ヘブル11:1-6 『 神に喜ばれる道を進む』 2013/12/29 松田健太郎牧師

ヘブル11:1~6
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

しばらくの間、教会の財政と、今後の事について祈ってきました。
ここ数か月の間にいらしたみなさんや、たまにしか教会にいらっしゃった方は、祈りの課題として出されたり、お知らせの時に話が出てくるけれど、何のことだろうと思われていた方もいたかもしれません。
わたし達の教会は、ここしばらく財政の赤字が続いていて、今後の運営をどうしようかという事を共に祈ってきていたのです。

年内にある程度の方向性を決めていかなければならないという話をしていましたので、今年最後の礼拝である今日、共にその事を祈っていきたいと思います。

さて、クロスロードはわたし達の教会である以上に、神様の教会ですから、わたし達は自分たちの考えだけで決断するのではなく、神様の御心を第一に求めていきたいと思います。

① 対話
わたし達がひとつ言えることは、わたし達の神様は、わたし達と対話してくださる神様だという事です。
わたし達は神様に、自分たちの求めることを伝えることができ、そして神様もまた、その御心が何であるかを教えて下さる神様なのです。
聖書にはこう書かれています。

アモス 3:7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。

聖書の中では、アダムとエバ、アブラハム、モーセをはじめとして、たくさんの人たちが語りかけて下さる神様の声を聴きました。
だからわたし達は、祈りとみ言葉を通して、神様の声に耳を澄ませるのです。

② 従う
2番目に必要なのは、わたし達が語られた主の言葉に従うという事です。
もしもわたし達が、自分に都合の良いことだけを聴き、自分の思いに反することには従わないとしたら、最初から神様の声を聴く意味は何もありません。

聖書にはこうも書かれています。

ヨハネ 8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

神様がわたし達に伝えることは、時としてわたし達の願うと事かけ離れたものです。
わたし達が思いもよらない事であれば、それに従うのは難しい事もあるでしょう。
それでも、神様の御心だと思えるなら、わたし達はそれに従うべきだと思います。
わたし達は自分がどこに向かって行くのか何もわかっていませんが、神様はご存じだからです。

③ 信頼
第三に、わたし達は神様の御心に従って進むなら、神様の導きを信頼するという事です。
わたし達は、誰かとの関係が深い事をどうしたら示すことができるでしょうか?
それは、わたし達がその人の言葉や約束、人格を信頼するという事ではないかと思います。
わたし達は、関係が浅かったり、愛する事ができない人の言葉は信用することができません。
しかし、家族であったり、その人との関係が深ければ、信頼して大切なものを預けたりすることができるのではないでしょうか?

神様との関係において、わたし達が神様を信頼することを、信仰と呼ぶのです。
聖書にはこう書かれていました。

ヘブル 11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

目に見えてから信じるというのは、神様を信用、信頼していないのです。
わたし達は、本当に神様を愛し、信頼しているなら、結果が見えない約束に対しても、死信じることができるのではないでしょうか?

聖書には、こうも約束されています。

Iペテロ 2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

わたし達は、結果が見えていない事に関しても、神様の導きを信じ、従い、平安でいる事が求められているのではないかと思うのです。

④ わたし達の進むべき道
さて、いよいよ今回の決断についてお話ししたいと思います。
結論を先に言うと、わたし達はこの場所に留まるべきだと、僕は感じています。
元々は、僕自身が教会の財政を危惧して、「このままではムリなので、何か手段を考えるべきだ」と言った事です。
自分が言い始めた手前、あれだけ言っておいて結局何もしないというのはおさまりがつかない部分もあるのですが、神様の導きがそこにあるのなら、それがベストだと思うのです。

神様の導きを、もう少し確かな言葉で言うなら、「わたし(神様)に信頼しなさい。」という言葉。それが、神様が僕に語られた導きです。
ある意味ぼやっとしていて、どうとでも取ることができる言葉です。
だから、どの道を進んでもいいという事だとも思いました。
しかし、経済的な状況を見て、小さくて駅から遠くても安い場所に引っ越すというのは、僕が神様を信頼できていないという事のように感じられました。

他にもいろんなアイデアもありましたが、どれも道が閉ざされているように感じました。
全てをガラっと変えて、教会堂を持たないという道もアリだと思います。
でも、その変化に耐えられる準備は、今のわたし達にはないような気もしました。
ムリをしてその道に進んでも、それはそれで祝福があると思っています。
でも、たぶん着いてこられない人たちもいます。
なるべく多くの人たちに繋がっていたいというのが、僕がここに留まる事を提案する理由です。

今のこの場所は、5年前に神様が導いて置いてくださった場所であり、ここに来たことには大きな意味があると当初から感じていました。
神様の教会であるわたし達を、神様がここに置いたなら、別の場所が示される時までここに留まるべきではないかとも思うのです。
その時が来たら、きっと神様がそれを起こして下さるでしょう。

さて、そうは言ったものの、状況が変わる決め手があったわけでは何もありません。
財政的な困難は続いています。
いろいろな形で、皆さんに協力していただくこともあるでしょう。
今、平日にこの場所を貸し出すという手段も模索中です。
そうなると、平日にこの教会を使う事に支障が出てくる可能性もある事をご了承ください。

また、今日の時点ではこのように言いましたが、これから3か月の間にガラッと方針を変えてしまう事もあるかもしれません。
やはり財政的に無理になって、出なければならなくなるという事もあるかもしれません。
僕が神様の御心を見誤っていたという事だってあります。
そのためにも、今後も祈っていく必要があります。
今も、これから共に祈る時間を持ちたいと思います。
どうか、この教会のために祈りいただければ幸いです。

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