詩篇22:1-2 『主はともにおられる』 2006/12/24 松田健太郎牧師

詩篇22:1~2
22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。

今年は、いじめによる自殺者が多い年となりました。
多くの子供たちが人生に絶望して自ら命を絶っていくということを知るのは、ニュースを聞く私たちにとっても非常に辛い事です。

日本だけではなく、世界中に絶望が溢れています。
飢餓や暴力、戦争が満ち溢れ、この世界のどこに正義があるのだろうかと思ってしまうことさえあります。
この様な現実を目の当たりにする時、神は絶対的に正しく、全知全能であり、私たちを愛しているという言葉は、なんと空虚に響いてしまうことでしょうか?

エピクロスというギリシアの哲学者は、神の存在に関してこのような言葉を残しています。
「神の行動を考えると、神は、
1.悪を根絶やしにしたいと思っているのにできない、
2.悪を根絶やしにできるのにそれを望んでいない、
3.悪を根絶できないし、それを望んでもいないという結論以外には考えられない。
悪の根絶を望んでいながらそれができないならその神は無力だ。悪を根絶できるのにそれを望まないなら、その神は悪意に満ちている。しかし、神に悪を根絶する力があり、また彼もそれを望んでいるとするならば、なぜ未だにこの世に悪が存在するのだろう。」

この世界に愛の神が本当にいるのなら、世界はこんなに悪がないはずだ。
もし神が存在するのなら、我々はもう、とっくに見捨てられてしまっているに違いない。
そう考える人たちが、このクリスマスにイエス様の誕生を祝うのではなく、徹底した快楽主義のために使おうとすることを、私たちにどうやって止められるでしょうか?

この問いは、私達も無視して通る事はできない問題です。
私達が心の底から神様に希望を持ち続けるためには、いつかはぶつかる難問なのです。

愛の神と苦悩の関係、これはあまりにも大きな課題ですから、この30分の間に話しきれるようなことではありません。
しかしこのメッセージが終わった時、皆さんの理解を少しでも助ける役に立てたとしたら幸いです。

① 痛みや苦しみが存在する理由
この世界に苦しみがある理由を、聖書は案外簡単に説明しています。

創世記 3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

これは全て、アダムとエバが最初の罪を犯した時に神様が語られた事です。
つまり神様は、私達人類が罪を犯したので、苦しみを与えられたということです。
では、神様はなぜ罪に犯されてしまった私たちに、苦しみを与える必要などあったのでしょうか?
ここを読んだ多くの人々が抱く神様のイメージは、自分の思い通りにならない人間に罰を与え、苦しめるサディスティックな印象のようです。
もしそうなのであれば、愛の神というイメージからはかけ離れた存在のように思えます。

フィリップ・ヤンシーというクリスチャン作家は、“痛み”についてこの様に書いています。

「実を言うと、かつてはこう思っていた。苦痛さえなければ、この世界はすばらしい、苦痛は神の犯した失敗だ、と。なぜ神は、すばらしいはずの世界に苦痛を入りこませ、台無しにしてしまわれたのだろう?」

ヤンシーはその問いを追求する中、思いがけない所でその答えを得ます。
痛みのない世界がこの世にあったのです。
それは、ハンセン病患者たちがいる世界でした。

ハンセン病という病は、肉体に痛みを感じる事がありません。
しかし患者達は、痛みを感じないからこそ、それ以上の悲劇を経験する事になるのです。
病気の進行と共に神経末端の機能が失われ、体が崩れ、変形していくのです。
ある患者は、痛みを感じないために靴が小さ過ぎるという事に気づかず、両足の指を失う事になりました。
ある患者は、モップの柄を強く握りすぎたために親指を失いかけました。
痛みとは、私達が自分自身を傷つけ過ぎない為に存在するということを彼は知ったのです。

私達は多くの場合、罪とは甘いお菓子のようなものだと勘違いしています。
罪を犯さないなどと言うマジメな人生は、単調で、つまらないものだと言います。
しかし、麻薬が快楽を与えながら確実に体と心を破壊していくように、罪は私達の霊と心を傷つけていくものです。

聖書は言います。「この世に罪のない者はいない。」そして、「罪の報酬は死である。」と。
罪が私たちを傷つけ、神様から引き離し、ついには永遠の死へと誘う呪いなのであれば、私達は少しでも早く罪から離れる方がいいでしょう。
私達が罪に侵食され、ついには神様から離れて完全に滅んでしまう前に、痛みや苦しみは私達が罪の中にいるのだということを教えてくれているのです。

② 自由意志を持つ人間
ある人たちは、この様に思うかもしれません
罪が人を傷つけるということがわかっているなら、神様は最初から罪を犯さないように人間を創造すればよかったのに・・・。

ひとつ言えることは、神様は私たちをロボットとしては創らなかったということです。
手塚治の漫画に「火の鳥」という漫画あります。
そこにこの様な話が描かれています。
猿田博士という登場人物がいるのですが、猿田博士は決して女性から愛されるような外見をもっていませんでした。
そこで猿田博士は、自分を愛してくれるロボットを造ります。
しかし、猿田博士はどんなにリアルなロボットを造っても満足できません。
それは、ロボットが言う「愛している」という言葉は、彼自身がプログラムした言葉でしかないからです。
自分がロボットに言わせているのであれば、それは「愛している。」といいう言葉ではあっても、そのロボットが本当に自分を愛している事にはならないのです。

愛の神様は、“愛”というものが本当の意味で機能するために、自由意志をもつ存在として人間を創造しました。
だから人間には、神様を愛し、従う事ができるのと同時に、神様に逆らい、滅びの道を進む事ができる自由が与えられていたのです。
神様が創造した世界は、自由がありながらも、罪のない世界でした。
しかしそこにあった自由を利用し、神様を愛する事より、逆らう事を選んだのは私達人間でした。
神様が「よし」とされた完璧な世界に罪を持ち込み、悪で汚したのは私達人類です。
そしてその罪と悪のために、この世界に痛みが創られなければならなかったのですから、私達には神様がこの世界に痛みを創ったことをとやかく言う資格などありません。

哲学者エピクロスが言うように、神様が悪の根絶を望み、それを実行していたら、私達人類は最初の時点で完全に滅ぼされる事になってしまったでしょう。

神様の裁きのときは、確かに必ず来ます。
それは聖書が言っている事でもあります。
しかし、まだその時はきていないのです。

IIペテロ 3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

神様が悪を滅ぼす事ができるのにも関わらず、まだそれを実行に移していないのは、神様にその力がないからではなく、人間を滅ぼしたくないからです。
神様は私達がきっと悪から離れ、ご自身の下に帰ってくるはずだと信頼し、忍耐強く待ってくれているのです。

しかしここにジレンマが起こります。
私達が自由意志を持つ存在として作られている以上、神様は私たちを無理やり罪から引き離す事はできないのです。
それをしてしまった途端、私達はもう人間ではなく、ロボットになってしまうからです。
しかし、だからと言って神様は私達が苦しむままに放っておき、滅んでいくのを黙って観ていることができない。
それは私たちを何よりも愛しているからです。

神様には、このジレンマを乗り越える方法がありました。
それは、神様が上から命令して人間を従わせるのではなく、神様ご自身が、私達人間と同じ立場に立つということです。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

③ 痛みと罪を担う神
キェルケゴールという哲学者が、この様な話をしています。
「ある所に王子がいた。
王子はある平民の娘を愛し、自分の妻にしたいと思った。
しかし王子は思った。『私が王子の権威をもって娘に求婚するならば、娘は自分と結婚するだろう。しかし、それでは本当の愛ではない。』
そこで王子は自らの服を脱ぎ捨て、全ての地位と権威をかなぐり捨てて娘に求婚した。」

イエス様はその時、神としての権威を捨て去り、ひとりの人間として私たちと同じ視点に立ちました。
それは、ただひたすら私達人類を救いたいと思う、神様の愛に他ならなかったのです。

確かに痛みや苦しみを創ったのは神様です。
神様にはそれをする権利もあるし、上から人間達を見下ろして、「お前達の自業自得だ。」と決め付けている事もできたでしょう。
しかし、神様は私達の元に降りてきました。
そして神様には罪などないはずなのに、罪の結果である痛みと苦しみだけを味わわれたのです。
そしてご自身の罪のためではなく、私達人類の罪の実を刈り取りました。
その残虐性をもって人間の罪深さをもっとも強く表している十字架にかけられ、イエス様は罪の報酬である死を私達の代わりに引き受けて下さったのです。

イエス様の死の、クライマックスにおいて、私達はイエス様の信じられない言葉を耳にしました。

マタイ 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

いつも神様と共にいたイエス様が、どうして神様に見捨てられる事などありうるでしょうか?
なぜ、あのイエス様からこの様な言葉が洩れるのでしょうか?
これほどイエス様に相応しくない、ありえない言葉が他にあるでしょうか?
この最期の瞬間、イエス様は私たちの罪を一手に引き受け、罪人となり、神様との断絶という恐ろしい爪で引き裂かれたのです。
この時、汚れなき神の小羊であるはずのイエス様は、私達人間の全ての罪を背負い、罪人としての叫びを放たれたのでした。

私達が苦悩の中にある時、どうしようもない絶望を感じている時、神様は私たちを決して見捨ててはいません。
どれだけ祈っても、確かに私達の状況はよくなる訳でもなく、痛みがなくなったり、苦しまなくなるわけでもないかもしれない。
しかし、私達が痛み、悩み、苦しんでいるその時、私達の隣にはイエス様がいます。
私達が、「主よ、どこにいるのですか!?」と叫ぶ時、イエス様は私達と共にいるのです。

イエス様が叫んだ、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉は、先ほど読んでいただいた詩篇22篇の最初の言葉でもあります。
しかしこの詩篇22篇は、決して絶望のまま終わるのではなく、その歌の途中にはこの様な箇所もあります。

詩篇 22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

この詩篇は、神様の御名を褒め称えて終わっています。
私達の痛みと苦しみは、すべてイエス様が背負って下さったから、私達は神様を呼び求める時、決してもう絶望する必要はないのです。

どうかこのクリスマスの時に、神様が人間として生まれるとはどういうことなのかを、もう一度考える機会としていただければ幸いです。

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