ピリピ1:27-2:2 『 神の国⑤~神の国にある教会の役割 』 2012/04/01 松田健太郎牧師
ピリピ1:27~2:2
1:27 ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、
1:28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。
1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。
1:30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。
2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
わたし達は、イエス様を信じてそれに従う人生を歩む時、神の国に生きるようになります。
それでは、それは前倒しの天国なのだからただひたすら良い事ばかり起きる、素晴らしい人生なのかと言えば、そうではないというのが実際の所ですよね。
なぜなら、わたし達は罪によってわたし達が汚してしまったこの地上にいるからです。
この地上では、わたし達は異質な存在であり、人々からうとまれる事も少なくありません。
一方で、わたし達自身もそこから解放されたとは言っても、わたし達は相変わらずその影響下にあり、簡単に罪の状態に戻ってしまう。
どちらに転んでも、わたし達の人生には痛みが伴うのです。
その中にあって、パウロはわたし達クリスチャンがこの様に生きるようにと勧めています。
ピリピ 1:27 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、
1:28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。
パウロは、「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と言います。
それは、わたし達が神の国にふさわしい生き方をするという事でもあります。
わたし達が心をひとつにして、互いに愛し、尊敬し、神様をいつでも第一としているなら、それが人々への証となって、クリスチャンではない人達もわたし達を迫害するのではなく、わたし達を認めてくれるようになっていくだろうというのです。
人々がわたし達を通して神様と出会い、神の国をそこに見出します。
このようにして、神の国が拡大していくのです。
でも、これは簡単な事ではありません。
なぜなら、わたし達は戦いのただなかにいるからです。
パウロはこの様に続けています。
ピリピ 1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。
1:30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。
これが、わたし達クリスチャンがこの世の中で生きるひとつの現実だと思うのです。
わたし達は、内側には自分自身の罪や欲望との戦いがあり、外側には神様に背き迫害する人々との戦いがあります。
わたし達はクリスチャンである事によってまじめ過ぎると言われたり、付き合いが悪いと言われたり、空気が読めないと言われたりする。
“宗教をやっている人”という変な目で見られたりする。
でもそんな戦いはかわいいもので、先々週Davidさんが話してくれたように、住んでいる国によっては、命に関わるような戦いがそこにあるのです。
しかし神様は、こんな熾烈な戦いに私達をひとりで送り出したりなさるのでしょうか?
「わたしたち共に、イエス様がいて下さいます。」
それはその通りです。
でも、時にはわたし達自身がそのイエス様を見失ってしまうじゃありませんか。
そうすると、もう自分が何をしているのかもわからなくなってしまう。
少し考えてみていただきたいのです。
イエス様は、弟子たちを世界中に派遣する時、どのようにしていたか。
イエス様は弟子たちを、たったひとりで送り出していたでしょうか?
そうではありません。
イエス様はどんな時でも、ふたりをひと組にして、行動させていました。
また、イエス様はこの様にも言っています。
マタイ 18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
使徒たちは、どんな時でも集まり、ひとりだけで行動する事はありませんでした。
そしてその小さな集まりが、やがてそれぞれの教会として確立していったのです。
多くの場合わたし達は、たったひとりでそれぞれの戦場に派遣されているのではないかと思います。
教会を後にして、家庭に帰れば夫や妻はノンクリスチャンで、家庭の中でたったひとりで信仰をもって戦わなければならない。
職場に行けば、学校に行けば、PTAの集まりに行けば、たったひとりで戦わなければならない霊的な戦場がそこにあります。
わたし達が地の塩であり、世の光であり、神の国を拡大する働きをするという事は、そういう事ではないかと思うのです。
そんな中で、教会は何をする事ができるのでしょうか?
わたし達は教会というひとつの大きな集まりとして、お互いにできる事があるのではないかと思うのです。
②
パウロがこの様に勧めている言葉の中に、わたし達教会の大切な役割があるのではないかと僕は思います。
ピリピ 2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
わたし達は、互いに励まし合う事ができます。
互いに愛によって慰め合い、御霊の交わりによって祈り合い、愛情とあわれみを持つ事ができます。
わたし達はみんな、それを必要としているのではないでしょうか?
確かに、お互いに関わらなければ余計な重荷を背負う事はないかもしれません。
人間関係の中で傷つき、疲れる必要もないでしょう。
しかし、わたし達クリスチャンは誰でも、このようなクリスチャン同士の交わりも必要としているのではないかと思うのです。
肝心なのは、全ての事を互いに行うという事です。
聖書には、全ての事を“互いに”するようにと言われています。
「互いに愛し合いなさい。」
「たがいに赦しあいなさい。」
「互いに受け入れなさい。」
「互いに教え合い、互いに遣え合いなさい。」
これは、牧師だけの仕事でもなければ、賜物を持った特別な人だけがすればいい事でもありません。
わたし達はこの様にして、互いに重荷を背負い合う事によって、お互いを支える事ができるのです。
今日も、2~3人でグループになって実践する時間を持ちたいと思います。
今日はグループの中で、お互いの家族のために祈っていただきたいのです。
まずは何よりも、家族の救いのために。
また、癒しを必要としているご家族がいれば、その癒しのためにもお祈り下さい。
家族の中で関係の修復を望んでいる方がいらっしゃれば、その事も一緒に祈って下さい。
中にはまだクリスチャンではない方もいらっしゃいますから、その方は祈り方はわからないと思います。
その場合は、その方が神様の愛を知る事ができる機会が与えられるようにとお祈りいただけますでしょうか?
もちろん、クリスチャンでない方が祈る必要はありません。
また、家族は全員救われていると言う方もいらっしゃるかもしれません。
そうであれば、職場や学校の人たち、お友達のために祈ってはどうでしょうか?
お互いの家族の状況を分かち合い、祈り合う事。
そこにある重荷をひとりで抱え込むのではなく、互いに分かち合う事。
その中に、愛があります。
そこでわたし達にできる事はそれほど大きなことではないかもしれませんが、今わたし達にできる事から始めたら良いのではないかと思うのです。