出エジプト3:1-14 『私は一体何者でしょう?ーモーセの召命ー』 2018/07/08 小西孝蔵
出エジプト第3章1~14節
3:1モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。 3:2ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。 3:3モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。 3:4主は彼がきて見定ようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。 3:5神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。 3:6また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。
3:7主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。 3:8わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。 3:9いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。 3:10さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。 3:11モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。 3:12神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。
3:13モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。 3:14神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
1. モーセを取り上げる3つの理由?
1) 旧約と新約の関係を正しく理解する。 ← ローマ書で信仰義認を学んだ。パウロは、律法主義を否定したのであって、律法そのものの役割は認めた(養育係など)。
律法とこれを守る契約は、本来、神様と人間との関係を回復させるものとして神から与えられたもの。
2) モーセは、信仰の人。 ← 十戒に人として知られているが、信仰の人であり、また、キリストを予表する(指し示す)役割を持っている。← へブル書12章(後述)、ヨハネによる福音書における引用。
3) サーバント・リーダーのモデルと私たちの生き方への参考 ← 信仰と実践の人。民のリーダー、組織のリーダーとしてお手本になる。マクスウェルのリーダシップ論の最適な歴史上のモデル。チャーチルの配下にいたイギリス軍司令官で敬虔なキリスト教徒、モントゴメリーのリーダシップの著書でも真っ先に取り上げられている。
2. モーセの生涯を概観
1) 三つのライフステージ-120歳を3分割できる。
① 出生からエジプト王室での生活(約40年)、②エジプトからミデアンへの
逃亡、そして神からの召命まで(約40年)、③出エジプトからカナンへの地を前にしての死(約40年) → 神からの教育と訓練の期間が人生の3分の2.神から与えられた最大の使命は、最後の3分の1、80歳になったころ。私たちの寿命から行くと、60歳の定年になったころ。
2) これからのメッセージでは、3章のモーセの召命のところをスタートとして、5回前後で取り上げたい。十戒の映画で言うと、前半の最後の場面からという設定。フィルムを早送りします。毎回、礼拝時間の制限もあるので、フレクシブルに対応したい。
3) モーセの出生から成人までを要約(出エジプト1章及び2章に記載)。
① ヨセフが父ヤコブと兄弟をエジプトに呼び寄せてから約400年の歳月がたち、
紀元前13世紀頃、王朝が代わって、イスラエル人を奴隷として虐待するようになる。
② ヘブライ人の生まれた赤子を殺せというパロの命令に背いて、レビ族の両親(ヤコブのひ孫、レビの孫)が生まれたばかりのモーセをかごに乗せて川に浮かべて、水浴びしている王女のところに首尾よく流れ着いて、拾われる。モーセの姉の機転により、乳母として実母が5歳くらいまで育てた後、王女に引き取られ、王子として育てられる。 → 十戒の映画では、成人になって初めて出生の秘密を知ったとあるが、事実はそうではないと思われる。→モーセが栄華を捨てて、同胞のために戦う決意をしたのは、幼い頃の家庭教育にあったと考えられる。
③ 虐げられている同胞のヘブライ人を助けるために、虐待しているエジプト人を殺したため、王室を追われるようにして、逃げだす。
この間のモーセの心の内について、新約時代になってヘブル書の記者は、こう記している。
-へブル人への手紙11章23~26節
「11:23信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。 11:24信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 11:25罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 11:26キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。」
→ モーセが信仰による決断をしたと証されている。ただ、エジプトの王宮から追われる立場にあって、モーセの心は、人間としての挫折、信仰の弱さを感じていたに違いない。
3. 本日の聖書箇所(出エジプト3章1~15)
1) (1節) モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。
→ ミデアンの地は、アラビア半島の北端。祭司エテロは、アブラハムの再婚相手
ケトラの子孫。神の山ホレブとは、シナイ山の別名。シナイ山がどこにあったのか
は、諸説ある。有力説は、シナイ半島の南端。少数説は、アラビア半島の北端。
出エジプトのルートと関係するので次回以降に説明。
2)(2~6節) 燃える柴から神がモーセを呼ぶ「モーセよ、モーセよ」。モーセは「はい、
ここにおります。」と答える。
→ 信仰の人、モーセらしい。神様は、靴を脱ぎなさい、聖なる場所だから。
モーセは、直感的に、神から逃げていた自分の罪を感じていたと思われる。だから、
神の顔を見ることを恐れ顔を隠した。
3)(7~11節)神は、エジプトに虐げられているイスラエルの民を救うのは、
モーセであり、パロの下にモーセを遣わすと命ずる。モーセの反応は、「私は、
いったい何者でしょう。」
→ この時のモーセは、自信喪失。無力のどん底にあったと思われる。ライバルの王子に反逆され、強大なエジプト王朝に追われた身。見つかれば捕らえられる。イスラエルの部族から見ても、義理の父の羊飼いを手伝うだけの居候の身分。信仰といっても、若気の至りで正義感からエジプト人を殺した手逃げてきた失格者という自覚。そのモーセが「私は何者でしょう」と答えたのは、無理もない。
4) (12、13節)神は言われた。「私は、必ずあなたとともにいる。これが私のあなたを遣わしたしるしである。」
→ モーセは、それでも、信じられない。イスラエルの民は、モーセを遣わした神の権威を疑うだろう。神の名は、なんという名かと問うた。
5) (14節)神は、言われた「私は、有ってあるもの」(I am that I AM.)
→ ヘブライ語で、「私は、ある」とも、「私はなる」とも訳される。すなわち、「私が何で
あり、何になるかは、私が決めること」という意味で、神の自由、絶対的権威を示し
た名前。その絶対的支配権を持たれる神が、必ずあなたと共におられるという宣
言は、なんと心強いことか。→ それでもモーセはまだ疑うが、その様子は次回、
4. 私たちは、モーセの召命の聖書箇所から何を学ぶか?
1) 神様の語り掛けは、かすかな兆候かもしれない。祈っているうちにかすかに聞こえてくるとき、素直に答える。→「はい、ここにおります。」
2) あの強い逞しいモーセですら、立ち上がれない挫折感、弱さを味わっていた。私たちも自分に挫折した時、無力感を感じるときに、神様は、私たちの進むべき道と乗り越える力を与えてくださる。→傲慢の罪を赦して、再出発させてくださる。
3) 私の体験、若い時に将来が不安で道に迷っていた時に、神様が天職を与えてくださった。社会に出てから、自分の限界を超えた仕事がのしかかってきたことがしばしば。そして、今でも、難しい仕事が舞い込んできたときに、こうつぶやきます。
→ 「私は,一体何者でしょう」「到底私には耐えられない」と。
→ 「私は、今も、これからも変わらない」「私は、あなたと共にいる」とイエス様は仰せられる。これ以上の励まし、慰めはない。
最後に、モーセが指し示すイエス様のみ言葉を2か所ご紹介して終わります。
マタイ28章20節
「28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。第2コリント12章9~10節
「12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 12:10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」