ヨハネ5:39-40 『聖書に何が書かれているのか』 2008/01/20 松田健太郎牧師

ヨハネ 5:39、40
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

先週に引き続いて、聖書の事に関してメッセージをしていきたいと思います。
みなさん、聖書にはどんな事が書かれているかご存知でしょうか?
聖書には、いったい何について書かれていますか?
まぁ、今日ここにいらっしゃるほとんどの皆さんは聖書の内容をご存知でしょうが、もし聖書の知識がまったくない方にそのように聞かれたら、皆さんはどのように答えますか?

聖書には色んな読み方があるだろうと思います。
1500年もかけて編纂され、40人もの人々によって書かれた聖書ですから、66巻それぞれを独立した伝記や歴史書として読むということもできるでしょう。
一般書店に置かれている聖書の手引書などを読んでいると、多くの本がそういう捕らえ方をしていることがわかります。
それぞれの書の時代背景や、その著者の意図などを解説しているわけですね。
多くの神学者、聖書学者がそのような視点で聖書を捉えているのかもしれません。

しかし、聖書にはそれとは別の見方があるのではないかと思います。
それは、聖書が神様によって書かれたひとつの書物であるという視点です。
この世界の創造主が、1500年以上の月日をかけ、40人の人々を用い、イスラエルという民族の歴史の中に描いたひとつのメッセージ。
そして、その柱として大きな役割を果たしているのがイエス・キリストなのです。

今日は限られた時間なので、聖書66巻全部を見ていくわけにはいきませんが、聖書の中につづられている壮大な物語を駆け足で見ながら、中心となるメッセージを見て行きたいと思います。

① 愛の神が創造した世界

創世記 1:1 初めに、神が天と地を創造した。

聖書を作り上げた神様は、この世界を創造したすべての創造主です。
この神様が宇宙を作り、地球を作り、すべての生命をデザインし、人間を作りました。
この世界の中の“何かを司る神”というような中途半端なものではなく、ただひとりで完成された完全な存在なのです。

そしてその神様は、そのすべてを愛する神様でもあります。
神様はこの世界を気まぐれによって作ったのでも、適当に作ったのでもなく、想いを込めて、愛によって作り上げました。
その最高傑作が、私たち人間という存在なのです。

しかしそこに問題が起こりました。
蛇として現れた悪魔の誘惑に乗ってしまい、人間の中に罪が入り込んでしまったのです。
この罪によって、人間は不完全な存在となり、苦しみをもって生き、死ななければならない存在となってしまいました。
そして何よりもこの罪によって、神様との関係が完全に崩れ、断絶してしまったのです。

さて、この“罪”というものが、聖書を読み解く上で非常に重要なポイントのひとつです。
すべての人には罪があります。
私たちが感じる、あの人はいい人だとか悪い人だという価値観は、罪びととしての価値基準の上で計られたものですから、十分ではありません。
どれだけ素晴らしい人間も、神様の基準に達することができないという事です。
そして、私たちの中にあるその罪が、この世界に苦しみをもたらしてしまったのです。

神様はそこで、私たち人間を完全に見捨ててしまうこともできましたが、しかしそうはしませんでした。
神様は人類に、ひとつの約束をしたのです。

創世記 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

これが、神様の約束の始まりであり、聖書全体の中心となるメッセージです。
やがて、この世界を支配する悪魔の力を打ち砕く、購い主が現れるのです。
私たちはこれを福音と呼びます。
この福音をメインテーマとして、聖書の物語はつづられているということですね。

聖書は、不完全な人間の罪の歴史と、それを愛と恵みによって満たす神様の贖いの歴史です。
そして、神様の力が悪魔の力を打ち砕くまでの、霊的な戦いの歴史なのです。

② 旧約聖書に書かれていること
さて、悪魔が私たちを惑わすために使う常套手段があります。
それは、私たちがいつでも正しいと思わせることですね。
もう少しいえば、罪の存在を否定するということです。
私たちに罪がないのであれば、罪の贖いは必要ありません。
私たちが自分の罪を否定する限りは、キリストの十字架の贖いは何の意味もなさないのですから、悪魔にすればそれほど都合のいい事はないでしょう。

現代の教育学や心理学の現場で教えられていることを聞くと、恐ろしくなってきます。
性善説というのでしょうか、子供たちは生まれたときから正しいことを本能的に知っていて、やりたいようにさせてあげればちゃんと育っていくというんですね。
それを文字通り受け取るとするなら、要は放って置けばいいのですからそんな楽な教育はないですよね。
カウンセリングの現場でも、“罪の意識”が問題を起こさせているのであって、クライアントの心の底にある罪の意識を取り除くことだけを最優先事項としています。
だから“個人の自由”の名の下にホモセクシャルも不倫も、社会的に認めようという動きになってきていますね。

その様な方法が社会にとって有益なことだとどうして思えるのか、僕にはまったく理解できないのですが、日本だけでなく多くの国々でこの価値観が常識となりつつあります。
それは、私たちの中に自分の罪を認めたくないという思いがあり、悪魔がそれを利用してささやきかけているからではないかと僕には思えるのです。

旧約聖書は、私たち人類の罪がどれほど絶望的なのかを惜しみなく書き記しています。
旧約聖書に登場する人物たちは、間違いなく私たちと同じように不完全な人々であり、穴だらけなので数多くの失敗をします。

聖書というからには素晴らしく道徳的な教えが書かれているに違いないと思って旧約聖書から読み始めた人は大概びっくりするんですね。
ポルノかと思えるくらいえげつない事もたくさん出てくるからです。
旧約聖書は、神様の力を借りない肉的な力だけで正しいことをなす事がどれだけ難しいかを表していて、私たちには贖いが必要なのだということを教えているのです。

それにしても、このイスラエルという民族は本当に神様に愛され、守られる価値がある民族だったのだろうかと思わされることが、いくつも出てくるのです。
皆さんはどう思われますか?
でも、考えてみてください。
神様に愛される価値がないのは、私たちも同じではないでしょうか。
私たちもまた、私たち自身の弱さをもち、邪悪さをもち、汚れを潜ませて、神様の愛を受けるような資格なんてまったくない存在なのです。

もし私たちがこれまでしてきた行いをもって、イスラエルの人々よりましだと思うのなら、そのこと自体が大きな間違いです。
私たちになす事ができる善い行いなどは、神様の前に大した違いはありません。
むしろ自分の行いによって自分を正しいものだと主張することこそ、自己義認という罪そのものに他なりません。

イスラエルは優れた民族だから神様に選ばれたのではない、その清さや、善い行い、彼らのあらゆる努力によって神様の守りを勝ち取ったのではありません。
それはただひたすら、神様から値なしで与えられた恵みなのです。

新約聖書に表されているキリストが述べ伝えた神は愛の神だけれど、旧約聖書の神は愛がなくてレベルの低い恐ろしい神であるという教えがありますが、それは間違いです。
旧約聖書の神に愛と慈しみがなかったら、イスラエルは真っ先に滅ぼされてしまっていたはずだからです。

③ 新約聖書に書かれていること
さて、話を新約聖書に移していきましょう。
新約聖書の中でもっともスポットライトが当てられるべきは、やはりイエス様の話です。
クリスチャンではなくても、イエス様の教えや、生涯のことを知っている人は少なくありませんね。
そればかりか、マホトマ・ガンジーを初めとして、イエス様の教えを素晴らしいものだと認めているノンクリスチャンも決して少なくはないのです。
信仰を持っている人と、もっていない人の決定的な違いは、イエス様を神の子として捉えているか、偉大な宗教指導者として捉えているかの違いかもしれません。

ですが、イエス様を偉大な宗教指導者としてみる見方は、実を言うと何もそれほど新しいものではないのです。
この時代の多くの人々が持っていたキリストのイメージは、イスラエルに改革をもたらす指導者でしたから、イエス様の弟子たちや、12使徒たちでさえその様な捉え方をしていました。
だからイエス様がローマ帝国に捕らえられる直前でさえ、誰が玉座の右と左に座るかということでもめてしまう位、彼らの考えはずれていたのです。

人々は、自分たちを支配して虐げる人々に対する復讐を求めていましたが、キリストが教えたのは赦しでした。
人々はキリストが全世界をイスラエルの支配下に治めることを望んでいましたが、キリストがしたのは愛による支配でした。
そしてキリストの王座は宮殿の中ではなく、十字架の上でした。

イエス様が十字架にかけられた時、イエス様がキリストだと信じていた弟子たちの落胆、悲しみはどれほどのものだったでしょうか。
その時彼らの思いをよぎったのは、敗北だったことでしょう。
そして、その時悪魔の心をよぎったのは、彼自身の勝利だったに違いありません。
しかし、それこそが神様の勝利の瞬間でした。
イエス様の十字架での死が贖いを完成し、誰も予期しなかった形で、人類への救いの道が開かれたのでした。
そして、イエス様が悪魔の力をも打ち砕いたことを証明するように、死の力も打ち砕いたイエス様は、墓に葬られた3日後に蘇り、弟子たちの前に現れたのです。

キリストがこの様な形で現れ、罪を贖うなどとは、この時誰も想像することのできない出来事でした。
しかし、実を言えばそのすべての事が、すでに旧約聖書の中で表されていたのです。
驚くべきことに、誰もそれを悟ることができないという事まで、聖書には記述されていたのです。

さて、ここで一番最初に読んでいただいた聖書箇所に戻ってみたいと思います。

ヨハネ 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

聖書66巻を通して表されているのは、イエス・キリストです。
そしてその壮大な物語は66巻で終わったのではなく、イエス様がいつかまたこの地上に戻るその時まで、今も現在進行形で続いている事なのです。

このメッセージは聖書の一番最初の部分から始まりましたから、今日は聖書の一番最後のページを開いて終わりたいと思います。

黙示録 22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です