ローマ14:13-23 『ローマ39 動機はどこにありますか?』2018/04/15 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙14:13~23
14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。
14:14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。
14:16 ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。
14:17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。
14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
14:19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。
14:20 食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。
14:21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくことをしないのは良いことです。
14:22 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。
14:23 しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

皆さんは、クリスチャンらしい生き方とは、どのような生き方だと思いますか?
ある人は、酒もタバコもやらず、きよくマジメで正しい生き方をすることだと言います。
ある人は、貧しい人たちや、虐げられている人たちを助け、寄り添う生き方だと言います。
ある人は、神の名によって人々を癒し、ひとりでも多くの人たちに伝道する生き方だと言います。
私たちは、それぞれにいろんな形のクリスチャンの生き方、クリスチャンとしての在り方を思い描いているのではないでしょうか?
しかし、思い描いている理想的なクリスチャン像は違っても、どれかが間違っていて、どれかが正しいというわけではありません。
ほとんどの場合は、それぞれ聖書的な根拠もある、素晴らしい生き方なのではないかと思います。

しかし問題なのは、私たちはその理想像を、クリスチャンとしてのあるべきカタチだと決めつけて、そうではない人たちを批判し、裁いてしまう傾向があるということです。
「あの人は、クリスチャンなのに、あんなことをしている」
「この人は、クリスチャンなのに、これをしていない」
こういう言い方を色んな所で耳にしませんか。
私たちも、無意識の内にこんな風に考えたことがないでしょうか?

① さばかない
ローマの教会では、特に食べ物のことが問題になっていたようです。
そこには、ユダヤ人クリスチャンと、異邦人クリスチャンたちがともに集っていました。
そして旧約聖書の律法を大切に守ってきたユダヤ人クリスチャンたちにとっては、律法で禁じられている豚肉をクリスチャンが食べるなどということはとんでもない話だったのです。
そういった様々なことが、争いや分裂を引き起こしてしまいます。
酷い時には、それが憎しみに繋がり、互いに殺し合うようなことまであったのがキリスト教の歴史です。
でも、そのような批判や断罪、争いや分裂を起こすことは、聖書的に正しい事と言えるのでしょうか?
それは本当に、神様が喜ばれることと言えるのでしょうか?

パウロはこんな風に言っていましたね。

ローマ 14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません
ローマ 14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

ここでパウロが話しているのは食べ物のことですが、この真理はもちろん食べ物だけに限定されるものではありません。
色んな見方、色んな考え方の人がいて、それぞれにクリスチャンとしてのあるべき理想像を抱いています。
それは確かに、間違っているわけではないでしょう。
でも私たちは、それによって互いを見下したり、さばいたりするべきではありません。
人を罪と定めるのは神様がすることであって、私たちの役割ではないからです。
私たちがまず考えるべきことは、自分が神様に従っているかどうかということですね。
私たちに与えられている使命や人生のテーマはそれぞれに違うのですから、他の人を自分の基準に当てはめようとすることには、あまり意味がないのではないかと思うのです。

人はうわべを見るが、神様は私たちの内側をご覧になられると言います。
クリスチャンの生き方として本当に大切なのは、行動そのものよりも、心の動機がどこにあるかということがにあるのです。

② 愛と思いやり
さて、私たちの行動を定めるべき第一の動機は、愛と思いやりです。
パウロは、このように言っています。

14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。
14:14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

人をさばいてはならないということも、もちろん大切なことですね。
でもそれは、人がみんな自分の好きなように勝手にやって、「誰も俺をさばくことはできない」と言うのとは全く違う話です。
むしろ互いに気遣い合いながら、誰かのつまずきになるようなものを避けるようにと、パウロは勧めているのです。

例えば、豚肉を食べたいからと言って、わざわざ豚肉は汚れていると信じている人たちの前でそれを食べる必要はありませんね。
そんなことをしても、争いの元になったり、互いのつまずきの原因になるだけです。
豚肉を食べたいなら、彼らがいないところで、豚肉が好きな人たちと食べればいいのです。
もちろん、それを隠す必要もありませんが、見せびらかす必要もありません。
周りの人たちに配慮しつつ、愛と思いやりを持って行動することが求められているのです。

イエス様は神様でしたが、私たちを愛するゆえに私たちと同じ人間となって下さいました。
パウロは、ユダヤ人の前ではユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように接しました。
彼はこのように言っています。

Iコリント 9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。

愛することは時として、自分が持っている自由を制限して、相手に仕えるということです。
これが義務だからというのではなく、自発的に、喜びをもってすることができたら素敵だと思いませんか?
パウロは言います。

14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
14:19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

③ 信仰という動機
私たちの行動を定める第二の動機は、そこに信仰の確信があるかどうかということです。
パウロはこの様に言っています。

14:22 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。
14:23 しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

「私は豚肉を食べることは罪だと思っているけど、他の人も食べているし、いいかなぁ」と思いながら食べるなら、それはやっぱり罪ですよという話なんです。
全ての食べ物は神様によってきよめられたと書かれているのだから、食べたことそのものが問題なのではありません。
しかし本人が、「神様に背いている」という意識を持ってそのように行動するなら、それは実際に背いているということです。

ローマ人への手紙の前半でずっと語られてきたテーマは、信仰によって義とされるということでした。
そしてイエス様は人々が癒された時、「それはあなたの信仰が癒したのだ」と言いました。
私たちにとって、信仰を持って行動するということはとても大切なことなのです。

でもそれは、私たちの信仰によって真理が変わるということではもちろんありません。
「教会にたくさん献金をすれば救われる」と信じている人が献金をしないなら、それは罪です。
しかし、たくさん献金をしたとしても、イエス様との関係がないならその人が救われることがないことに変わりはありません。

そう考えると、私たちが正しく福音を理解し、それを信じることがどれだけ大切なことかわかりますね。
そしてそれこそが、私たちを本当に幸せにするのです。

さて、私たちが何かをする時、それは何が動機となっているでしょうか?
自分がそれをしたいという単なるわがままではありませんか?
あるいは、慣習に従っているだけだったり、人や神への恐れから来ていませんか?
そこに、愛と信仰があること、それが大切なことです。
そして、私たちが愛と信仰を持って行動することを、神様は喜ばれるのです。

祈りましょう。