使徒17:32 『 イースター~さわって、よく見なさい 』 2013/03/31 松田健太郎牧師

使徒 17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。

今年もイースターがやってきました。
イースターが何なのかご存じない方もいらっしゃると思うので、簡単にお話したいと思います。
2000年前にイエス・キリストは、わたし達の罪のために身代わりとなって、十字架で死んで下さいました。
それは、罪によって永遠に断絶してしまった、神様とわたし達との関係を回復するために必要な犠牲だったのです。
しかしその3日後、イエス・キリストは、死を打ち破って墓の中から蘇り、復活しました。
イースターは、その復活を祝うための日です。

このイースターの日は、日本ではまだ、クリスマスほど浸透していません。
ディズニーやこども英会話の影響で、少しずつ認知されてきている部分もありますが、そこではイースターが卵とウサギが出てくる春のお祭りにされてしまっているようです。
どうして、正しい形でイースターが広がり、認識されていかないのでしょうか?
それは、イエス・キリストが死んで3日後に蘇ったという話は、多くの人達にとって受け入れがたい事だからです。

「2000年前ならいざ知らず、医学や科学が発達した現代では、こんなこと誰も信じられません。」と言われる事がありますが、それは大きな誤解です。
2000年前の人達だって、イエス・キリストが死んでから3日後に復活したという事を信じられなかったのです。
パウロがアテネで福音を伝えた時には、人々はこのような反応をしています。
使徒 17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。

イエス様といつも行動を共にしていた弟子たちでさえ、この様な反応を示しています。

ルカ 24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。

イエス様が行われた数々の奇蹟を目にしてきた弟子たちでさえ、死んだはずのイエス様を見た時、驚き恐れて、取りみだしたのです。

今日は、このイースターの時に起ったイエス様の復活が、わたし達にとってどんな意味を持っているのかという事を一緒に考えていきましょう。

① 死を打ち破った
イースターがわたし達に教えてくれる第一の事は、イエス様が復活によって、罪の結果である死を打ち破ったという事です。
聖書の中の有名な言葉のひとつとして、この様な言葉があります。

ローマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

わたし達は神様に背き、自分自身が神になろうとする罪によって神様との関係は死んだ状態となってしまいました。
これが、罪から来る報酬としての死ですね。
この霊的な死が肉体にも死をもたらし、わたし達は肉体的にも霊的にも滅びる存在となってしまいました。
しかし、そんなわたし達を、神様は御子イエス・キリストを通して救って下さり、永遠のいのちへとつなげて下さったのです。

イエス様ご自身が、「わたしは蘇りであり、命です。」とも言っています。
復活によってイエス様が示したのは、イエス様が死を支配し、破壊し、わたし達を解放して、永遠の命を与えて下さったという事です。

わたし達が信仰によってイエス様との関係の中に入るなら、肉体の死はもう永遠の別れや、滅び、無に帰してしまう事を意味しません。
わたし達は新しい天地に移されて、永遠の命を神様と共に過ごす、新しいスタートを意味するのです。

② 今も生きておられる
イースターがわたし達に教えてくれる第二の事は、イエス・キリストは今も生きておられるという事です。

ラザロも、蘇った少女も、イエス様によって死から蘇りましたが、やがてまた死んでいきました。
しかし復活したイエス様は、もう2度と死ぬ事のない体として復活したのです。
復活したイエス様は、まったく新しい体として復活しました。
それは、自分に巻かれていた荒布をすり抜け、岩の扉も通り抜けて外に出る事ができる、他とは全く異なる存在です。

死んだはずのイエス様を見た時、弟子たちはそれを、イエス様の幽霊だと思ったのです。
そこでイエス様は、弟子たちにこの様に言いました。

24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

イエス様は、「さわって、よく見なさい。」と言って、自分がリアルな存在としてそこにあり、幻覚でも幽霊でもない事を表しました。
イエス様は、他にも弟子たちの前に現れて、魚を食べたり、自分の釘で打たれた跡を触らせたりしました。
イエス様はそのようにして、40日の間弟子たちのもとに現れましたが、その後弟子たちの目の前で、天の父なる神様のもとへと上げられて行きました。

今のわたし達は、この頃の弟子たちに様に皮膚で触れて、見るという事はできないかもしれません。
しかし、今もともに語り、共に時間を過ごし、心の目で見、魂によって触れ、あふれるような愛を受ける個人的な関係を持つ事ができるのです。

わたし達が今、イエス様とそのような個人的な関係に入るためには、しなければならない事があります。
それはまず、神様に背いてきた罪を悔い改めて、イエス様を自らの主として受け入れる事です。
それによってわたし達には聖霊が与えられます。
ふたつ目に、自分の人生を自らコントロールしようとするのではなく、イエス様が変えて下さるままに委ねていく事です。
それによって、わたし達は聖霊の満たしを受ける事ができます。
そしてみっつ目に、それをキリスト教という宗教として受け止める事や、聖書を教訓や知恵を与えてくれる書物だという思い込みを捨ててしまう事です。
イエス様が今も生きておられる事を信じて、その関係の中に入るのです。
今もイエス様は、わたし達に仰られるのです。
「さわって、よく見なさい。」と。

③ 新しくされている
さて、これが第三のポイントにつながっていきます。
イースターがわたし達に教えてくれる第三の事は、わたし達もまた、イエス様と同じように新しくされたのだという事です。

イエス様を信じる信仰を持ったわたし達は、それまでの古い自分に死に、新しい命が始まるという事でもあります。
先週は平井くんの洗礼式を行いましたが、洗礼とは古い自分に死に、新しい自分として生きる決心を表す式典ですね。
洗礼式はそれを象徴的に表す形でしかありませんが、わたし達は信仰を持つ事によってキリストにある新しい命を得ているのです。

もっとも、今のわたし達は、復活したイエス様と同じような新しい体を与えられているわけではありません。
おそらく蘇生したラザロもそうだったように、相変わらず罪によって汚れてしまった肉としての体に縛られているのがわたし達です。

しかし、わたし達の新しい命に関して、聖書にはこの様に書かれています。

ローマ 6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

わたし達は、まだ古い肉体に縛られたままではあっても、魂は新しい者として創り変えられ、新しい命を歩み始めている・・・はずなのです。
わたし達は、本当にその新しい命を受け、新しい命に歩み始めているのでしょうか?

日本の教会に行った多くの人が、「まるでお葬式のようだ」と思うそうです。
あるいは、相変わらず古い自分のまま、律法に従っていた旧約時代であるかのように、ルールばかりを強調してしまいます。
多くのキリスト教会が暗くて、律法的な状態になってしまうのは、わたし達の信仰が十字架で止まって、復活の信仰が欠如してしまっているためではないかと思うのです。

確かにイエス様は、十字架にかかってわたし達の罪を贖って下さいました。
それはスゴク大切な事です。
そのことに、全く間違いではありません。
しかし、そのイエス様は死んだまま終わったのではなく、復活されたではありませんか。
イエス様は、死を打ち破られたのです!
今も、共に生きておられるのです!
そして、イエス様の復活の命を預かって、新しい命に生きるのが、わたし達クリスチャンなのです!

新しい命に生きるわたし達には、希望があります。
新しい命に生きるわたし達には、喜びがあります。
新しい命に生きるわたし達は、神の愛に生きるのです。

「さわって、よく見なさい。」
今もわたし達に語られるその言葉に耳を傾けて、復活のイエス様と共に生きようではありませんか。

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