日曜日の「礼拝」は本当に「礼拝」なのか!?
多くの教会が、日曜日の午前10時30分から「礼拝」という集会をやっていますが、それは本当の「礼拝」なのでしょうか?
目次
日曜日の「礼拝」
クリスチャンならば、「日曜礼拝」という言葉は、耳馴染みがあるだろう。プロテスタントは「礼拝」、カトリックならば「ミサ」とでも言おうか。そう、多くの教会が、日曜日の午前10時30分くらいから「礼拝」と称する集会をやっている。
たいてい、最初に賛美歌とかワーシップソングというクリスチャンの歌を何曲か歌って、その後、「主の祈り」とかを全員で祈って、司会者による聖書朗読があって、牧師の説教(メッセージ)があって、祈りがあって、また賛美歌を歌って、その間に献金袋が回って、最後に「祝祷」とかいう祈りを牧師がして、終わる。そういう「礼拝」だ。この「礼拝」たるものが、クリスチャンの教会では毎週日曜日に行われている。
クリスチャンではない人からは、よく「クリスチャンになったら、日曜日に教会に行かなきゃいけないんでしょう?」と聞かれる。確かに、毎週行われているのだから、教会のメンバーならば参加しないといけない感じはある。しかし、それは明確な間違いだ。私は、そのような疑問に、「義務ではないですよ」と説明する。では、この「日曜礼拝」はなぜ存在するのか。この「礼拝」という集会は、果たして本物の「礼拝」なのだろうか。聖書にどう書いてあるのか、見ていこう。
「礼拝」とは?
そもそも、聖書は「礼拝」について、どういうものだと説明しているのだろうか。おそらく、「礼拝」についての箇所で一番有名なのは、次の聖書の言葉である。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
(ローマ人への手紙 12:1)
ローマ12章のとても有名なこの言葉は、「礼拝」を議論する際には欠かせない。この聖書の言葉によれば、「礼拝」とは、「自分自身のからだを、聖なる生きたささげ物として献げること」である。なんじゃそりゃ。パッと聞いただけではイメージがわかない。
それもそのはず。この箇所は、旧約聖書の知識がある前提で説明している。だから、まず、旧約聖書での「礼拝」はどんなものだったか考える必要がある。
この箇所の「礼拝」には、ギリシャ語で「ラトリア」という単語が使われている。新約聖書全体で5回しか登場しないレアな単語だ。「礼拝」と翻訳されているが、「礼拝」そのものの行為よりも、「礼拝の儀式」とか、「定められた礼拝の方法」といった意味があるようだ。この単語の意味を考えても、旧約の儀式の内容を前提に読んだほうが良さそうだ(※ちなみに、一般的な「礼拝」は、ギリシャ語では「プロスクネオ」で、新約聖書に60回登場する)。
では、まず旧約聖書の「礼拝の儀式」はどんなものだったか見ていこう。
旧約聖書の「礼拝」はどんなものか?
旧約聖書で、一番最初に「礼拝」の単語が出て来るのは、次の箇所である。
それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻ってくる」
(創世記 22:5)
この箇所で、「礼拝」、ヘブライ語で「シャハー」という単語が初めて登場する。ほとんど「礼拝」と訳されるが、「地面に伏して崇拝する」という意味がある。「伏し拝む」とも翻訳される。現代においては、イスラム教の人が絨毯をひいて、ひれ伏して礼拝をしているのをイメージすれば、分かりやすいだろうか。
これは、アブラハムがイサクを「いけにえ」として神に捧げようとするシーンである。彼らの目的は、「全焼のいけにえ」を神に捧げることであった。「礼拝」は一義的には、シンプルに「ひれ伏して拝む」ことだ。しかし、その行為には、必ずといっていいほど「いけにえを捧げる行為」が付随するのである。申命記には明確な命令がある。
「今ここに私は、主よ、あなたが私に与えてくださった大地の実りの初物を持って参りました」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前で礼拝しなければならない。
(申命記 26:10)
これは、「約束の地」にイスラエルの民が入る前の話。「こう言って収穫に感謝し、ささげ物をささげることで、礼拝しなさい」と、神がイスラエルの民に命じた箇所だ。「礼拝」=「いけにえを捧げる行為」までいくと言いすぎだが、「礼拝」と「いけにえ・ささげ物」はセットなのである。
他にも、もういくつか、旧約聖書の「礼拝」を見てみよう。
この人(エルカナ・サムエルの父)は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた。
(サムエル記第一 1:3)
ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。
(サムエル記第二 12:20)
こうして、サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来てベテルに住み、どのようにして主を礼拝するべきかを教えた。
(列王記第二 17:28)
また、あなたの神の宮での礼拝のために渡された用具は、エルサレムの神の前に供えよ。
(エズラ記 7:19)
他にもたくさんの「礼拝」の記述があるが、以下のような点にまとめられる。
1:「礼拝」は、「いけにえ」とセットだった
2:「礼拝」は、もともと、一義的には「地に伏して神を拝む」シンプルなものだった。
3:後代になり、「礼拝」のための場所(幕屋、シロ、主の家、神の宮など)が決まっていった。
4:後代になり、「礼拝」は、祭司やレビ人などの特別な人が、特別な役割を担う仕組みになっていった。
5:後代になり、「礼拝」は、手順などのルールができていった。それは、やり方を教えなければいけないほど複雑だった。
6:後代になり、「礼拝」には様々な用具も必要になっていた。
まさに、ヘブル人への手紙に書いてある通りである。
さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。
(ヘブル人への手紙 9:1)
ヘブル9:1の箇所のギリシャ語も、「ラトリア」(礼拝の儀式)である。礼拝は「いけにえ」などの「ささげ物」がセットの、複雑な儀式だったのだ。
もっとも、ダビデはベッドの上でも「礼拝」したようである(列王記第一 1:47)。だから、後代になっても、「礼拝」は、一義的にはもっとシンプルな、「ひれ伏す」行為のことだったのかもしれない。しかし、それはひれ伏して、神に恐れと崇拝の心を示す行為だった。決して、毎週日曜日の午前10時半に集まる集会のことを指すのではなかったはずだ。
新約聖書の「礼拝」はどんなものか?
では、新約聖書において、「礼拝」とはどのようなものなのだろうか。ローマ12章の箇所は、既に触れた。ここでは、イエスがどう教えたか見よう。ヨハネ4章の有名な箇所がある。
彼女(サマリアの女)は言った。「主よ。あなた(イエス)は預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
(ヨハネの福音書 4:19~24)
ここの「礼拝」は、「ラトリア」ではなく、「プロスクネオ」である。意味合いは、ヘブライ語の「シャハー」とほぼおなじで、「ひれ伏す」という意味だ。しかし、文脈を考えれば、この「礼拝」も、いわゆる、宮に行って、所定のいけにえを捧げて、儀式を行う、あの「礼拝」と考えて差し支えない。
サマリヤ人は、もともとイスラエルの民だったが、アッシリヤの侵略によって、周辺諸国と民族が混ざってしまうこととなり生まれた、混血の民だった。彼らは、エルサレムではなく、ゲリジム山を「礼拝」するべき場所だと定めていた。「モーセの律法」ではなく、「サマリヤ五書」という律法も持っていたようである。
しかし、イエスはその女に、「本物の礼拝」とは何か教えた。それはどういうものか、イエスは主に2つのポイントを話している。
1:「本物の礼拝」は、どこでも「礼拝」できる。
2:「本物の礼拝」は、御霊と真理によって「礼拝」する。
1つ目のポイントはわかりやすい。エルサレムでも、ゲリジム山でも、イスラエルでも、日本でも、どこでも「礼拝」できるという、文字通りの意味だ。
2つ目は、ちょっとわかりにくい。しかし、先に論じた旧約聖書の常識と比較すれば、容易に理解できるはずだ。
【旧約聖書、モーセ律法の常識】
「礼拝」は、「決められた場所で」、祭司を通して行うもの。所定のいけにえを捧げ、決められた儀式の手順を守ることで、やっと聖なる神に近づき、礼拝できる。
【新約聖書、イエスの常識】
「礼拝」は、「いつでもどこでも」、ただ聖霊によって知り、受け入れることのできる大祭司イエスを通して行うもの。儀式は必要なく、ただ唯一の完全ないけにえであるイエスの犠牲によって、聖なる神に近づき、礼拝できる。
お分かりいただけただろうか。もう少し噛みくだくと、以下のようになる。
「御霊」
聖霊。聖霊なくして、イエスを知り、受け入れることはできない。
「真理」
イエス自身。イエスが唯一のいけにえであり、大祭司であるという真理。救い、贖い、なだめの真理。イエスによって救われ、神に近づけるという真理。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」
イエスが、旧約聖書の様々な規定のある「礼拝」の概念を、完全に変えたのである。「礼拝」のパラダイムシフトが起きたのだ。まさしくヘブル9章に書いてある通りである。
この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。(中略)しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
(ヘブル人への手紙 9:9~12)
イエス以降の時代に生きている私達は、いつでも、どこでも「礼拝」できる。聖霊によって、イエスを知り、受け入られる。旧約のいけにえ、儀式をしなくても、ただイエスお一人を通して、聖なる完全な神に近づき、神との関係を楽しめる。なんという恵みだろうか。
「礼拝」はあなたの人生を「いけにえ」として捧げること
ここまで読めば、最初のローマの箇所の意味が、腑に落ちると思う。もう一度読もう。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
(ローマ人への手紙 12:1)
筆者のパウロは、当然、旧約の礼拝で使った「いけにえ・ささげ物」と対比してこの箇所を書いたに違いない。「完全なささげ物」は、イエスただ一人である。私達は、イエスを通して礼拝できる。
しかし、パウロはそれにとどまるなと言っているのである。さらに上のレベルのことを、文字通り「オススメ」している。それは何か。それこそが、「自分自身をささげ物として献げなさい」という言葉だ。
旧約の時代では、「ささげ物」を捧げることが「礼拝」だった。しかし、今の時代の私達にとっては、「自分自身」を捧げることが「ふさわしい礼拝」となったのだ。あなたの「生き方」そのものが、「礼拝」となるのだ。
イエスを信じた瞬間から、自分の命は自分のものではない。あなたの命は、イエスによって買い取られたのだ。あなたの人生は、もはやあなたのものではない。「お前はもう死んでいる」のである。
真の礼拝者は、もはや自分の力で生きない。聖霊の力で生きる。
真の礼拝者は、もはや曜日や時間に縛られない。24時間365日、神と共に生きる。
真の礼拝者は、もはや自己中心の道を歩まない。神の道を歩む。
真の礼拝者は、もはや虚しいもので心が満たされない。ただ神との人生を喜ぶ。
真の礼拝者は、もはや選択を迷った時に自分の判断で決断しない。神に寄り頼む。
真の礼拝者は、もはや失敗してもくよくよしない。神に感謝して立ち上がる。
真の礼拝者は、もはや人をねたまない。恵みに満ち溢れる。
真の礼拝者は、もはや罪に縛られない。イエスによって解放されている。
あなたの生き方そのものが、全て、「礼拝」になるのである。
日曜日の「礼拝」は「礼拝会」にすぎない
ともすると、日曜日、午前10時半の「礼拝」とは一体何なんだろう。もはや、それが「礼拝」ではないことは明らかだ。聖書の記述のどこに、賛美歌を歌って、司会者がみことばを朗読し、牧師がメッセージをして、また賛美をして、その間に献金袋を回して、最後に祝祷を祈ることが「礼拝」だと書いてあるのだろうか。全く書いていないのである。実は、それらはただの「文化」なのである。「礼拝」の本質は、「日曜礼拝」にはないとハッキリいいたい。もっといえば、「主日礼拝」なんてものはない。強いて言えば、毎日が「主日礼拝」なのだ。
誤解してほしくないのだが、私は、日曜日の集会を否定しない。しかし、それを「礼拝」と呼ぶのは気が引ける。それは、「礼拝」ではなく、単なる「礼拝会」、または「礼拝式」だ。もちろん、「礼拝会」そのものは、とても重要で、参加した方が良い集会だ。ヘブル人への手紙には、こうも書いてある。
こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることがわかっているのですから、ますます励もうではありませんか。
(ヘブル人への手紙 1019~25)
パウロは、集まりをやめたりしないように注意している。自分の人生そのものが「礼拝」だという認識が強まりすぎると、自分だけで生きていけるような錯覚に陥る。それは間違いだ。私たちは、同じイエスの子どもとして、お互いに励まし合い、教え合い、お互いを大切にし合い、支え合い、一緒に笑い合い、時にぶつかり合い、時に助け合う必要がある。人間は弱く、すぐ自分の力で生きようとしてしまうからだ。しかし、それは間違いだ。それを忘れないための「礼拝会」だ。
「礼拝」のために「礼拝会」があるのではない。「礼拝会」のためにあなたがいるのでもない。ただ、お互いが「礼拝」と呼べる人生を送れるよう、お互いに心を新たにするために集まるのである。そのための「礼拝会」だ。
また、イエスが提起した「礼拝」のパラダイムシフトがもうひとつある。それは、次のイエスの言葉だ。
まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。
(マタイの福音書 18:19~20)
これは、ユダヤ人にとって驚きの言葉だったに違いない。なぜか。ユダヤ教では伝統的に、10人集まらないと会堂で祈れなかったからだ。彼らは、10人集まらないと、「礼拝」を始められなかった。この伝統は、今も受け継がれている。この理由は、アブラハムが神と交渉した際、人の最小単位を10人とした故事に起因する(創世記18章参照)。
ユダヤ人は10人が礼拝の最小単位だった。しかし、イエスは、2人か3人が集まるとき、その中に自分自身もいると宣言した。「礼拝」のパラダイムシフトが起こったのだ。この瞬間から、私たちは10人ではなくても、どこでも、イエスと共に礼拝できるようになったのだ。
重要なのは、「1人」とは言っていない点だ。私たちは、2人でも3人でも、共に集まり、イエスの名前を宣言し、礼拝できる。お互いに希望を告白できる。自分たちの心をイエスにチューニングできる。しかし、それは1人ではできない。2人でも3人でも、信仰の友と集まるのは重要である。
私たちが信仰の友とともに、告白するべき希望は、政治的信条ではない。私たちが告白する希望は、「イエスによって、大胆に神に近づける」という希望だ。私たちは、「完全ないけにえ」となったイエス師匠を目指して、自分自身も「完全ないけにえ」に近づけるよう、毎日毎日、一歩ずつ、イエスに近づいていくのである。その人生そのものが、「礼拝」なのである。
ライター 小林拓馬