クリスチャンは、毎週日曜に教会に行かなければならないのか?

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ある友人の疑問

 イエスを救い主とは信じていない友人が、こんなことを言っていた。「別にクリスチャンになってもいいとは思うけど、クリスチャンなったら毎週日曜日に教会行かなきゃいけないんでしょ? それは無理だわ~」。彼の場合は、「毎週はキツイ」というのを理由に、信仰に踏み出していなかっただけだが、もし仮に、今この記事を呼んでいるあなたが、クリスチャンは毎週日曜日に教会に行かなければならないと思っているのだとしたら、ハッキリ言いたい。それは大きな誤解だ。

なぜ日曜日なのか

 残念だが、多くのクリスチャンたちが、この点を誤解している。クリスチャンならば毎週日曜日に教会に行くべきだと思っているのである。それを信仰だと思っている。彼らにとっては、毎週ちゃんと教会の『礼拝』に出席する人が、信仰にアツい人なのである。しかし、これは正しくない。イエスは日曜日に必ず教会に行けと命じていない。「なぜ日曜なのか」という疑問を持たず、聖書を調べないので、このような誤解が生まれるのだ。

日曜の根拠1:安息日

 「日曜礼拝」の根拠となっている最たるものが、「安息日」である。ユダヤ教では、毎週の「安息日」をとても大切にしている。ユダヤ教の最も大切なライフスタイルといってもいい。

 ユダヤ教では、「安息日を守る」という表現を使う。「守る」は「ショメル」という単語で、文字通りの意味だ。警備員、ガードマンのことも同じ、「ショメル」という単語で表す。ガードマンが大切なものを守るように、ユダヤ人にとっては安息日は何が何でも守らなければいけない、大切な日である。何を守るのか。彼らが守るのは、要人でもなく、家族でもなく、金でもなく、思い出でもない。安息日のルールを必死で守っているのである。

 安息日のルールを守るのは大変だ。日本人にはまず無理だ。電気を一切使ってはいけない。歩ける距離も決まっている。物を運んでもいけない。勉強をしてもいけない(※ユダヤ教の勉強ならOK)。ケータイをいじってもいけない。彼らは、安息日のために、前日から食べ物を作り置きし、手を洗う水をため、電気をつけっぱなしにし(※前日にスイッチを入れておけばいいのだ! それでいいのかよ!笑)、あらゆる準備をする。それだけ必死で守っているのである。「礼拝を守る」という発想は、そもそもユダヤ教からきていると分かる。

 「キリスト教」のオリジナルは「ユダヤ教」だ。イエスも、ある意味では「ユダヤ教の教師」だった。故に、この「安息日」の考えを踏襲し、「キリスト教」でも安息日を大切にしよう! ということで「日曜礼拝を守る」とするならまだ論理的に理解できる。しかし、そこには大きな勘違いがある。

 

★「安息日」は「日曜日」ではなく、「土曜日」なのだ!!!

 ワオ! ビックリ!

 ユダヤ教は現代もなお、金曜日の日没から土曜日の日没までを、「安息日」として固く守っている(程度は人によるが)。もし、「安息日」的な発想で日曜日に必ず教会に行かねばならないと思っているとしたら、それは勘違いかもしれない。

 勘違いだけならまだマシだが、「土曜日」から「日曜日」への変節には意図がある。それは、「キリスト教」を拡大しやすくするという作為だ。イエスへの信仰が、「キリスト教」という「宗教」に変節してしまった時に、時の指導者(結果的に多くの人の誤解を生んでしまった、ヘレナやコンスタンティヌス・・・)たちが、「キリスト教」が定着しやすいように作為した。当時、ヨーロッパ地方では太陽信仰が盛んだった。異教徒たちにとって日曜が特別な日だった。だから「キリスト教」拡大のためにそれを利用したのだ。土着信仰とミックスしたのである。経緯からして、日曜日信仰は、「異教の信仰」なのである。

 そもそも、私達は安息日にしばられる必要はない。イエスは、安息日を機械的に守ることだけに目を奪われ、その信念を忘れていたパリサイ人や律法学者たちを批判した。安息日の闘争が、イエスとユダヤ人たちの最大のあつれきだったと言ってもいい。イエスはこう言っている。

安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。

(マルコの福音書2:27~28)

もしあなたが、日曜に教会に行かない人はクリスチャンではない、または日曜に教会に行かない人は信仰が弱いと思っているとしたら、それは正しくないかもしれない。あなたは、日曜日に働いている人がいるから運行できる電車に乗って教会に行き、日曜も働いている店員がいるコンビニで昼飯を買い、日曜も働いている人たちが作っているテレビ番組を見て、あなたの大切な「日曜日」を過ごしているのだ。

(※尚、ヘブル4章を読むと、今は「毎日が安息日」だと分かるはず。別の記事を書く予定)

日曜の根拠2:イエスの復活

 「いやいや、日曜日は安息日とは違うよ」という人たちもいる。

 ではなぜ日曜日が大切なのか。彼らの主張のひとつは、「イエスが日曜日に復活したから」というものだ。なるほど確かにイエスは、「3日目」によみがえったと聖書にある。十字架にかかったのが金曜日だったので、金、土、日。数えで3日目は、確かに日曜日だ。

 この考えから、ある教会では、日曜日のことを「主日」(しゅじつ)と言ったりする。「日曜礼拝」のことも「主日礼拝」などといい、「日曜日」を聖なる日のように扱っている。

 しかし、この主張は根拠に欠ける。イエスは復活した後、「私が復活した日を祝い、この日を聖なる日とせよ」とか、「私の復活を祈念して、毎週集まり、祝え」などと、一言も言っていない。現に言っているとすれば、弟子たちはその後、日曜日に集まったはずである。もしそうなら、その記述があるはずだ。しかし、明確な根拠は見当たらない。信者たちが「週のはじめの日」(=ヘブライ語で「ヨム・リション」、直訳で第一の日、すなわち日曜日)に家に集まってパンを裂いたという記述はあるが、現代の「礼拝会」とはおよそ違うものだろうし、「日曜日」という曜日に特別の意味があったように読み取るのは無理があるように感じる。

 もちろん、「復活」はイエスを信じる者にとって、非常に大切である。「復活」抜きの信仰は意味はないと、イエスはサドカイ人に言っている。しかし、イエスの復活と、「日曜礼拝」は別物である。2つを一緒に考えるのは、論理的に無理がある。

日曜の根拠3:ペンテコステ

 

 イエスの復活に加え、もうひとつ、日曜礼拝論者が根拠にしている日がある。それは「ペンテコステ」だ。いわゆる「五旬節」。「五旬」というのは、50の訳語で、「過ぎ越しの祭り」から50日目の祭りだからだ。

 ヘブライ語では「シャブオット(7週の祭り)」といい、小麦の刈り入れを祝う収穫祭、並びにモーセの律法の授与を記念する祭りでもある。「シャブオット」は、有名な「過ぎ越しの祭り」、「大贖罪日」、「仮庵の祭り」などと並ぶ、ユダヤ教にとっても、キリスト教にとってもで非常に大切な日である。

 旧約聖書の祭りは、新約では新しい意味として成就している。「過ぎ越しの祭」は、「イエスの十字架」として成就した。同じように、「五旬節・シャブオット」は「聖霊が下る」という形として実現した。これが「ペンテコステ」である。「ペンテコステ・シャブオット」は、聖書で以下のように祝うよう命じられている。

あなたがたは、(過ぎ越しの祭の)安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満7週間を数える。7回目の安息日の翌日まで50日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主に献げる。

(レビ記23:15)

 なるほど。「過ぎ越しの祭」から7週間を数えて、その次の日、つまり7週間=49日の次の日、50日目が五旬節になる(「シャブア」はヘブライ語で「7」という意味なので、その複数形で「シャブオット」となる)。

 「過ぎ越しの祭り」は安息日、つまり土曜日。「シャブオット」は過ぎ越しの祭から50日目。49日目は同じ曜日になるので、シャブオットの前日は土曜日。つまり、シャブオットは日曜日になる。

 イエスは天に昇り、次には聖霊が下った。今は聖霊の時代だ。だからその日を記念するために、ペンテコステを祝うべきだ。この主張は合理的だ。ペンテコステもとい、シャブオットは盛大に祝う必要がある。イエスは天に昇ったが、「助け手」として、イエスそのもの、父なる神そのものの聖霊が働く。今はそういう時代だ。

 しかし、だからといって、「毎週日曜日」を祝う根拠にはならない。もし、聖霊が下ったことを記念するのなら、「日曜日」ではなく、「シャブオット」を祝うべきである。しかし、今、日本のほとんどの教会ではシャブオットを祝っていない。「ペンテコステ」としては、ちょろっと祝っていても、それはカトリックカレンダーで日にちがズレてしまっているので、その日付自体には何も意味はない。主張と行いが矛盾してしまっているのである。

「日曜礼拝」は根拠レス

 これまで述べたように、「日曜日は聖なる日である」、「日曜には必ず教会に行かなければならない」、「日曜を主日と呼ぶ」などの主張は、根拠がほとんどないに等しい。

 そもそも、「礼拝」の定義が間違っている可能性がある。これについては、別の機会に詳しく書くが、「教会に行くこと」が「礼拝」ではない。これだけはハッキリ書いておく。

 もしあなたが、「日曜礼拝に必ず参加しなければ、私には信仰がない」と思っているとしたら、あなたは勘違いをしている可能性がある。それは、イエスへの信仰が、「キリスト教」になったときに作られた「単なる文化」だ。単なる文化に騙されていはいけない。イエスはそんなことは命じていないと、覚えておく必要がある。

集まることをやめてはいけない

 日曜信仰は、根拠がないと分かっていただけたと思う。しかし、「教会」での「礼拝式・礼拝会」に出席しなくてもいいと言っているのではない。聖書にはこう書いてある。

約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(ヘブル10:23~25)

 聖書は、信者同士で集まることを推奨している。何のためか。それは、「励まし合う」ためである。別の箇所も参考になる箇所がたくさんある。「励まし合う」、「教え合う」、「戒め合う」、「捧げ合う」、「助け合う」、「愛し合う」ために、「教会」の集まりはある。イエスを信じる者同士で集まり、そのように愛の実践を行うことは非常に重要だ。

 別に集まるために、特定の曜日を決める必要はない。しかし、現代社会では日曜日が休日である。日曜に仕事が休みの人が多く、現実的に集まりやすいのは日曜日だ。そのため、日曜日に教会の「礼拝会・礼拝式」の集会をセットするのは、ある意味合理的ではある。しかし、日曜に仕事の人もいる。その人たちのために、土曜の礼拝会、月曜の礼拝会、金曜の礼拝会があっていいじゃないか。大切なのは、集まり、愛し合うことなのだ。

 また、集まる曜日を決める必要はなくとも、決めた方が集まりやすいのも事実だ。人の意思は弱く、明確なスケジュールや習慣がないと、すぐに心が離れてしまう。自分は弱いと自覚し、常に神に目を向け、心を神と同期し、互いに励ますことを忘れないために、集まる曜日を決めるというのは、有効な方法なのは確かだ。

 最後に、イエスの時代に生きていた人たちは、どうしていたか。

信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

(使徒の働き2:44~47)

 ある人たちは、使徒2章の記述で、ペンテコステ、すなわち日曜日に信者たちが集まっていたことから、「イエスの後の時代は、日曜日に集まり礼拝していた」と解釈する。それは、「ペンテコステ=シャブオット」という事実を理解していないために起こる誤解だ。イエスの信者たちは、毎日心を一つにして宮に集まっていたのだ。日曜日ではない。毎日だ。毎日。私達は、1年365日、24時間礼拝しているのである。

 結局のところ、結論は以下の聖書のことばに要約される。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ14:5~6)

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執筆者 小林拓馬