Iサムエル18:9-14 『主にゆだね確信を得る』 2008/09/21 松田健太郎牧師
Iサムエル18:9~14
1:2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。
1:3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。
1:4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。
1:5 また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。
1:6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。
1:7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
1:8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
1:9 シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
1:12 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。
1:13 ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。
1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
1:19 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。
1:20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。
最近、日本ばかりでなく、世界を揺るがすのではないかと言うようなニュースが世間を騒がせていますね。
これから先のことなど、心配になられる方も少なくはないのだろうと思います。
私達の周りには、自分の力ではどうする事もできないような問題が、なんと多いことでしょうか。
経済的な事ばかりでなく、健康の問題、心の問題、人間関係の問題、この世界のほとんどの事は、自分ひとりの問題ではなく多くのことが複雑に絡み合っていて、自分だけではどうすることもできません。
今現在、何か大きな問題を抱えて悩み、苦しんでいるという方もこの中にはいらっしゃるかもしれません。
でもそのような大きな問題の多くは、私達がどれだけ悩み苦しんでも、何も変わるわけではないというのが実際の所なのではないでしょうか。
そればかりか、そのような解決しない悩みの中でストレスがたまり、ストレスがたまって不眠になってしまったり、ものが食べられなくなってしまったり、病気になったり、思い悩む事が更に問題を大きくしてしまう事も少なくありません。
① 慰めと励まし
先ほど読んでいただいた、聖書の箇所を見ていきましょう。
紀元前1100年ごろ、ハンナという不妊の女性がいました。
彼女に子供が生まれないので、夫のエルカナはペニンナという女性を第2の妻として迎えたのです。
ハンナと違い、ペニンナには子供がたくさん生まれました。
子宝が恵まれたものの第二婦人でしかないペニンナは、ハンナを見下し、いじめました。
そうしてハンナは、陰湿ないじめの中で生き続け、心がズタズタになっていったのです。
聖書にはこの様に書かれています。
1:7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
どの様な事で悩むのかは、人それぞれだと思います。
人によっては、他の人が思わぬような事で心を痛めたり、悩んだり、悲しんだり、辛い状態になるかもしれません。
ましてや、自分の経験と人の経験を比較してその痛みを計ることはできないと思います。
ともかくこの時、ハンナは悲しみに沈み、食欲を失って食べられなくなってしまうほど苦しんだのです。
聖書には、「いつも喜んでいなさい。」と書かれています。
また、「心を騒がせてはなりません。」という言葉もあります。
では、この時ハンナは悪い事をしてしまったのでしょうか?
いいえ、私たちに求められているのは、苦しい時にでも顔を歪めて笑顔を作っている事や、そわそわする心を押し殺して平成を装う事ではありません。
イエス様がご自身も、友人のラザロが死んだ時には、生き返ることが判っていたはずなのにそれでも心を騒がせ、涙を流しました。
ゲツセマネでは血の汗を流すほどの葛藤の中で、祈られた事もありました。
悲しむ事が悪い事なのではなく、平成を失う事がいけないのでもなく、その様な時に私たちがどうするかという事が問われている事なのです。
私達は、物事を本当に真剣に受け止めて考えるからこそ悩むのです。
それがどうでもいい事なら、最初から悩んだりしませんよね。
だからまじめだったり、責任感が強く、仕事をしっかりこなす人ほど悩む事が多いのです。
まじめさや責任感の強さという性格や素質は、もちろんそれ自体が罪なのではありません。
能天気な人であれば、あまり思い煩ったり悩む事も少ないかもしれません。
そういう人だけを神様が喜ぶというのではおかしいではありませんか?
ハンナにとって、愛する夫のために子供を生む事ができないという事は、他の誰にも理解できないほどに辛く、重い問題だったのでしょう。
夫のエルカナも、ハンナが思い悩んでいる事に気がつき、励まそうと声を掛けています。
1:8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
エルカナは心優しく声をかけたのです。
「ハンナ、泣くのはおよし。キミに子供が生まれなくても、キミには僕がいるじゃないか。僕はキミにとって十人の息子を得る以上の喜びを与えるよ。」
エルカナはそんな風にハンナを慰めようとしたのです。
良い夫ですよね。
ハンナにとっても、おそらくその気持ちは嬉しかった事でしょう。
しかし、夫の優しい言葉によって、ハンナの心が慰められる事はありませんでした。
私たちには、どうしても人を慰められない時があります。
また、どのような励ましも受け入れられない時があります。
その気持ちはありがたいと思っても、それによってはどうにもならない気持ちがあります。
慰められ、励まされるほどに苦しみが増すような時があるのです。
それが、私たちの力の限界です。
それがわかっていないと、私たちはムリにでも人を変えようとしてしまって、返って相手を追い詰める事になってしまいます。
では、そんな時、私たちに何ができるのでしょうか。
② 祈りがすべてを変える
私たちにはできない。しかし、神様にはできるというのが、私たちに与えられている答えなのではないでしょうか。
ハンナはこの時、主の宮で祈ったのでした。
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
それは、すさまじいまでの祈りでした。
ハンナの心は痛んでいたのです。
だから彼女は主に祈り、祈りの中で激しく泣きました。
ハンナは恐らくすごい形相で、主の前にすべての思いをぶちまけたのではないでしょうか。
そしてその中で、自分がどれだけ子供を授かりたいと願っているのか、その思いを明らかにしました。
そしてもし子供が与えられるなら、その子の一生をおささげしますと誓ったのです。
ハンナはずっと、声に出さずに祈っていたので、それを見ていた祭司のエルは、ハンナが酔っ払っているのかと思いました。
1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
皆さんは、自分ひとりでは解決できない、どうすることもできなくなった問題を前にしたとき、どうしますか?
仲のいい友達に愚痴を言いますか?
家族に怒りをぶつけて、当り散らしますか?
やけ食い、やけ買いをしたり、ひとりでふてくされて落ち込んでいるかもしれません。
そんな時、私たちは神様の御前にすべてを注ぎだすことができるのだと、聖書は教えているのです。
ダビデ王もこのように歌っています。
詩篇62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
神は、われらの避け所である。
私たちは、確かに心揺らいで喜べないときがあります。
悲しみがあふれたり、平安ではいられなかったり、誘惑に駆られたり、イライラする事もあれば、怒りにわれを忘れることもあるでしょう。
しかしそんな時、主のみ前に心のうちをすべて注ぎだしてみてはいかがでしょうか?
心の内にあるネガティブな思いや、攻撃的な感情も、すべて神様の前にさらけ出してみてはいかがでしょうか。
祈り終わって、家に帰ったハンナには、ひとつの変化が起こっていました。
1:18c 彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
あれ程いら立ち、悲しみではちきれそうだったハンナの顔は、もはや以前のようではありませんでした。
それがどんな顔だったのか、具体的には書かれていませんが、きっと平安と、喜びに満ちた顔となっていた事でしょう。
③ 祈りの確信
夫の慰めによって立ち直ることができなかったハンナが、これ程までに平安に満たされたのはどうしてだったのでしょう。
ひとつにはそれは、ハンナが自分のすべてを主の前に注ぎだしたからです。
自分の中にあるすべての思い、苛立ちや怒り、悲しみという感情の塊を神様の御前にすべて注ぎだした、これは本気の祈りだったのです。
もうひとつは、主がこの祈りを聞いてくださったという確信を、彼女が得たからです。
「安心して行きなさい。」(Iサムエル1:17)というエリの言葉もあったかもしれません。
しかしそれ以上に、第三者の言葉だけではない、この祈りが聞かれ、必ず主の御心がなるという確信を、ハンナは得たのではないかと思うのです。
ハンナの悲しみや苛立ちの原因は、彼女に子供が授からないという事でした。
しかしそれだけではなく、彼女の心を揺さぶり続けたのは、ペニンナに対する劣等感と悔しさがあったからです。
「ペニンナを見返してやりたい。」「自分の存在価値を認めさせたい。」「よい子を産んで、夫にもっと愛されたい。」そんなどろどろした嫉妬や復讐心などが、彼女の心の中には渦巻いていたのではないでしょうか。
しかし、ハンナがその心の全てを主の前に注ぎだすことによって、また神様との対話を通して、彼女の心は少しずつなだめられ、清められ、整えられていったのです。
それはやがて誓いの言葉となり、ハンナは生まれた子供を自分自身の思いのために所有するのではなく、神様のご計画のために捧げると約束しました。
Iヨハネにこのように書かれています。
Iヨハネ5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
ハンナの願いはいつしか神様の御心と一致し、それは彼女の中で揺るがない確信となったのでした。
私たちの祈りは、ただ願い事だけで終わってしまってはいないでしょうか。
しかし、聖書にはこのようにも書かれていましたよね。
ヤコブ4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
私たちが求めているものの、その動機は何ですか?
それは主が望むものでしょうか、それとも自分の想いから来ただけのものでしょうか?
それを願う前に、私たちが主の前に明らかにしていない罪はないでしょうか?
まずその罪が取り扱われ、私たちが整えられる必要があるのではないでしょうか?
あるいは、それは私たちが心から願う、本当に必要なものでしょうか?
それを熱心に祈り続けられるほど、本当に心を注げるようなものでしょうか?
それとも、あきらめてしまうことができる程度のものなのでしょうか?
私たちの心は、祈りを通して、主の御心と一致していく必要があるのです。
④ 祈りの答え
やがてハンナは、約束どおり子供を授かりました。
その子供は、サムエルと名づけられ、大祭司エリによって育てられ、やがて世界的な預言者として成長していきました。
神様に不可能はありません。
皆さんがその事に確信をもち、主に向かって全ての想いを注ぎだすことができますように、また喜びをもって主に仕えることができますように、心からお祈りします。