ローマ15:22-33 『ローマ42 私のために祈ってください』 2018/05/13 松田健太郎牧師
ローマ人への手紙15:22~33
15:22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを何度も妨げられてきました。
15:23 しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、
15:24 旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。
15:25 しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。
15:26 それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助することにしたからです。
15:27 彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。
15:28 それで私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニアに行くことにします。
15:29 あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになるとわかっています。
15:30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈って下さい。
15:31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、
15:32 また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈って下さい。
15:33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。
1年余り続いてきたローマ人への手紙のシリーズも、そろそろ終わろうとしています。
パウロはローマの人たちに伝えたかったことをすべて語り終えて、手紙を締めくくろうとしています。
今日の個所は、パウロが今後どうするつもりかということについて書かれているところですね。
パウロはこの手紙を書いていたとき、どんなことを考えていたのでしょうか。
まず彼の心の内に大きくあったのは、いつかローマの教会を訪れたいという思いでした。
こうして手紙を書くことも大切だけれど、いつかあなたたちに直接会いたい。
顔と顔を合わせて話をし、そして文字ではなく、口から出ることばによってローマの教会を励ましたい。
それはパウロが、この手紙を書き始めた時から話していたことでもありましたね。
でも彼の計画はローマだけに留まってはいませんでした。
彼は「イスパニアに行くときには、ローマにも立ち寄りたい」と言っているんです。
イスパニアというのは、今でいうスペインのことですね。
当時はローマ帝国の最西端。
言わば世界の果てに行って、福音を伝えるつもりだと言うのです。
この手紙を書いたとき、パウロはコリントの辺りにいたと思われます。
コリントはギリシヤの辺りですから、実はローマからそれ程遠くにはいませんでした。
そして、そこからイスパニアに向かうということも、決して難しいことではなかったのではないかと思います。
しかしパウロには、その前にやらなければならないことがありました。
それは、一度エルサレムに戻るということです。
ローマの教会を訪れ、さらに西の端イスパニアまで福音を運びたいという願いを持っていたのに、そしてそれが可能な所にいたにもかかわらず、彼はまた東の果てまで戻らなければならなかったのです。
なぜでしょう?
それは、エルサレムで迫害を受けて危険な状態にある兄弟姉妹を助けるためです。
ここで少し、当時のエルサレムの状況を振り返ってみましょう。
キリストのからだとしての教会は、ペンテコステの時にエルサレムから始まりました。
そのとき彼らは、自分たちの財産を分かち合って、共同生活をしていたのです。
それはとても美しい姿ではありましたが、長くは続きませんでした。
迫害がさらに激しくなり、多くの人々はエルサレムからは離れざるをえなくなってしまったのです。
その頃には多くの人たちが財産を手放してしまっていたために、彼らはますます危機的状況に陥っていきました。
エルサレムに残った人たちは、激しい迫害の中で、生活することさえもままならない状態だったのです。
パウロが宣教の旅をしている間、その話を聞いていた他の地域の人たちが、彼らを助けたいと救いの手を差し伸べました。
マケドニアや、アカイアの教会がお金を集め、パウロはそれをエルサレムに持っていこうとしていたわけです。
さて、皆さんはパウロがエルサレムに戻った後、どのようなことが起こったかをご存知でしょうか?
パウロはこの後、イスパニアへの宣教の旅に出て、その途中でローマに立ち寄ることができたのでしょうか?
いいえ。残念ながら、パウロのこの願いが果たされることは、ついにありませんでした。
パウロはエルサレムで捕らえられてしまうのす。
そしてローマに連れていかれ、裁判にかけられて、殺されることになります。
実は、パウロにはそのような予感がありました。
この手紙を書いたころ、パウロはエルサレムに向かう道中でこのように話しています。
使徒20:22 ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。
20:23 ただ、聖霊がどの町でも私に証して言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。
もちろん、イスパニアに行きたいという思いにも、ローマの教会の人たちに会いたいという思いにも偽りはありませんでした。
しかし、その思いが果たされないだろうということも、パウロには何となくわかっていたのです。
その不安を拭い去るように、パウロは「私のために祈って欲しい」とローマの人々にお願いしています。
15:30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈って下さい。
15:31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、
15:32 また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈って下さい。
15:33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。
ここには3つの祈りの課題があります。
ひとつは、ユダヤにいる不信仰な人々、つまりユダヤ教徒たちから救い出されるように。
2つ目は、エルサレムに対する私の奉仕、つまり献金を運ぶ働きが、現地のクリスチャンたちに喜ばれるように。
そして3つ目は、ローマの教会の人々のところに行き、憩いを得ることができるように。
この祈りは聞かれなかったのでしょうか?
いいえ、この3つの祈りは確かに聞かれました。
しかし、それはパウロが願っていた形とは違うものだったかもしれません。
ひとつ目の祈りは、ユダヤ人たちに暴行を受け、殺されそうになっているところを、ローマの駐屯軍によって救い出されることによって実現しました。
2つ目の祈りは、エルサレムの教会に献金が受け入れられることによって実現しました。
そして3つ目の祈りは、捕らえられたパウロが、鎖につながれながらもローマに連れていかれることによって実現しました。
願っていたように、宣教旅行の途中で立ち寄る形ではありませんでしたが、パウロはエルサレムで殺されるのでもなく、途中の船の遭難で死んでしまうのでもなく、無事にローマに来ることができたのです。
そこで彼は家が与えられ、監視がついている中とはいえ、ローマの教会の人たちともついに会うことができました。
神様の計画と私たちの思いは、時として大きく違うものです。
私たちは平和や安定を求めますが、神様のみこころが実現しているためには、大きな困難に直面したり、状況が大きく変わってしまうこともあります。
多くの人たちは、パウロがローマ帝国の手から解放されて宣教の働きを続けることができるように願っていたと思いますが、そうはなりませんでした。
神様はそれとは違う方法で、福音が伝えられえることを計画していたのです。
そして、私たちがそれを考えるとき、大切なことに気がつかされます。
それは、私たちが自分の思いを優先させるのではなく、神様のみこころを第一に求めるべきだということです。
たとえそれが私たちの願うところではなかったとしても、神様の道がいつでも最善だからです。
詩篇33:11 主のはかられることは、とこしえに立ち、みこころの計画は、代々に続く。
と聖書には書かれています。また、
マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
とイエスさまは言いました。
私たちの思いが神様のみこころと重なるとき、私たちはそこに最善の道が拓かれていくのを見ることになるのです。
そしてそのために必要なのは祈りです。
これから十字架にかけられることを知っていたイエスさまは、このように祈りましたね。
マルコ14:36 そしてこういわれた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去って下さい。しかし、私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
パウロ自身も不安の中で祈り、これから歩むべき道を神様に示され、それに従いました。
ローマの教会の人々も、このことについて祈りながら、その思いが神様のみこころと一致していったのではないでしょうか。
私たちも、神様のみこころ、神様の最善を心から求めて祈りましょう。
そして、たとえその先に拓けていく道が私たちの願いと違うものだったとしても、それに従って前に進もうではありませんか。