ルカ15:11-32 『放蕩息子の兄』 2009/11/22 松田健太郎牧師
ルカ15:11~32
15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
実は多くの日本人が、「宗教を信じるならキリスト教」と応えていると聞いてから、随分経つように思います。
しかし、多くの日本人は一向にクリスチャンになる気配はありません。
キリスト教に憧れている人が多いという割には日本での伝道は難しく、日本は宣教師の墓場と言われるほどに、多くの宣教師を苦しめてきた国でもあります。
一方で、キリスト教は排他的で独善的だと考える人もいるようで、近頃は了見の狭い一神教ではなく、多神教である日本の宗教は素晴らしいという声もたくさん聞かれるようになってきました。
僕自身、「わたし達には日本の宗教があるから、外国の宗教であるキリスト教は必要ありません。」と言われた事が何度かあります。
みなさん、キリスト教とは、数ある宗教の中のひとつに過ぎないのでしょうか?
おそらくほとんどのノンクリスチャンの方は、その様に考えている事と思います。
しかしそれだけでなく、多くのクリスチャンも、キリスト教は宗教の中のひとつだと考えているのではないかと思うのです。
自分はキリスト教を選んだのであり、他の人は別のものを選んでいるだけだというわけですね。
キリスト教という宗教が、数ある宗教の中にある事は確かだと思いますし、それが間違えているとは必ずしも思いません。
でももしキリスト教が宗教でしかないなら、僕は牧師にはならなかったでしょう。
それなら多くの人たちも、別にキリスト教を選ぶ必要はないだろうと思うのです。
結局は外国の宗教だというイメージなのですから・・・。
でも、聖書がわたし達に教えている事は、宗教的な教え以上のものです。
いや、実を言えば、宗教的になることを否定すらしているのです。
当時、最大の宗教者だったパリサイ派のユダヤ人たちに、イエス様は宗教に生きるのではなく、福音に生きる者となる事を教えています。
最も有名な話である放蕩息子の話しは、そんなパリサイ人たちに福音とは何かを説いた話です。
今日はこの放蕩息子の話を通して、福音と宗教との違いを考えてみたいと思います。
① 福音~恵みによる救い
放蕩息子は父親に、自分の分の遺産を今すぐに分けて欲しいと言いました。
遺産というのは、父親が死んでから分配されるものです。
つまり息子は、父親のいのちよりも、財産の方が大事だと言ったのと同じ事なのです。
やさしい父親が渡した財産をもって、息子は町に出かけます。
最初はそれで一山当てようと考えていたのかもしれませんが、都会の誘惑に負けた彼は、放蕩して全てのお金を使い尽くしてしまうのです。
何もかも失ってしまった息子は、豚の餌を食べるほどに落ちぶれてしまいますが、その時になって家族の大切さと、その温かさに気がつきます。
「今更、どんな顔をして帰ることができるだろうか? しかし、使用人としてなら雇ってもらえるかもしれない。自分のした事を一生償う人生でも、家族のもとにいる事ができるならそれだけでも幸せだ。」
そう考えた息子は、父の元へと帰って来ました。
すると彼がまだ遠くにいる内から、父親は走って来て息子を抱きしめました。
そして息子が「使用人として雇って欲しい」と言わせる間も与えず、彼を再び息子として向かえ、何のペナルティも与えず全ての権威を与えました。
父親は息子の失敗や罪に対して怒る以上に、帰って来たことの喜びにあふれたのです。
いつ聞いても、いい話ですね。
クリスチャンの多くが、これをいい話だと感じて感動するのは、わたし達も天のお父さんとの関係において同じ経験をしたことがあるからです。
この話は、クリスチャンになる前のわたし達の心の状況を表しているのです。
かつて私達は、神様との関係を拒否しながら、祝福だけを求める生き方をしていました。
心の中で父親を殺して遺産を要求した、放蕩息子と同じです。
しかし、神様なしに生きる人生に絶望して、わたし達はお父さんの元に帰ってきました。
戻ってきたわたし達を、天のお父様は手厚く向かえ、全ての罪を赦し、使用人ではなく子供として受け入れて下さったのです。
これが福音です。
イエス様の周りでは、すでに多くの人たちがこのようにして神様の元に戻り、神の子としての人生を歩み始めていました。
しかし、それを否定して宗教的な方法で神様との関係を築こうとするパリサイ人たちは、この放蕩息子の兄のようだとイエス様は話を続けたのです。
② 宗教~神の愛を勝ち取ろうとする行為
ある日、兄が一日の労働を終えて帰ってくると、家がずいぶんにぎやかで、どうやら宴会が開かれている様子です。
気になってしもべのひとりに聞いてみると、何とあの弟が帰って来たと言う。
「どの面下げて帰って来たんだ。」と思いながらも詳しく話を聞くと、父は弟の帰還を祝って宴会を開いていると言うのです。
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
それを聞いて、兄息子は怒りました。
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
しかし兄の怒りは深く、父のなだめに答えようとはしませんでした。
なぜでしょうか?
どうしてこの時兄は、これ程の怒りをあらわにしたのでしょうか?
兄はこう答えています。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
まず一つ目のポイントは、兄が長年の間、父に対してまじめに仕え、戒めを破った事は一度もなかったという事です。
しかし、父は子ヤギ一匹くれた事がない。その事に怒っているのです。
二つ目のポイントは、それなのにまじめに仕えてきた自分を差し置いて、遊んで父の金を使い果たした弟のために、肥えた子牛を屠らせたという事です。
そして三つ目にポイントとなってくるのは、その子牛は本来誰のものかという事です。
弟はすでに自分の財産をもらい、そしてすでに、すべてをなくしていました。
という事は、この子牛は本来、誰の物になるはずだった子牛だと思いますか?
そう、本当は自分が与えられるはずの子牛を、放蕩してきた弟にやってしまったという事に、兄は腹を立てていたのです。
「どうして一生懸命やってきた自分より、遊んでお金を失くしたあいつの方が得をしなければならないんだ。不公平じゃないか。」という事です。
そう考えると、お兄さんが怒るのもムリはないような気もしてきませんか?
でもね、よく考えてみてください。
兄息子はまじめにいつでも父に仕えてきたというのですが、彼は何のためにお父さんに仕えてきたのでしょう。
それは、彼の怒りの理由を考えてみればよくわかります。
お兄さんは、まじめに仕えていればもっと報われると思っていたのです。
一生懸命にやっていれば、もっとお父さんに受け入れてもらえるはずだと思っていたのです。
言い換えれば、何か報酬を勝ち取るために仕えていた。
彼は実は、お父さんに仕えていたのではなくて、報酬に仕えていたのです。
弟とは、求める手段は違いますが、求めていたものは一緒だったんですね。
しかし、お父さんはこのように言って、兄息子をなだめるのです。
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
何かをした結果、報酬を勝ち取る。
これは、わたし達の生きる世界を支配するひとつのシステムです。
経済システムはそれによって成り立っていますし、あらゆる宗教の教えもそれに基づいています。
良い行いをすれば、わたし達の業(カルマ)が上がって良い事が起こる。
わたし達が良い行いをするから、わたし達は天国に行けるようになる。
わたし達もまた同じように、キリスト教という宗教の中にある時、そのシステムに基づいて生きようとしてしまうのではないでしょうか。
“良い行いをするから、神様に愛される。”“神様に従うから、祝福を受ける。”
しかし、福音はそうではありません。
神様は、そうは言っていないのです。
神様がまずわたし達を愛し、わたし達を救うため、この世にひとり子を送られた。
神のひとり子、イエス・キリストが十字架にかかり、自らの命を引き換えた事によって、わたし達は救われたのです。
もしかしたら、イエス様の十字架を信仰したことによって救いを勝ち取ったのだと考える方もいるかもしれませんが、それも違います。
わたし達は、信じることによってその救いを受け取っただけです。
すべては、神様の側から無条件に与えられた恵みなのです。
③ 福音に生きること
わたし達も、いつの間にかこの兄息子と同じようになってしまう事はないでしょうか。
少なくとも、僕自身は時々そうなっているように感じる事があります。
神様のために始めたはずのものが、いつの間にか報酬を勝ち取るためのものになってしまう。
他の人(特に努力していない人)の成功を喜べなくなる。
あの人はもっと聖書を読むべきだとか、祈るべきだとか、断食をするべきだとか、赦すべきだとか、愛するべきだとか、他の人のことがいろいろな事が気になってくる。
自分の働きに関して、調子がいいときには優越感に浸れますが、調子が悪いと劣等感で打ちのめされてしまいます。
また、自分の祈りは全てきかれるべきだと感じて、どれだけ祈っても思い通りの答えが与えられないと、神様から背を向けてしまうこともあります。
それはどれも、“自分が受けるべき報酬”を基準にして信仰をもっているからです。
わたし達は神様に受け入れてもらうために神様に従うのではなく、神様がすでにわたし達を愛し、受け入れてくれているから神様に従いたいと思うこと。
それが、福音的な信仰のあり方です。
わたし達が、神様のための働きをしたいと思い、罪から離れて正しい事をしたいと思う原動力は、神様から愛され、豊かに祝福されている事への感謝と喜びであるはずなのです。
わたし達はイエス様が大好きだから、イエス様近づきたいと願い、イエス様のように生きたいと望むのです。
聖書を読むといい事があるから読むのではなく、神様の事をもっと知りたいから聖書を読むのです。
願いをかなえて貰うために祈るのではなく、神様との対話そのものが喜びになるのです。
自分はたくさん赦されているから、人を赦す事ができ、すでに愛されているから、人を愛する事もできるのです。
わたし達が、いつでもその事を覚えて、神様と共にいる事を喜びとする生き方、それが福音に生きるという事であり、イエス様が教えてくれた信仰のあり方です。
宗教としてのキリスト教にも、魂の救いはあると僕は信じています。
でも、その信仰には喜びが乏しいのではないでしょうか。
僕は、少なくともこの教会に集う全ての人が、宗教としてクリスチャンに留まるのではなく、福音に生きるクリスチャンになって欲しいと願っています。
でも、問題なのは、わたし達がすぐにそれを忘れてしまうという事です。
それは、福音というものがわたし達人間の中で自然に生まれて来るものではないからです。
僕自身、何度もそこから外れて、兄息子のような信仰になってしまいます。
そこで気がついたのは、わたし達が福音に生きるためには訓練が必要だという事です。
これからしばらく時間をかけて、福音に生きることについてのメッセージをしていきたいと思っています。
もしかしたら、現時点ではまだ、皆さんは混乱しているかもしれませんが、この学びを通して、すべてのクリスチャンが福音に生きるクリスチャンとなる事ができますように・・・。