マタイ6:5-13 『祈ることを教えてください②~どこで祈るのか』 2010/03/07 松田健太郎牧師

マタイ 6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

先週から、わたし達は祈りについて改めて学び始めています。
わたし達は、祈ることの大切さを学びましたね。
わたし達の魂が救われ、永遠の命を得たという事だけでなく、クリスチャンの人生の醍醐味は、わたし達が今生きている間にも天の御国を経験して、主に似たものとなっていく事だとお話しました。
そして、イエス様に似るために必要なのは、イエス様の習慣を学び、まねる事です。
イエス様はいつでも、祈っていたのでした。

ある時弟子たちは、ある事を教えて欲しいといってイエス様に訊ねました。
弟子たちはイエス様に、奇跡の起こし方を聞く事もできたでしょう。
あるいは、どうやって人を愛するのかと聞く事もできたでしょう。
しかし、弟子たちはイエス様に、このように訊ねたのです。
ルカ 11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

こうやって、イエス様が弟子たちに教えたのが、主の祈りと呼ばれるものですね。
“どうやって祈るのか”というタイトルで、主の祈りについては、次回のメッセージでお話したいと思っています
今日はその前に、どこで祈るのかという事にフォーカスを当てて、共に考えて見たいと思います。

① 急がば祈れ
「前回も見ましたが、イエス様がどのようにして祈っていたかという事を、もう一度見てみましょう。

マルコ 1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

マルコ 6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。

ルカ 5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

朝早くまだ暗いうちの起きて寂しい所で。
群集に別れ、そこを去って山の方に。
荒野に退いて・・・。
イエス様は祈るとき、いつも静かなところに行って祈っていました。

わたし達の生活は何と忙しく、騒がしい事でしょう。
仕事をやってもやっても、決して尽きる事がなくやる事が次から次へとできてくるような気がします。
日本という国で生活していると、本当にゆとりがなく、常に走り回っているような気がしますね。

イエス様の毎日もそうでした。
いつも群集に囲まれ、癒してくれとか、話を聞かせて欲しいと言って、その人々は尽きることなくイエス様の元を訪れました。
わたし達は、解決しなければ問題を、自分のキャパシティ以上に抱えると、ストレスが溜まってきますよね。
あまりにも色々な事が一気に押し寄せると、何もかもを投げ出してしまいたくもなるものです。
イエス様はそんな時、静まった場所に行って天のお父様との時間を過ごしました。

わたし達は、すぐにでもやらなければならない事に追われているわけですから、祈っている時間があったら体を動かさなければと思ってしまいます。
でも、そんな時にこそわたし達は、自分を追い立てる全てのものから退いて、神様の前に祈り、自分の力ではなく神様の方法によって問題が解決されていく事を求める必要があります。

今でもそうですが、僕が祈る場所として一番多いのは、トイレの中です。
仕事に煮詰まった時や、お客様からのクレームを受けたとき、「ちょっとトイレに行ってきます。」と言って、トイレで祈るんですね。
トイレは個室で音も少ないので、とてもプライベートな時間を持つ事ができます。
さすがにイエス様のように、山や荒野まで行く事はできませんから、僕にとってはトイレが一番静まって、心を穏やかにする事ができる場所なんですね。

トイレで5分ほど祈って戻ってくると、状況が良くなったりしているわけでは必ずしもありませんが、全ての事を神様に委ねた新しい目線で、僕は問題に立ち向かう事ができるのです。

② 祈りは神様に
トイレの中で祈るというと、あるお話を思い出される方がいらっしゃるかもしれません。
イエス様はある時、この様に言われました。

6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

トイレの中、というのは確かに隠れたところなのは確かなのですが、実はこれは、そういうところで祈りなさいという話とはまったく別の話です。
当時、熱心といわれていたユダヤ教徒の中に、パリサイ派というグループに属する人たちがいました。
彼らは人に見られ、人に聴いてもらうための祈りをしていました。
しかし、そのような人に見せるための祈りをしてはいけないと、イエス様は言っています。

祈りとは、人に聞いてもらうためのものではなく、神様に心を開くためのものです。
パリサイ派の人たちの目的は最初から神様に向けられたものではなかったのですから、それは祈りではなく、祈りの形をとったパフォーマンスでしかありません。
わたし達もまた、パフォーマンスの祈りをしてしまいがちです。

夫婦で祈っていると、夫が祈るわけです。
「妻が無駄づかいを止めますように。」
それを聞いて妻も祈るんです。
「夫がもっと稼いできますように。」
これは神様ではなく、相手に聞かせている祈りですね。
そういう事は、祈りではなく、直接言えばいいわけです。
言いにくい事を言うために、神様を利用してはいけないですよね。

みんなの前で祈るときなど、人の目を意識しすぎてしまう事もあります。
「世界に平和がありますように。」というような、ミスユニバースのスピーチのような祈りをしてしまう事もあるかもしれません。
でも、人に聞かせようとしてメッセージを込めたり、また良い言葉で飾り立てるのではなく、心から神様に語りなさいとイエス様は言われます。

きれいな祈りや、上手な祈りをしようとする事を止めてください。
うまい祈りが良いのではなく、スラスラと出てくる聞きほれるような祈りではなく、素直で正直な祈りこそ、神様に届く祈りです。
とぎれとぎれだったり、何を祈っているのかよくわからなくなってしまったり、表にはうまくでてこない心の叫びを、隠れたところにおられる神様は聞いてくださるのです。

③ 共に祈る祈り
祈りは、孤独に、独りだけでするものばかりではありません。
わたし達は共に祈りあい、互いに祈りあい、そして心をひとつにして祈る事ができます。

18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

わたし達が他のクリスチャンと共に祈るとき、それはひとりで祈る祈り以上の力があり、喜びがあります。
共に祈る事によって、わたし達は互いに支えあい、喜びを分かち合う事ができるからです。
祈りの中で、何をどう祈ったらいいのかわからない時、祈りの友がその祈りを補ってくれます。
祈りを通して御心を求めているとき、パートナーの祈りの中で導きを語られたりします。
わたし達の信仰が弱まり、祈る事ができない時、それを代わりに祈ってくれる人がいるのです。

聖書の中で、特に使徒の働き以降に、人々が共に祈っている様子をよく見る事ができます。
使徒 2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
彼らは毎日、共に祈り、共に聖書を読んでいました。
どんどん増え広がっていった初代教会の働きの裏では、このような祈りの輪が常にあったんです。

皆さんも、いつでも、どこでも共に祈る事のできる祈りのパートナーを見つけられる事をお勧めします。
日々の生活の中で辛い事があった時、重荷を感じるとき、ただ愚痴を言ってごまかすだけではなく、また人間的なアドバイスだけでなく、そこで共に祈る事ができるという事がわたし達クリスチャンのいいところですよね。
わたし達が共に祈るとき、祈りの答えを待つ辛いときも独りではありません。
そして祈りの答えを得たときの喜びも、分かち合えば数倍の喜びとなります。

その時、わたし達が心得るべき事は、わたし達が心をひとつにするという事です。

18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

心をひとつにするという事は、決して簡単な事ではありません。
人にはいろんな視点があり、いろんな意見があるからです。
互いを心から思い、主の御心を求めるのでなければ、わたし達は心をひとつにする事ができません。
だからこそ、そのような祈りはかなえられるのです。

ヤコブ 5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
5:14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。

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