クリスチャンは、お酒・アルコールを飲んではいけないのか?!【後編】

クリスチャンは、お酒、アルコール飲料とどのように付き合っていけばいいのでしょうか?

前編はこちら

目次

アルコールとどう付き合うべきか

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前編で述べたように、アルコールを飲むのは「悪」でも、「罪」でもない。大切なのは、酒とどう付き合うかだ。極論、たくさん飲んでも、コントロールできれば良いのだ。

とはいえ、果たして、ぐでんぐでん、ベロンベロンの状態で、「御霊に満たされ続ける」のは可能なのか。私はとてもそうは言えないと思う。パウロは、アルコールをコントロールするために、たびたび厳しい指摘をしている。

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者(すなわち信者の中で)で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。

(コリント人への手紙第一 5:11)

このように、新改訳聖書2017では「酒におぼれる者」となっている。第3版では「酒に酔う者」となっているが、「おぼれる者」の方がニュアンスが伝わりやすい。パウロは、信者の中で、「酒におぼれる者」、つまり、「アルコール依存症の人」、「酒にコントロールされてしまっている人」とは一緒に食事もするなとまで言って注意している(※信じていない人が飲んでも、その人と一緒に食事をしてもそれは全く問題ない)。

「酒におぼれる者」という表現は、不倫をしている人や、偶像礼拝をする人と同列で書いてある。これは2つの意味で重要だ。

1:飲酒は、それほど注意しなければならない人の弱さである。

2:飲酒は、性的な失敗や、偶像礼拝など、他の失敗につながりやすい。

「酒をコントロール」と一言で言っても、それはとても難しい。聖書で飲酒は「禁止」されてはいないが、ハッキリと注意喚起はされているのである。また、前編でも取り上げたように、お酒による失敗談も数多く記述がある。飲酒に気をつけろというメッセージが聖書にあるのは、明らかであろう。

私はまだ診断が必要なほどの依存症の自覚はないが、周りの依存症の人を見ていると、特徴として、他のどんなことよりアルコールを優先させる傾向にある。ある人は、私にビールを買いに行くよう言って、私が買いに行く間、ものの15分も我慢ができず、自分でコンビニに行ってビールを買って飲んでいた。そこまでの状態になると、もうアウトだ。

また、アルコール依存症になると、もう家族や兄弟姉妹との会話とか、聖書を読むとか、祈りとか、大切なことより酒を優先するようになる。しまいには、仕事も家族も自分自身の健康もおろそかにしてしまうのである。アルコールとの付き合いは、知恵と自制が必要なのである。そのため、ある程度の「線引き」はとても大切である。ただ、人によって、どこが適切な線引きかは、個人差があると思う。

 

<認めたくない現実まとめ>

1:飲酒は、他の失敗ともつながりやすい。

2:飲酒の程度を自分でコントロールするのは、とても難しい。

3:依存症になると、他の何よりも酒が優先順位が高くなる傾向にある。

4:過度な飲酒は、あなたの家族、友人、人間関係を壊し、あなたの健康、そして人生も壊す可能性が高い。

 

リーダーたちへの基準

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また、パウロは、教会のリーダーたちには、さらに厳しい基準を示している。

 

ですから監督は、避難されることがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。

(テモテへの手紙第一 3:1~4)

同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。

(テモテへの手紙第一 3:8~9)

この「監督」「執事たち」が教会でどのような役目なのかは、いろいろな意見があるが、今回はざっくりとリーダーと捉える。パウロは、「酒飲み」でない人をリーダーにすべき、逆に言えば「酒飲み」はリーダーにふさわしくないと指導している。酒をコントロールできない人には、自分をコントロールできない。そういう人がリーダーに相応しくないのは、当然だろう。

面白いのは、「監督」と「執事」で基準の差があるところだ。「監督」は「酒飲みでなく」なのに対し、「執事」は「大酒飲みでなく」とある。「執事」はある程度の飲酒は許容されているようである。「監督」はより厳しい選考基準があり、より重い責任があったことが、この記述からも読み取れる。

もっとも、「たしなむ」程度なら、普通、「酒飲み」とは言わないから、「監督」であっても酒は飲んでいたと考えるのが素直な受け取り方であろう。この部分のギリシャ語は、「NOT・パラオイノス」。「横に・ともに」という意味の「パラ」と、「ワイン・ぶどう酒」の「オイノス」を結合させた形容詞だ。「常に酒が横にある状態」とでも言おうか。

これは、単純に「飲酒をする人」よりかは、「一升瓶を腰につけている、いつも酔っ払ってる人」と捉えた方が、私は素直だと思う。タンタンの冒険のハドック船長とか、ドカベンの徳川監督とか、そういった類の人だ。だから、「監督」(大方、『牧師』に適用する)は、一切酒を飲んではいけないというのは、私は間違いだと思う。

聞いた話では、教会員がお酒を飲んでいたら、教会内での役目をクビにする教会もあるという。ちゃんちゃらおかしい。もちろん、アルコール依存症と診断されたら、病気なのだから、しばらく休んでもらってもいいかもしれない。しかし、1回や2回の飲酒で、何か犯罪を見つけたように、即解任となるのは筋違いではないか。

私は、牧師であっても、執事であっても、長老であっても、酒を飲んでもいいし、それを見ても私は何とも思わない。それで「つまずき」だという人は、信仰をカンチガイしていると思う(※クリスチャンが大好きな「つまずき」についても記事を書く予定)。

もちろん、コントロールできないという可能性を謙虚に受け止め、一切飲まないという「線引き」をしている人を、私は心から尊敬する。

 

 

「集い」の中での飲酒はどうか

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いずれにせよ、いろいろな意見はあるが、「飲酒」そのものは悪いことではない。個人レベルでは飲酒は自由だ。では、「集い」の中での飲酒はどうだろうか。私は、一定の配慮が必要だと考える。この問題の答えは、ローマ人への手紙14章にあると考える。長いが、一部を抜粋する。

 

ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。(中略)ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日と尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(中略)こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(中略)食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙14章)

 

複雑だが、ポイントをまとめると以下のようになるだろう。

 

<ローマ14章まとめ>

1:それ自体でNGな食べ物、飲み物はない。

2:何を食べるか、何を飲むか、どの日を大切と考えるかは、人によって違う。

3:あなたは、あなた自身の信仰によって行動すべきである。

4:正しいと思う行動は正しい。しかし、「自分の信仰」に基づかない行動は良くない。

5:あなたの行動は自由であるが、信仰を持つほかの兄弟姉妹が、それによって傷ついているなら、それは愛ではない。また、あなたの行動によって彼らを信仰から遠ざけていないか、吟味が必要である。

6:イエスは、あなただけでなく、兄弟姉妹全員のために死んでくれたのだ。あなたの自由な行動によって、イエスが死んでまで愛した人を傷つけたり、信仰から遠ざけるべきではない。

繰り返すが、酒を飲もうが、タバコを吸おうが、何をしようと、あなたが疑問を抱かず、信仰に基づいて行っているのなら、それは正しい。それ自体でダメなものはない。しかし、あなたのその行為が、まわりの兄弟姉妹を傷つけていないか。彼らを信仰から遠ざけていないか。吟味が必要である。

私は、別に教会の集いの中で酒を飲んでもいいと思っている。礼拝堂がある建物の中でアルコールを飲んでもいいとも思っている。しかし、その集会の中に、やっとアルコール依存症から開放されたばかりの信者の仲間がいたら、どうだろうか。美味しそうに酒を飲むあなたたちを見て、彼はもう一度アルコール依存症に戻ってしまわないだろうか。もし、そういう人がいるのが明らかなら、集いの中での飲酒はヤメたほうがいい。

もしかしたら、あなたの集会の中に、酒乱の両親に暴力をふるわれた人がいるかもしれない。あなたがお酒を飲む行為が、その人に過去のトラウマをフラッシュバックしてしまうかもしれない。その結果、その人が、礼拝会の集会に来にくい環境を作ってしまうかもしれない。もし、そういう人がいるのなら明らかなら、集いの中での飲酒はヤメた方がいい。

もし、あなたの「飲酒」があなたの信仰の友を傷つけ、信仰から遠ざけると分かっていながらやめられないのであれば、それは愛ではない。あなたの愛は、「飲酒」を「ギブアップ」できる愛だろうか。イエスは自らの命までも「ギブアップ」して、その友を救ったのだ。

 

もちろん、そんな細かなことまで気にし出すと、教会の集まりで何もできなくなってしまう。上っ面だけの、偽善者の集まりになってしまう。イエスはそれを一番批判した。パリサイ人や律法学者たちは、うわべと中身が違っているから批判を受けた。飲酒の間違いから遠ざかるために、「予防線」を張るのは大切だが、それにこだわりすぎると、すぐに「律法主義」の罠にハマる。

私は、信仰の友と酒を飲むときは、こういう「線引き」をしている。もし、一緒に食事をする信仰の友の飲酒に対するスタンスが定かでない場合は、飲酒が「offensive」(不快な思いをさせる行為)でないか、いつも尋ねるようにしている。正直、「居酒屋」とかで集まった時点で、大丈夫かもと思うのだが、半ば儀式的に尋ねるようにしている。「空気」を読むのが日本人の得意技なのだから。

何よりのオススメは、「相談相手」(Acountability)を作ることである。これは、飲酒に限ったことではない。「相談相手」とは、信仰の友同士で、お互いの霊的状況を相談し合う、「相互カウンセラー」のようなものだ。「霊的五人組」とでも言おうか。お互いに問題があれば、お互いに注意し合い、お互いに刺激し合い、お互いに励まし合う。もし飲酒が過剰になっていたら、ストレートに「気をつけろ」と言える仲間が、あなたの教会にいるだろうか。あなたの集いの中で、あなたの抱えている問題を分かち合える信仰の友はいるだろうか。もしいるなら、もっと親密になろう。もしいないなら、少しでも自分から心を打ち明けてみよう。それが一番の「予防線」になる。

 

ただ、注意しないといけないのは、「自分の信仰を保つ」というポイントだ。何度も繰り返すが、飲酒そのものは悪い行為ではない。クリスチャン界には、「つまずき」をいたずらに警戒する悪しき文化がある。その「つまずき」は、正しい「つまずき」なのかも吟味の必要がある。本来聖書が自由としているものを、勝手に「ダメだ」と禁止したり、タブー視するような空気が、教会や集いの中にあるのなら、それは健全とは言えない。お互いに意見を交わし、お互いを尊重し合う文化の情勢が必要である。そうしないと、「つまずいた」という側の言い分が、なんでも正しいということになってしまう。それは、単なるワガママである。

もし、あなたの価値観が、誰かに言われたことだけで作られているとしたら、問題だ。他人の言葉を鵜呑みにしているだけなら、それは信仰とは言えない。自分で聖書を読み、神と対話し、自分の生き方を決めていく必要がある。自分で考えた結果、飲酒をするもよし、やめるもよし、人に勧めるもより、勧めないもよしだ。大切なのは、自分で聖書を調べ、果たして本当かどうか吟味することである。やはりここで大切になってくるのは、「心の動機」である。

あなたが酒を飲む、「心の動機」は何だろうか。「美味しいから?」、「辛いことを忘れたいから?」、「付き合い?」、もしかして、「誰かを酔わせたいから・・・?」

あなたが酒を飲まない「心の動機」は何だろうか。「お酒が好きじゃないから?」、「別に飲む必要もないから?」、「教会の決まりだから?」、「罪悪感があるから?」、もしかして、「罪だとカンチガイしているから・・・?」

 

あなたの心の動機は何だろうか。

酒は神からの恵み

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最後に、一番大切なポイントを指摘して終わりたい。

 

 私たちは行いによって救われるのではない。

 

クリスチャンにとっては当たり前の話だが、この手の議論をするとき、多くの人が、この恵みによる救いを忘れがちだ。「飲酒」は罪ではない。私たちはもはや、全てのことに対して自由にされているのである。律法の要求は、イエスが完成させている。私たちは、神の恵みの中にあって自由にされている。だからこそ、「自分の信仰」が大切なのだ。なんでもかんでもしていいのとは違う。それは、あなたの「心の動機」に聞けば分かるだろう。だから、結局の所、本来はこんな「飲酒はいいのか悪いのか」みたいな議論には意味がない。イエスを信じていれば、どうぞご自由に。以上。

 

その上で、「酒は神の恵み」だと指摘しておきたい。いくつかの聖書の言葉を紹介する。

 

これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。

(テモテへの手紙第一 5:23)

少量の酒は、良薬にもなる。実際、飲酒が程度によっては健康にいい効果をもたらすという研究データもあるそうだ。

 

ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えなさい。その人は飲んで自分の貧しさを忘れ、もう自分の労苦を思い出すことはない。

(箴言31:6~7)

飲酒は、時にこの世の労苦を忘れさせてくれる。ストレス発散のために酒を飲むのは、むしろ正しい行為だと思う。

 

あなたは、そこで(約束の地)その金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。

(申命記14:26)

ぶどう酒や強い酒は、主の前で食べ、家族とともに喜びを分かち合うためにある。神の、素晴らしい創造物である。家族の喜びの交わりの中に、お酒の存在はあるのだ。お酒は本来、神が作った恵みなのである。

 

ほかにも、ネヘミヤが民が悲しんでいる時に上質なぶどう酒を飲めと勧めたり、ぶどう酒を捧げ物として用いたり、お酒のポジティブな面を表した箇所はたくさんある。

私のオススメする生き方は、自分なりの節度とルールをもって、神が作ったアルコールという、素晴らしい創造物を、感謝して喜び楽しみ、それを分かち合うという生き方である。

執筆者 小林拓馬