聖霊に逆らうことを言う者は赦されないとは?

「聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」

マタイ12章に、そう記述がある。ここを読むと、誰もが心にひっかかりを覚えるだろう。「赦されない」という言葉が、モヤモヤするのである。当該の箇所は以下だ。

ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。

(マタイの福音書12:31~32)

確かに、「赦されない」と書いてある。

私たちの福音の理解では、「悔い改め、イエスを受け入れれば赦される」はずなのに、「赦されない」とはどういうことなのか。

また、『「人の子=イエス」に逆らっても赦される』とはどういうことか。

「イエスなしでも赦される」のか。

さらに、「どんな罪も冒涜も赦していただける」とはどういうことか。

そもそも、「三位一体」のはずなのに、なぜ聖霊だけ違う扱いなのか。

二重、三重、四重の疑問が、このひとつの箇所でわいてくるのである。

イエスがこう語った時、当然、まだペンテコステは起こっておらず、今の私達のような「聖霊」の理解はなかったと考えられる。「三位一体」はなおさらだ。

「三位一体」の理解を前提として、この箇所だけをポイントで読むと、混乱を生む。大切なのは文脈だ。

目次

マタイ12章前半まとめ

▼1~8節

弟子たちが安息日に畑の穂を摘んで食べ始めた。パリサイ人がそれを見て非難した。イエスは、それを受けて、ダビデが「臨在のパン」(新改訳3版では「供えのパン」)を食べた例を出し、ホセア6章を引用して「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」と言う。イエスは「安息日のために人があるのではない」(マルコ2章)と教える。

▼9~14節

イエスは、会堂に行った。パリサイ人たちは、「安息日に癒やすのは律法にかなっているか」と質問した。イエスは、「安息日に良いことをするのは律法にかなっている」と言い、片手が萎えた人を癒やした。

▼15~30節

イエスは、大勢の群衆を癒やした。それを見た群衆は「この人がダビデの子(=メシア)ではないか」と言った。しかし、パリサイ人たちはイエスの力を「悪霊のかしらの力だ」と言った。それを受けてイエスは、例え話で自分の力は悪霊由来ではないと教えた。

▼31~37節

ここでイエスは、「聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されない」と言う。また、イエスは「心に満ちていることを口が話す」、「人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければならない」という。

文脈から分かる流れ

流れは以下である。

1:安息日に対する論争があり、イエスは全く新しい教えを示した。また大勢の病気などを癒やした。

2:群衆はイエスを「来るべきメシア」だと言った。

3:パリサイ人たちはねたみから「メシアではなく悪霊の力だ」と言った。

4:イエスはそれを例え話で否定し、「聖霊に逆らうことを言う者は、赦されない」と教えた。

5:さらにイエスは、「心にあることが口から出る」、「自分のことばによって義とされ、不義とされる」と教えた。

この流れを見れば明らかなように、31節、32節の議論の中心は、「口から出ることば」なのだ。さらに突き詰めれば、その奥にある「心」、すなわち「動機」である。

パリサイ人の動機は、「神の正当化」ではなく、「自分たちの正当化」であった。自分たちの神学を覆すようなことを言い、群衆から「メシアかもしれない」と思われたイエスを「殺そう」(14節)としていたのである。彼らは、肉的な殺人の前に、「ユダヤ教の世界でのラビとしての死」を狙ったに違いない。ゆえに、「悪霊だ」と批判したのだ。イエスの力の権威そのものを否定したのだ。

イエスは、彼らの心を見抜いて、彼らが軽はずみにイエスを悪魔扱いした言葉を、痛烈に批判した。「次に来る世」とわざわざ挿入し、死後のさばきを強調したのは、彼らに本当の動機を悟らせるためである。目の前で奇跡が行われているのに、イエスをメシアと認めない彼らの本音を、彼ら自身に悟らせるための発言なのである。

パリサイ人は、サドカイ人と違い、「復活」と「死後のさばき」を信じていた。サドカイ人との論争を見ていると、復活の神学がパリサイ人にとって非常に大切なものだったと分かる。イエスの教えを聞いて、自分たちの心の動機を見抜かれ、自分たちにとって大切な「死後のさばき」で赦されないと図星を突かれたパリサイ人たちは、ぐうの音も出なかっただろう。

つまり、イエスの「聖霊に逆らう言葉は赦されない」という言葉は、当時のパリサイ人への反論のために語られたものであって、「イエスを信じている我々」に直接向けた言葉でないのは、一目瞭然である。

それを知らないと、次のような誤解が生まれる。

よくある誤解

文脈を無視し、「この部分は自分宛てだ」という認識で読むと、次のような誤解が生まれる。

▼誤解1:聖霊に暴言を吐かなければ、どんな罪も赦される。

まず、「どんな罪も冒涜も赦していただける」というのは正しい。しかし、その条件は、「聖霊に暴言を吐かなければ」ではない。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」とうことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私(パウロ)はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。

(テモテへの手紙第一 1:15)

「罪人のかしら」であるパウロが「先例」となったのだから、「どんな罪も赦される」というのは正しい。(※ここで、いわゆる「赦されない罪」についての議論は避ける)

しかし、「条件なしに」というのではない。条件は「キリスト・イエス」である。パウロはハッキリと「キリスト・イエスが」と、その条件を明らかにしている。

マタイ12:31~32の「赦されます」は、日本語だと分かりづらいが、英語では”shall be “、”will be”と訳される(※要・ギリシャ語のテンス確認)。

「暴言を吐かなければ」という消極的理由で赦されるのではなく、「悔い改め、イエスを受け入れれば、赦していただける」という、未来の状況を言っているのである。

▼誤解2:イエスを認めなくても、聖霊を認めれば罪が赦される。

また、「人の子(=メシア=イエス)」に逆らうことばを口にする者でも赦されます」とあるので、極端な解釈をすれば、「イエス抜きでも聖霊を認めれば罪が赦される」とも読める。これは、「今の自分」に当てはめる間違った読み方をするために生まれる誤解だ。

ローマ書にはこうある。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ人への手紙 10:9~10)

私たちが救われるのは、「心で信じ」、「口でイエスを主と告白」するからだ。

★イエスがマタイ12章で述べたように、「心にあることが口から出てくる」のである。心で信じなければ、口で告白もできないのである。

★また、聖霊の力なしでは、誰もイエスを主と告白できない。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12:3)

聖霊だけ認めれば救われるのではなく、聖霊がなければイエスを主と認めることは不可能なのだ。だから、「聖霊に逆らうことを言う者は赦されない」のである。「次に来る世」でも、イエスを信じていなければ、火の海に投げ込まれるのである。

パリサイ人は、イエスが神の霊で行った奇跡を、「悪霊のかしらの力だ」とバカにした。イエスは、そのパリサイ人たちに、「自分を汚しても、父の聖霊をけがす者は赦されない」と語り、彼らの心の内側をあらわにしたのであって、今の私達に直接語ったわけではない。聖書を読む際は、直接今の自分に当てはめて読まないよう、注意が必要だ。

しかし、神は時を超えるので、今の私達に同時に語る。今の私達には、「聖霊がなければイエスを主と告白できない」のだから、「聖霊に逆らったまま」、「イエスが主だ」とは言えないのである。

▼誤解3:聖霊をけがす言葉を一度でも言えば、罪は赦されない。

この箇所を読むと、「聖霊に逆らうことを、一度でも言ってはいけない」と感じてしまう。これもまた誤解である。

マルコの福音書の同じ議論の箇所(3章)に「聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠の罪に定められる」と書いてあるので、これは一見正しいように見える。

しかし、聖書の他の箇所を見れば、それは誤解だと明らかである。

私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。

(ヤコブの手紙 5:19~20)

一度でも聖霊をけがす言葉を口にしたら、絶対赦されないのであれば、パウロは赦されなかったはずだ。しかし、現に赦されているのだ。この誤解は、イエスの犠牲を無にしてしまう誤解である。

マルコでいう「永遠の罪」というのは、世の終わりの「死後のさばき」で定められる罪を指す。第二の死(黙示録)で罪に定められた、「いのちの書」に名前がない者は、例外なく永遠の炎で焼かれると書いてある。それが「永遠の罪」なのだ。

「聖霊によって」、「イエスを主と告白しない」者はすべてこの「永遠の罪」に定められるのである。

また、この「永遠の罪」は、イスラエルに対しての宣言でもある。というより、こっちが本質だ。

イエスの発言は、パリサイ人に向けたものだ。イエスを受け入れないと決めたのは、宗教的リーダーであったパリサイ人だった。そして、そのまま今日までイスラエルは国家としてイエスを約束のメシアとして受け入れていない。

イスラエルは、「赦されない」 状況にあるのだ。

最大の誤解

誤解が3つある、いや、4つある。

最後、かつ最大の誤解は、「神はイスラエルを見捨てた」という誤解である。

「誰でも聖霊によるのでなければ、イエスを主と告白できない」の箇所の後には、こう書いてある。

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

(コリント人への手紙第一12:13)

ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、他の異邦人であっても、どんな身分を持っていても、イエスを告白する聖霊はひとつだけだ。ユダヤ人も、我々と同じ聖霊によってイエスを信じるのである。

イスラエルの救いは、最後の最後まで取っておかれている。

兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。(ローマ人への手紙 11:25~26)

「異邦人の満ちる時」が来て、「こうして、イスラエルはみな救われる」とある。異邦人に福音が伝わり切った時、イスラエルの時が来る。そして、「イスラエルはみな救われる」と約束されている。

イスラエルの国家的な救いは、神の最後の時代の計画なのである。

まとめ

・書かれた当時の文脈に注意して読むべきである。

・文脈を無視すると、「どんな罪も赦される」、「イエスを冒涜してもいい」、「聖霊を一度でも冒涜したら赦されない」、「イスラエルはもう救われない」などの誤解が生まれる。

・人が口にする言葉は心の状態を表す。

・人は、イエスを心で信じ、イエスを主と告白して救われる。

・人は、聖霊によらなければイエスを主と告白できない。

・だからイエスは「聖霊に逆らう言葉を言う者は赦されない」と言った。

・当時のイスラエルは多くの人がイエスを主と信じず、今も国家体にイエスを信じていない。

・しかし、神はイスラエルを見放したのではない。

・異邦人の満ちる時が来て、「こうして、イスラエルはみな救われる」。

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執筆 小林拓馬

ブログ「くまさんの書庫」