IIコリント3:18『 神様との親しい交わりを築く 』2011/06/26 松田健太郎牧師

今日は皆さんに祈っていただく時間を持ちました。
わたし達はこのようにして祈る時間が、もっともっと必要だと思います。
どうして、わたし達は祈るのでしょうか?
わたし達クリスチャンにとって、祈る事はどうしてそんなに大切なのでしょうか?
その辺りの事を、今日は少しお話してみたいと思います。

① 神様との親密な関係
先週も言いましたが、キリスト教の教理や教義を知ることよりも、もっと大切な事があります。
それは、神様との豊かな関係を築く事です。
教理や教義が大切でないという意味では、ありません。
教理や教義をそっちのけにしてしまうと、異端的な信仰に陥ってしまう可能性もありますから、ちゃんとした知識を持っている必要はもちろんあるでしょう。
しかしそれでも、神様との関係を深く築き上げる事の方が、それ以上に大切なのです。

わたし達クリスチャンにとっての成長とは、ただキリスト教の知識が増す事にあるのではなく、キリストに似た者と変えられていく事です。
教理や教義は、キリストに似た者となるとはどういう事かという知識を教えてくれるかもしれませんが、それを理解したから変われるというものではないのです。
むしろ、手っ取り早く身につけようとして、表面的な部分だけ取り繕ったものになってしまう可能性があります。
それは律法主義や行い主義の世界であって、神様が望んでいるものではありません。
わたし達は、内側から完全に変えられていかなければならないのです。

単純な話として、イエス様がなぜ死ななければならなかったのか、十字架の意味は何か、わたし達の中にある赦されなければならない罪とはどのようなものかという説明をされて納得する事ができたとして、わたし達はどれくらい変われるものでしょうか?
それよりも、赦されている体験、愛されている実感の中でわたし達の心は動き、変わるための力となるのです。
そしてわたし達が、神様と親密な関係を深めて行くに従って、わたし達はもっと神様に信頼し、委ね、従っていくことができるようになります。
そしてわたし達がそのような状態であるからこそ、聖霊はわたし達の内側に豊かに働いて、わたし達を導き、変えて行くことが可能となるのです。

聖書には、この様に書かれています。

IIコリント 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

それではわたし達は、どうやったら神様との関係を深める事ができるのでしょうか?

② 神様との親しさを計る
わたし達と神様の関係がどれくらい親しいものとなっているかを、ある程度ですが測る方法あります。
実はそれは、わたし達がどんなふうに祈るかという事で、計る事ができるのです。

少し考えていただきたいのですが、皆さんは仕事の上司や、同僚、あるいは町内会の幹事や、ご近所の方とどんな話をしますか?
仕事であれば、大体仕事の話をするのであり、挨拶と業務連絡くらいがせいぜいのところかもしれません。
逆に下手な事を話そうものなら、同僚に陥れられたり、上司から叱り飛ばされる可能性だってあります。

では、それがもう少し親しい友人だったらどうでしょうか?
友人であれば、会社の上司よりはもう少し砕けた話や、深刻な話もする事ができるのではないでしょうか?

それが親友ともなれば、気楽に何でも話す事ができるし、愚痴を聞いてもらったり、自分の心の深くで起っている葛藤や傷の事に関しても話す事ができます。

皆さんは、神様にどのような事を祈っていますか?
「○○になりますように。XXして下さい。」という祈りは、これは業務連絡ですよね。
「○○をいくつ発注しておいて下さい。」とか「XXの対応お願いします。」というのと同じです。
そういう祈りをしてはいけないという事ではありません。
でも、こういう祈りしかしないという事であれば、それは神様とあまり親しい関係が築けていないという事ではないかなぁと思うのです。

詩篇の中には、ダビデの祈りが詩の形で表されていますが、そこで祈られている事は様々です。
神様への感謝もあれば、賛美、喜びもあります。
しかし中には、「どうしてこんなに悪がはびこるのを許されるのですか。」という訴えや、「あの敵を殺して下さい。」という呪いの言葉も出てきます。
神様は、わたし達が本音で語る一つ一つの言葉を喜んで聞いて下さるのです。
わたし達が本気だからこそ、神様も本気で向き合い、わたし達を導き、力を与えて下さるのではないでしょうか?
そして、そのような本音でのトークが、お互いの親密さを深めて行く物なのです。

祈りという事に関して、「こういう風に祈ると良いよ。」という事を学ぶ事があります。それは、神様を賛美し、感謝し、罪の告白をし、そして自分の願っている事を祈るという感じです。
他にもいろいろあるでしょう。
しかし、祈りの中で神様を賛美するというのは、意外と難しいんですよね。
僕は祈りの中で、賛美をするという事が一番難しいのではないかと思っています。

これがなぜなのかという事は、神様との関係を考えてみるとすごくよくわかります。
賛美というのは、神様をほめると言う事ですよね?
皆さんがもし、近所のおばさんの事に関して、5つほめる言葉を挙げて下さいと言ったら、いくつ挙げる事ができるでしょうか?
わたし達は、それほど知らない人の事に関しては、大してほめる事なんてできないのです。

しかしそれが、わたし達の愛する人であれば、好きで好きでたまらない人の事であれば、「きれいだ。」とか、「頼りになる。」と、褒め称える言葉はいくらでも出てくるのではないでしょうか?
わたし達が神様を賛美する事が難しいのは、わたし達の神様に対する愛がそれくらいのものだから、という事なのです。

神様は、素晴らしいお方です。
この世界の全てを完璧に創造したお方であり、わたし達ひとりひとりを、ユニークにかつ最高作品として創って下さった方です。
ひとり子を犠牲にするほどにわたし達を愛して下さり、わたし達の罪を赦し、わたし達に命を与えて下さる方です。
痛んだ葦を折らず、消えそうな燈心を消す事もなく、必要な時にはわたし達の周りを囲む盾となり、御翼の陰でわたし達を守り、弱るわたし達の避け所となって下さるお方です。
主は優しく、時には厳しくわたし達を導き、わたし達と共に歩み、滅ぶままにはされないお方です。
主はわたし達の命であり、渇きを癒す水であり、道であり、真理です。
主こそわたし達の力であり、喜びであり、全ての全てです。
その栄光は永久まで、主を称える言葉に尽きる事はありません。

わたし達の祈りは、どうでしょうか?
神様との親しい交わりをもち、神様への愛で満たされているでしょうか?
今は貧弱な祈りだってかまわないのです。
しかし、神様との関係を、これからもっと密なものにしていくためにも、ぜひいつでも、どんな時でも、どんな事に関しても祈る者となっていきたいなぁと心から願っています。


最後にもうひとつ、小さなグループを作ってお互いに祈りあう意味についてもお話ししておきたいと思います。
祈りが、わたし達と神様との親密さを深めるものであるように、ともに祈る事は、わたし達がお互いの親密さを増す事ができる機会でもあります。
ともに祈る事を通して、わたし達は共に神様に近づいて行くからです。

皆さん経験されたと思いますが、人前で祈るという事はとても勇気がいる事です。
この様な言い方をしていいのかどうか分かりませんが、ある主の恥ずかしさを伴う事だと思います。
それは、わたし達が神様の前にへりくだり、無防備に語りかける事を他の人達にさらす瞬間だからではないでしょうか。

教会はキリストの体であり、わたし達はその一部です。
教会は家族であり、わたし達はその一員です。
わたし達教会を結びつけ、一致させるのは愛です。
しかし実際には、わたし達はお互いの関係の中で恐れを抱いたり、取り繕ったりしてしまいます。
お互いを赦せなかったり、愛する事が難しいと感じたりします。

わたし達は罪人ですから、それは仕方がない部分もあります。
でもそれは、そのままでいいという事ではありません。
わたし達は共に祈り合い、お互いに信頼して近づいて行く必要もあるのだと僕は思うのです。
それができなければ、この教会はやがて崩壊してしまうでしょう。
でも、それができなければ、隣人を愛することだってできないのではないでしょうか?

今後もこうして、一緒に祈っていくという時間を持つと思いますが、それだけではなく、皆さんも積極的に集まって、共に祈っていただきたいのです。
聖書のこの言葉で、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。

ローマ 15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
15:6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
15:7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。

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