が最後まで醜いままだったけれど、たくましく、幸せに暮らしましたという話だったらいいのですが、最後には他のアヒルたちよりも美しくなって、アヒルたちを見下ろして(見下して?)、飛び立っていくわけですね。
美しくなければ愛されない。
美しくなければ幸せになれない。
美しくなければ生きていけない。
ここにあるのはすべて、条件付の愛です。
私たち人間は、この様な条件付の愛の中で生き、社会生活を送っているのです。
皆が皆、美しいわけではありませんね?
みんながみんな賢いわけでもない。
人前で自分の意見が言えて、思いやりがあって、素直で、素晴らしい笑顔をだったらいいでしょうが、みんながそうなれるというわけでもない。
だからこの世界で愛されるためには、大変な努力をしなければならないわけです。
結果として、モテない人は負け組。
誰からも愛されない。生きる価値がない。
そのような価値観の中にいれば、自分が愛されているなんて思えなかったり、自分に価値があると思えないのも当然のことではないでしょうか?
しかし、神様の愛はそうではありません。
神様の愛は無条件だと、聖書は教えているのです。
② 弱くても、失望しなくていい
私達は普通、神様に選ばれる人々は、さぞや心が清く、頭もよく、容姿端麗で、素晴らしい人々なんだろうなと思います。
天から授かった才能を天才と言いますね。
あるモデルのキャッチフレーズは、“神から与えられた美貌”です。
そのような人からも愛され、羨まれる人々が神様から愛されていると感じるのは、本人にとっても周りの人にとっても難しい事ではありません。
しかし、弱いものをちりから起こし、貧しいものを引き上げて高貴なものと共に座らせるのが神様の御業です。
旧約聖書の中に、ダビデ王を選ぶという話があります。
預言者サムエルという人が、エッサイという人の所を訪れます。
このエッサイの子供が次の王として選ばれると神様が言ったからですね。
このエッサイという人には8人の息子がいました。
サムエルはエッサイに息子を全員呼ぶように言ったのですが、エッサイは7人しか呼びませんでした。そこにはダビデは含まれていなかったのです。
ダビデは父であるエッサイにとっても、取るに足らない存在でした。
数にも入れてもらえなかったのです。
サムエルはまず長男に目を留めました。
長男は背が高く、容姿も端麗でカッコいい。SMAPのキムタクみたい。
これが次の王だろうかと神様に聞いてみると、そうではない。
そこで神様が言ったのが、先ほど読んでいただいた聖書箇所なのです。
Ⅰサムエル16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
次に次男を見ると、これもカッコいい。KAT-TUNの亀梨くんみたい。
しかしこれも違う。
結局の所、父のエッサイでさえ忘れ去り、息子達の数に入れていなかったハナタレ小僧のダビデこそが、神様の油注ぎを受けて偉大なる王となっていったのです。
神様は、優れているものではなく、劣っている者を選び、そして立て上げて下さる。
神様って素敵ですね。
今年は、創世記を通してメッセージをしてきて、あともうすぐで創世記のシリーズが終わりますが、創世記の物語はその繰り返しですよね?
当時、壮大な力を持つエジプトのような王国ではなく、アブラハムというたったひとりの頼りない男から、神様は選びの国を始めると決められました。
相続権は、本当は長男だから権利を持っているはずのイシュマエルではなく、不妊の女サラから生まれたイサクへ。
イサクからは、イサクに特別愛されて男らしかった長男エサウではなく、プライドとコンプレックスの塊だったヤコブに。
ヤコブからも長男のルベンではなく、11番目の息子であるヨセフへと受け継がれていきました。
聖書の神様は、弱いものを選び、輝かせてくださいます。
聖書の神様と言うのは、虐げられた、情けない人々を用いるプロなのです。
Ⅰコリント 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
ですから私達は自分自身をみて、私は美しくないからダメだ、頭がよくないからダメだ、私のように心の弱い人間には価値がない、愛されるはずがないなどと思う必要はないのです。
それはイエス様に信頼する時、私達にはどんな状況でも開かれていくからです。
私達はどんな状況でも希望を持ち続ける事ができるのです。
なぜなら、たとえ私達が取るに足らない存在でも主は私たちを愛して下さり、主が私たちを選び、用いて下さるからです。
③ 神様の愛
聖書は愛をこの様なものとして定義しています。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(Ⅰコリント13:4~8)
皆さんは、この様に我が子を愛し、妻、夫を愛し、両親を愛し、隣人を愛する事ができているでしょうか?
私達が中々このような愛を持つ事ができないのは、私達が神様からこの様に愛されている事を知らないからです。
Ⅰヨハネ 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
もし私達が、神に無条件の愛で愛されている事を心から信じ、実感する事ができるなら、私達はもう人から条件付の愛で愛される必要がなくなります。
そして、愛してもらうためにする努力をする必要がなくなるのです。
そのような無条件の愛で私達が満たされた時、今度は私達が神様を愛し、自分を愛し、他の人々を愛せるようになるのです。
自殺者が年間3万人を超える今、不祥事や詐欺のために大人は誰も信用する事ができず、いじめや、非行や、ドラッグや売春などあらゆる犯罪が子供たちの社会にも浸透したこの世の中で必要とされているのは、人から得られる条件付の愛ではありません。
十字架の中にある無条件の愛こそが、私たちの心の闇に光を当て、永遠の希望を与える事ができます。
あなたには、価値があります。
あなたは、愛されています。
みなさんがその事を心の底から覚え、実感し、喜びに満たされますように。