マタイ6:7-13 『 祈る事を教えてください③ ~どうやって祈るのか』 2010/03/14 松田健太郎牧師
マタイ6:7~13
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
『祈る事を教えてください』というシリーズで、メッセージをしています。
それは、わたし達福音に生きるクリスチャンにとって、祈る事が本当に大切だからです。
わたし達の神様は、対話する神様です。
特別な人だけがトランス状態になって神様の言葉を代弁するのではなく、すべての人が神様の言葉に耳を傾け、自分の思いを伝える事ができます。
祈るという手段がわたし達に与えられているのは、神様がそれを望んでいるからです。
わたし達はみんな、イエス様に似た者となることによって信仰の成熟さを知る事ができますが、イエス様に似るためにはイエス様の習慣を真似て、学ぶ事が大切です。
イエス様が最も大切にしていた習慣、それは祈る事です。
わたし達は誰かとたくさんおしゃべりする事によって親しくなるように、神様といっぱいおしゃべりするのでなければ、神様との関係を親しくする事ができません。
祈りとは、わたし達が神様とおしゃべりをする事です。
わたし達にとって、祈る事は本当に大切な事なんです。
祈る事の大切さを、わたし達は繰り返し学んでいるわけですが。
でも、どうやって祈ったらいいのかわからない。
皆さんがそう感じているとしても、安心してください。
そのように感じたのは、わたし達だけではないからです。
ルカ 11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
弟子たちがイエス様から聞きたかったのは、奇跡の起こし方ではありませんでした。
弟子たちがイエス様に訊ねたかったのは、人をどうやって愛するかでもありませんでした。
弟子たちは、イエス様がしたどんな事よりも、祈りを教えてもらいたかったのです。
今日は、主の祈りと呼ばれる、イエス様が教えてくれた祈りについて、一緒に考えて行きたいと思います。
① 呼びかけ
まず最初にお話しておきたいのは、わたし達の教会では主の祈りを礼拝中に唱えるという事をしていないという事です。
以前はしていましたが、今はやっていないんですね。
不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんし、何度も聞かれた事があります。
わたし達が主の祈りを唱えない事にはもちろん意味があります。
それは、今日の聖書箇所に書かれている事によるのです。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
イエス様は、祈るとき、無意味に言葉を繰り返すような事をしてはいけないとわたし達に教えています。
主の祈りというのは、繰り返し唱える祈祷文として教えられたものではないのです。
むしろそうではなく、『こういう風に祈りなさい。』と教えられたものなんですね。
主の祈りそのものは、これこそまさに完成された祈りなので、これを繰り返し口にして暗記する価値のあるものです。
この祈りを十分理解したうえで言葉通りに祈るなら、それも悪い事ではありません。
しかし、これを唱える事そのものが祈りなのではなく、わたし達が神様に向けて話す言葉こそが祈りなのだという事を忘れてはなりません。
さて、主の祈りは、このように始まります。
6:9a,b だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。
イエス様はまず、わたし達が祈る神様がどのような方なのかという事を明らかにしているんです。
わたし達は主の祈りをどのように覚えていますか?
「天にまします、われらの父よ・・・。」この様な言葉ではないでしょうか?
しかし、現代に生きるわたし達がこの様な言葉で主の祈りを覚えてしまうと、イエス様が本当に伝えたかった事がむしろ伝わりにくくなってしまうのではないかなぁと思います。
イエス様はこの祈りを、ご自分の方言であるアラム語で、またその中でもとても親しみ深い言葉を選んで祈ったからです。
皆さんは、家でお父さんの事を何と呼ぶでしょうか?
あるいはまだ子供のころ、お父さんの事をどのように呼んでいたでしょうか?
「お父さん、お父ちゃん、おとん、おっとー・・・」色々な呼び方があると思いますが、イエス様は神様に対して。このような親しみ深い言葉で神様に呼びかけたのです。
どのような言葉で呼びかけるかそれ自体は、それほど大きな問題ではありません。
でも、わたし達が祈る対象である神様をどう見るかという事は、大きな問題です。
当時、神様を“天の父”とする思想はすでにユダヤ人の間にありましたが、この様に親しげに話しかける人は誰もいませんでした。
そこに、イエス様が教えたかった祈りの本質があるのです。
わたし達が祈っているのは、いじわるな神様や、気まぐれな創造主ではありません。
また、魚をほしがる子供に蛇を与えるような事はせず、卵を欲しがる子供にさそりを与えるような父親でもありません。
わたし達を気にかけ、愛し、育んで下さる、優しい天のお父様なのです。
② 神様のために
6:9c 御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
次に祈られるのも、自分自身のことではなく、神様の事です。
しかし、今さっき呼びかけた“お父さん”というイメージとは少し違いますね。
親しみ深い天のお父さんから、この世界を統べ治める全知全能の王の姿へとシフトを変えていくのです。
その御名があがめられ、主の王国が地上にあるように。
そして、すでに天で実現している主の御心が、この地上にも起こるようにという祈りです。
わたし達が祈る神様は、ただ優しいお父さんというだけではありません。
その御手には力があり、その声がこの世界のすべてのものを創造した、主の主、王の王がわたし達の神様なのです。
この祈りの言葉は、神様の権威と力強さを、わたし達に思い出させてくれます。
わたし達は、神様が世界の創造主であり、全知全能だという事を知っているにも関わらず、その力を忘れてしまう事があるからです。
また、わたし達は神様が世界のすべてを統べ治める方だということを知っているはずなのに、自分の主を忘れてしまう事があるのです。
わたし達の人生には、何をやってもうまくいかない時、というのがあります。
先日、教会でメッセージの準備をしようと思って、家を出ました。
しばらく行った所で、財布を忘れている事に気が付き、家に引き返しました。
財布を取ってしばらく行くと、ベスから電話がかかってきました。
そしてこう言ったんです。「家に帰ろうと思ったら、鍵を忘れて中に入れない。」
僕はまた引き返して、ベスに鍵を渡しました。
そしてそれまでの時間を取り戻そうと、少し早めに自転車をこぐんですが、そういうときに限って、曲がり角ごとに人が飛び出して来るんですね。
その度にブレーキをかけて、僕はイライラしながら、時にはあからさまに舌打ちをしたりして、教会への道を急いだんです。
そしてようやく教会に着いて作業を始めようとしたら、メッセージを保存したデータを家に置き忘れていたという事がありました。
この時には他にも色々な事が重なっていて、気持ちにもまったく余裕がありませんでした。
僕はもうイライラしてしまって、メッセージの準備をするどころではなくなったのです。
そこで僕は祈りました。「何でですか神様、これからメッセージの準備をしようという時に、どうしてこんな目にばかり合う(ほとんど自分の忘れ物なのですが)のですか?」
少しずつ落ち着いてくるに従って、僕は神様にこの様に言われているように感じたんです。
「あなたはわたしでなく、教会を主とし、仕事を主としている。」
そのころ僕は、出エジプトを通読していたのですが、ちょうど読んでいた6章の言葉が繰り返し僕の頭の中に響きました。
出エジプトの6章は、モーセが神様と出会い、エジプトにいる同胞たちを解放するようにと伝えられるところなのですが、繰り返し同じ言葉が出てくるんです。
それは、「わたしは主である。」という言葉です。
少しずつですが、その経験を通して、僕は神様が主であるという事の意味が少しわかったような気がしたんですね。
僕は礼拝の準備をしなければとか、明日までにメッセージの準備を終わらせなければという事に夢中になってその事に心が支配されていました。
だから、いろんなものを忘れるし、その予定が邪魔されるとイライラしてしまう。
でも、僕の主は神様であって、教会やメッセージの準備が僕の主ではないのです。
皆さんの心を支配するものは何でしょうか?
不安がわたし達を支配する時、何か恐れがわたし達を支配する時、辛い経験がわたし達を支配する時、怒りがわたし達を支配する時、わたし達は自分の本当の主を見失います。
そして、わたし達の主がどれ程の力を持った方なのかという事を忘れてしまいます。
今自分に見えている事だけが現実となって、この世界の創造主である神様の力は、その現実の前には及ばないかのようにさえ感じてしまうのです。
そんな時こそ、わたし達はこのような祈りの中で、神様を再認識する必要があるのです。
6:9c 御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
わたし達がそう祈らなければ、神様の支配がこの世に下りてこないのではありません。
しかしわたし達がそう祈るとき、神様の権威、力、栄光はわたし達の内に満ちるのです。
③ わたし達の必要を満たしてくださる
わたし達にとって、神様が父としてわたし達を愛し、この世の支配者としての力をもったお方だという事がわたし達の内で確信となった時、わたし達は初めて自分の必要に関して祈ることができます。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
自分の思いや、自分の必要について祈る事を避けようとする方がいます。
まるで自分のことを祈ることは汚らわしいことだと思っているようです。
でも、そうではない事をイエス様が教えてくれています。
イエス様は、日々の必要が満たされるように祈る事。
罪の赦しの確信が与えられるように祈る事。
また、悪魔の試みから守られるように祈る事をここで教えています。
この3つ以外には祈ってはならないという事をイエス様は言いたいのではありません。
しかし、この3つの事に関しては神様の助けが必ず必要だからこそ、イエス様はこの様に祈りなさいと教えてくださったのです。
わたし達に日ごとの糧を与えてくださるのは、わたし達の労働だけでなく神様です。
わたし達に罪の赦しを与えるのは、わたし達の善い行いや努力ではなく、神様です。
わたし達が悪魔の攻撃を受けたときそれに勝利するのは、わたし達の意志の強さや聖さではなく、神様によるのです。
主の祈りがわたし達に教えてくれるのは、祈りの言葉そのものよりも、祈るときのわたし達の心の姿勢です。
主の祈りを祈るとき、わたし達は自分の思いを神様に一方的に訴えるのではなく、わたし達の生きる一瞬一瞬に主が共にいて下さり、わたし達を助けてくださっている事を思い出させてくれます。
そしてわたし達の祈りは、自分主導で自分のエゴのために祈るのではなく、神様中心の思いへと変えられていきます。
以前にも言ったように、わたし達が祈る事によって神様の気持ちを変えるのではなく、わたし達の方が変えられていくのを実感する事ができるのです。
再来週も引き続き、どうやって祈るのかという事を一緒に考えていきましょう。
このシリーズを通して、皆さんの祈りの生活がさらに豊かなものとなっていきますように。
祈りを通して、わたし達の心がもっと柔らかくなり、主に似た者と変えられていきますように。