ヨハネ4:19-24 『霊とまことによる礼拝』 2008/02/17 松田健太郎牧師

ヨハネ4:19~24
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

イエス様がサマリアを訪れた時の事で、サマリアの女の話があります。
そこで、4回の結婚に失敗して今は同棲をしているこの女性は、イエス様にとても重大な質問をしています。
サマリアの人たちは、この当時エルサレムではなく、ゲリジム山の上に神殿を建ててそこで礼拝をしていました。
その事に関して、サマリア人とイスラエル人との間には大きな論争が起こっていたのです。
彼女の質問はずばり、どこで礼拝する事が正しいのかというものでした。

教会にはそれぞれの教団や教派によって、色々な伝統があります。
礼拝のスタイルにも色々あって、どのように礼拝をするのかという事で対立が起こり、教会が分裂してしまう事も決して珍しい事ではありません。
賛美歌がいいのか、それともワーシップ・ソングがいいのか、いやそれくらいでは済まされないほど複雑で重要な問題がここに起こりうるのです。

イエス様はサマリアの女に、霊とまことによって礼拝する時がくると言いました。
そしてそれは、今だと言うのです。
霊とまことによる礼拝って、いったい何なのでしょう。
それは、僕が牧師になってから、ずっと抱えてきたひとつの課題でもあります。
これまで15年もの間クリスチャンとして生きてきて、数え切れないくらい礼拝にも出席してきて、牧師になってからは礼拝を取り仕切る立場として100回以上も礼拝をしてきたと思いますが、礼拝のあるべき姿をまだつかみきれません。

皆さんはどうでしょうか?
日曜日に教会に行けば礼拝がやっている。
そこに行って、席に座っていることが、霊とまことによる礼拝なのでしょうか?
先週は、教会とは何かという課題でお話をしましたが、今日はそれに関連して、礼拝とは何かというテーマでメッセージをしたいと思います。

① 捧げる事が礼拝
旧約聖書の中で、礼拝を表す動詞は少なくとも112回使われていると言います。
それほどまでに礼拝とは、旧約の時代から大切なものだったのです。
では皆さん、旧約時代に人々は、どのようにして礼拝をしていたと思いますか?
教会があるわけでもない。
賛美歌があったわけでもありませんし、説教もありませんでした。

今の形の礼拝スタイルになったのは、バビロンやアッシリア帝国に捕囚されて以降です。
それまでは、幕屋や神殿で礼拝をしていました。
実はこの時代には、生贄を捧げる事が礼拝だったのです。

捕囚後は神殿から遠く離れてしまったので、生贄を捧げることができなくなってしました。
そこでイスラエル人たちは、シナゴーグという集会所に集まって律法の勉強をしたのです。
それが、今の教会の前身となっているわけですね。
という事は、イスラエルの人々が仕方なく始めた事が、伝統として残っているわけです。
そう考えてみると、こういう礼拝のスタイル自体は、それほど重要なわけでもないということがわかってくるのではないでしょうか。

そうは言っても、現代を生きる私たちは動物を生贄に捧げるということをしません。
イエス様が完全な生贄として十字架にかかり、生贄を完了してくださったからですね。
でも、私たちは今でも、いろいろなものを神様に捧げているのではないでしょうか?
例えば私たちは“賛美を捧げる”という言い方をします。
また、“献金”も捧げるものですね。
“祈り”も“祈りを捧げる”と言います。
教会でのさまざまな奉仕も、主に捧げるものであると言う事ができるでしょう。
ですから礼拝の本質は、私たちが神様に捧げるという事にあると言えるのかもしれません。

私たちはレビ記の中で、捧げるべき生贄とはどのようなものかを知ることができます。

レビ 1:2 「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。
1:3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。

“傷のない”、“欠陥のない”ものが、生贄として捧げられるに相応しいものでした。
イスラエルの人々が捧げた生贄は、彼らがもっている家畜の中で最もきれいで、最上のものでなければならなかったのです。

もちろん、今は新約の時代ですから、旧約時代の制約がそのまま当てはまるわけではありません。
そもそも、旧約時代の生贄はイエス様を表しているわけですから、私たちの奉仕や献金をそこにそのまま当てはめることはできません。
だから、この言葉をあまり厳密には受け止めないで下さい。
しかし、それを十分に理解した上でも、私たちは旧約時代の人々の捧げ方から学ぶべきことがあるなぁと思ってしまうのです。

私たちは、礼拝の中で最上のものをささげているでしょうか?
神様に対して、あまりものを捧げるような事になってしまってはいないでしょうか?
神様には、喜びをもって、最上のものをお捧げしたいものだと思いますね。

② 自分自身を捧げる
さて、新約の時代に生きる私たちにとっての礼拝とは、どのようなものなのでしょうか。
パウロが、手紙の中でこのように説明してくれています。

ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

先週もお話しましたが、私たちはキリストのからだです。
ですから、からだの部分である私たちがそれぞれに勝手気ままに動いてしまったら大変なことになってしまいますね。

私たちクリスチャンは、主イエス・キリストを頭として、ひとつとされています。
それは何も、考える事は私達の役目ではないと言う事ではなくて、私たちは頭である主に従い、それぞれの役割を果たさなければならないということです。

ローマ 12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

私たちが、自分自身を聖い、生きた供え物として捧げるというのは、いつでも主に従うものとなるという事です。
そのための備えをするのが礼拝です。
だからこれは、週に一度だけすればいいというものではなく、常に意識していなければならない事ですね。
私たちはまさに、“この山でもなくエルサレムでもない”、誰でも、いつでも、どこでも礼拝する時代を生きているのです。

実を言えば、この事は旧約聖書の時代から、すでに何度も語られてきたことです。

Iサムエル 15:22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

私たちが、週の初めである日曜日に教会に集まって、共に礼拝の時間をもつのは、神様に自分自身を捧げるという思いを毎週新たにする必要があるからです。
私たちは教会で共に祈り、賛美し、メッセージの中で示しや励ましを受け、私たちが仕えている主を共に見上げるのです。

今日、みなさんにはどのような示しが与えられたでしょうか?
そして、どのようにして自分自身を捧げる様に示されたでしょうか?
その中から私たちが何を受け取り、どう応答するのかという事こそ、毎週の礼拝の中で私たちに求められている事なのです。

③ 愛の応答としての礼拝
さて、そろそろ本題に入っていきましょう。
結局のところ、霊とまことによる礼拝とは一体どんな礼拝なのでしょうか?
それはおそらく、私達の心の内が問われる礼拝ということができるでしょう。
神様が見るのは表面的な事ではなく、神様は私たちの内面を見るお方だからです。

私達にとって大切なのは、「神様のために何をするか」という事ではなく、「神様をいかに愛しているか」ということです。
何にも増して、私達の中にある主を愛する思いが礼拝となるのです。

申命記 10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、
10:13 あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

愛する事が先に来て、従う事はその後に続いています。
これは聖書の中では、いつでも真理です。
私たちが神様を愛しているなら、主の命令を守るということはとても自然で、自由と喜びが伴う事なのです。

愛する妻、家族のためになら、僕は自分が持つ最善を捧げることができるし、人生を賭ける事ができます。
自分のやりたい事だけやるというのではなく、妻の長い買い物に付き合ったり、子供の臭いおむつを換える事だってできます。
自分が欲しいものをがまんして、何かを買ってあげようと思うことができるのも、愛の賜物なのではないでしょうか。

私達は主を愛しているからこそ、私達の最善を捧げ、私達自身を生きた生贄として捧げる事だってできます。
どんな命令にも、できるかどうかはわからないままも、従おうと思えるのです。
しかし愛がなければ、命令はただの束縛でしかなく、重荷となり、むしろ私たちを苦しめることにしかなりません。
ですから、主への愛こそが私達の動機であり、力の源なのです。

僕は、主なる神様を心から愛しています。
それは、神様が創造主であるというその偉大さを超えて、私達の目線に立ってくださり、私たちと同じ痛み、苦しみを経験してくださり、それだけではなく私達が背負うはずだった罪の罰を全て背負って十字架にかかり、死んで下さったからです。

主は、私たちの全てを理解してくださる方です。
主は、私たちにいつでも最善を与えてくださる方です。
私達が苦しむ時、悲しむ時、痛み、悩む時、主はともに涙を流して下さいます。
主が私たちを癒し、塵の底から立ち上がらせ、命を注ぎ、力を与えてくださいます。
私たちをいつでも導き、私たちに全てのものを与えてくださる主を愛する事は、私たちにとって当然の事なのではないでしょうか。

どうか、何よりもまず、神様を知ってください。
どんな奉仕をし、どんな良い行いをしたらいいのかと悩むのを止めてください。
主が私達のために何をし、どの様に愛してくださったのかを知る事です。
それは神様自らの助け、聖霊の働きなしにはできない事ですが、私達が心から求めるなら、必ず与えられるものです。

私達が神様の愛を受け取り、その愛に満たされるなら、礼拝は私達の中から自然な思いとして湧き出てくるものです。
その時こそ私達は、霊とまことによって主を礼拝する自分自身に気がつくことでしょう。

義務だからではなく、全ての人が喜びに満ちて主を礼拝する事ができますように。

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