『 Messy Church ① 主にある家族としての教会 』2012/09/02 松田健太郎牧師

さて、私たちは使徒の働きの中で、教会について多くの事を共に学び、考えてきました。
ここから使徒の働きは、パウロに焦点が当てられて、パウロの宣教活動に着いて多く描かれていくようになります。
その前に、私たちはもう少し教会に関して考えておきたいなと思うのです。

使徒の働きを通して、私たちが学ばされる教会のあり方のひとつは、キリストの体としての教会です。
わたし達は、それぞれに違う役割を持って生まれてきました。
わたし達が聖霊によって、そして互いの愛によってひとつとなる時に、私たちはひとつの体として機能する事ができるんだという話なんです。

ちなみにその前にやった黙示録の中では、キリストの花嫁としての教会像が表されていました。
これは、どんな困難に合っているように見えても、イエス様から命がけで愛されているという特別な存在としての教会像と言えるかもしれません。

今日から見ていきたいのは、教会のもうひとつの側面、“神の家族”としての教会像です。
これはどれも、聖書的な教会像であり、教会とはどのようなものなのかという事を、わたし達に分りやすく表してくれています。

これまで僕は、たくさんの本を読んだり、他の牧師の話に耳を傾ける中で、教会のあり方についてたくさん考えてきました。
そしていろんなところで教えられたのは、いかにリーダーを育成して、組織を確かなものにしていくかという話だったんです。
ある牧師からは、リーダーを育成するための弟子訓練プログラムを実践する事を強く勧められました。
別の牧師からは、教会のメンバーシップを明確にして、教会員ひとりひとりに責任を負わせることが大事だと教えてくれました。

そうやって、色んな教会があるんだなぁという事も学びましたし、それなりに理にかなっている事のようにも思いました。
でも、どの考え方しっくりこなかったんです。

それは、僕たちの教会、このクロスロード・インターナショナル葛西教会が持っている良さや、この教会に与えられている特徴からは大きくずれているように思ったのです。
そういった組織化や訓練の考え方は、確かにこの教会を大きく成長させる役に立つかもしれません。
でも、教会が組織となり、何か知識的な訓練が大切であるかのようにしていく事は、この教会の良さがむしろ壊されてしまうようにも感じていたのです。

そんな中、アメリカに行って一冊の本と出合いました。
このメッセージのシリーズのタイトルとなっている“Messy Church”というのがその本のタイトルです。
詳しい事はこれからお話ししていきますが、この本の中には、神の家族としての教会という事が中心となって書かれています。
そしてその教会像は、私たちの教会の方向性にとてもマッチしていると感じたのです。
それでは、主にある家族としての教会像とはどのようなものなのか、しばらくの間一緒に考えていきましょう。

① きたない教会
まずは、御言葉から見ていきましょう。

エペソ2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

聖書の中には、家族というものがとても大切な存在として描かれています。
最初の人、アダムとエバの関係ももちろん家族ですし、最初の殺人はカインとアベルという兄弟の間に起りました。
人類の新しいスタートは、ノアと3人の息子家族たちによって起ります。
アブラハムとロトの関係、アブラハムからイサク、ヤコブ、そして12人の兄弟へと受け継がれていく祝福は、全ての家族の物語の中で描かれています。
モーセも、姉のミリヤム、兄のアロンと共に神様のための働きをします。

そのほとんどは、決して理想的な家族と言えるようなものではありませんが、聖書の物語の中に、家族というものがいかに重要なものとして描かれているかを知る事ができます。
それでは、神の家族とは一体どのようなものなのでしょうか?

たとえば皆さんは、家族と言うとどのようなものを想像するでしょうか?
頼りになるお父さんと優しいお母さんの愛、温かい団らん、暖炉を囲んだ家族の交わり、そういうイメージを思い描く人もいるかもしれません。
そのようなイメージをすぐに持つ事ができる方は、素晴らしい家族に囲まれた経験をおもちなのでしょう。
でも思いだしてみてください、家族には確かにそのような素晴らしい部分もありますが、必ずしもそんな素晴らしいものばかりではありませんよね?
風呂の後に真っ裸で歩きまわり、所かまわずオナラをする父親。
口うるさくて、いつでも愚痴と噂話ばかりの母親。
部屋に入るとずっと出て来ず、いつもビデオゲームばかりで何も話さない息子。
友達と話したりメールをしたりで、膨大な携帯代がかかる娘。
家族の中には、決して美しいとは言えないそのような部分もある事でしょう。
しかし、それも含めて愛するべき家族です。

もう一つ違う話もしましょう。
モデルルームを見て、これは素晴らしい家だと思っていざ購入して住んでみると、どうしてこんなに違うんだろうという事に気がつかされるわけです。
少なくとも数年後には、全く違うものになっていたりします。
何が変わるのかと言えば、一言で言えば“生活感”です。

わたし達は、生きていれば汚れます。
生活していればゴミも出ます。
畳は焼けて赤っぽくなり、カーペットには染みが付き、壁には手あかが付き、柱はこすれて変色し、壁紙はぶつかって一部がはがれたり、子供の落書きやシールがつけられたり・・・。
リゾートのホテルのようだった初めの状態は、やがて見る影もなくなっていきます。
しかし、その汚れによって、家は自分たちの家になって行きます。

全ては、キレイだから良いとは限らない。
キレイではないけれど、そこに味がある。
決して表面的な美しさでは測る事ができない、家庭的な美しさ、それこそ家族が持っている魅力の一つなのではないでしょうか?

ピンと来ている方もいると思いますが、このシリーズのタイトルになっているMessyという言葉は、“きたない”とか“ちらかった”という意味の言葉です。
“きたない”教会とか、“ちらかった”教会と言うとどうかとも思いますが、それは、“生きている”教会でもあるという事です。


わたし達は多くの場合、教会というのは何の問題も起らない、素晴らしい場であるはずだと考えてしまいがちです。
冷静になって考えてみれば、教会とは罪人の集まりなのであって、問題ばかりが起りますし、実際に教会には問題が起りまくりなわけですが、なぜかリゾートホテルのような、キレイな場所を求めてしまうのです。

家庭や職場では問題ばかりで散らかっているのだから、教会くらいはリゾートのようであって欲しいと思うのかもしれません。
でも、キレイな場所である事を気にし過ぎると、そこにはキレイだけど生活感のない、冷たい空間が生まれてしまいます。

わたし達は互いに問題を隠し、善いクリスチャンであるかのように装い、必要以上の交わりは持ちません。
それによって、確かに問題は起らないのです。
でも、教会から離れれば問題だらけの生活に逆戻り、そこにある問題は、決して癒される事がありません。

それだけではありません。
問題がないように装う教会は、自分自身の中にある問題も押し隠し、隠せば隠すほどその罪は大きくなり、ある時突然大きな不祥事を起こして世間を驚かせるのです。

ソロモンの箴言の中には、このような言葉があります。

箴言 14:4 牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる

飼い葉おけをキレイな状態に保つために、大きな労働力である牛を捨ててしまうなんてバカげた事です。
同じように、教会を問題のない場所に保つために、抱えている問題を押し隠したりするのでは本末転倒ではないでしょうか。

家族とは、単なる好きとか嫌いではない、より深い愛を学ぶ事ができる場所です。
家族とは、決別することなくケンカをする方法を学ぶ事ができる場所です。
家族とは、物を公平に分け、互いのために喜んで働き、苦難の中を共に乗り越える方法を学ぶ場所です。
家族という単位の中で、わたし達は自分のアイデンティティを築き上げ、歴史や伝統を伝え、自分の生きる意味と目的を見出します。
家族の交わりの中で、わたし達は愛する事がどういう事かを学び、笑いのセンスを磨き、マナーの必要性を見いだし、常識というものを身につけていきます。

家族とはそういうものです。
そして、教会とはそのような場所となり得るのだという事なのです。
それは、誰が権威をもって教育を施し、堅固な組織を作り上げていくかという方法論とは全く違う教会です。
理路整然として、組織化された状態では決してありません。
しかし、そこに行くと落ち着き、本当の自分になる事ができ、問題もたくさん起るけれど、互いに愛によって結び付けられている教会。
わたし達の教会には、どのような魅力がすでにあるのではないでしょうか?
その強みを、これからもっともっと大きくする事ができるように、共に祈って行きたいと思います。

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