牧師が間違っていると思ったときどうすればいいか【前篇】
牧師が言っていることに納得できない。そんな時はどうすればいいのでしょうか?
目次
牧師に意見できない風潮
友人のA君が、久しぶりに電話をかけてきた。「ご飯に行こう」と言う。会ってみると、驚いた。待ち合わせの店に来た彼は、ひどく落ち込んでいた。いつも明るかった彼が、うつむき加減で、ぼそぼそと話している。話を聞くと、彼は、教会の中で人間関係の問題を抱えていた。
彼は、ある日曜日の牧師のメッセージ(説教)が、納得できなかったのだという。それをつい口にしてしまったために、まわりの信者たちから「牧師に反抗するなんて、とんでもない」と言われ、責められた。村八分にされた。奉仕も辞めさせられたという。「教会に居場所がない」というので別の教会へ移るよう勧めた。「でも、教会を裏切れない」と彼はガックリ肩を落として語った。
彼の気持ちは、痛いほどよく分かる。私もかつて、韓国系の教会に通っていた。儒教の影響が強い韓国の教会では、牧師の権限は絶大。牧師の言うことに意見するなど、とんでもないご法度だった。何か言おうもんなら、もう非難の集中攻撃。でも、みんな影ではコソコソ牧師の悪口を言っていたのだった。
確かに、教会の中では牧師に意見するなど、とてもできないといった風潮がある。韓国ほどではないが、日本もその傾向が強い。牧師の言うことはみな正しくて、従うべきで、疑問を抱いてはならないのである。表立って牧師に意見する人は少ない。でも、不満は当然あって、それが悪口、うわさ、ねたみ、苦々しい思いとなって教会の人間関係を壊していく・・・。
日大のアメフト監督やコーチの指示による、反則タックルが問題となっている。誰もが間違っていると思いながらも、異論を唱えられない空気があったという問題だ。教会の中にも、同じような問題がないだろうか。そもそも、牧師の言うことは全て正しいのだろうか。全て従うべきなのだろうか。疑問を一切抱いてはいけないのだろうか。それを口にしてはいけないのだろうか。今回はそんな観点から記事を書く。
牧師ってそんなに偉いの?
牧師とは、そもそもどのような存在なのだろうか。聖書を見てみよう。
こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師(牧者)また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
(中略)
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して愛のうちに建てられることになります。
(エペソ人への手紙 4:11~16)
実は、「牧師」という単語は聖書にたった1回、この箇所にしか登場しない。そもそも、ギリシャ語を直訳するなら「牧者・羊飼い」で、この箇所は意図的に訳を変えてあるだけ。そもそも「牧師」は中国で作られた造語なのだ。明治、大正時代の翻訳者たちがそれを考えなしに輸入してしまっただけなので(参考:「聖書の日本語」鈴木範久)、「牧師」なんていう言葉は意味はないし、聖書に登場すらしないのである。
また、牧師は教会のトップと考えられがちだが、それは間違いだ。ハッキリと、「かしらであるキリストに向かって成長する」と書いてある。教会のトップはイエスだ。牧師ではない。また、文脈からも分かるように、牧師はイエスを頭とした共同体の「働きの一部分」であって、他よりも重要だとか、特別な役職ではない。「牧師」は、使徒、預言者、伝道者、教師と並列で並んでいる役目の一部分なのである。
教会という共同体は、ただイエスだけがトップであり、あとは全員互いにキリストのからだの一部分だ。そこに優劣はない。
ですから、あなたがたは偽りを捨てて、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。
(エペソ人への手紙 4:25)
それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
(中略)
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。人つの部分が苦しめば、全ての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
(コリント人への手紙第一 12:22~27)
クリスチャンは、キリストのからだの一部分である。牧師はその働きの一部分である。その中で誰が偉いとか偉くないという議論は、やれ、目が大事か、右手が大事か、肝臓が大事かと言って争っているようなものである。働きや機能は違えど、からだは、どの部分も大切なのである。
牧師が特別ではないというのは、少し間違いかもしれない。というのも、どの働きも特別だからである。クリスチャンは、それだけで、キリストのからだにとってたった一人の特別な存在なのだ。
信仰の仲間に間違いを「指摘」していいのか
牧師は教会という共同体のトップではなく、それだけが特別な役職ではないと分かった。共同体のトップはイエスであり、他の働きはそれぞれがキリストのからだの一部分である。つまり、牧師も伝道者も使徒も教師も預言者も、信仰の仲間の一人なのだ。
では、信仰の仲間に「あなたの言っていることは違うんじゃないか」と意見していいのだろうか。奥ゆかしい日本人は、人に意見するのをためらいがちである。「私なんかが意見していいのだろうか」と、ためらってしまうのだ。しかし、それは間違った謙遜である、と私は思う。
聖書はどう勧めているのだろうか。イエスはこのように言っている。
また、もしあなたの兄弟(=肉親の兄弟ではなく、信仰の仲間のこと)があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(集会)に伝えなさい。教会(集会)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
(マタイの福音書 18:15~17)
なんとびっくり、イエスはきちんと罪を指摘するように勧めている。余談だが、「新改訳聖書第3版」では「責めなさい」と訳してあるところが、「新改訳聖書2017」では「指摘しなさい」になっている。個人的に「指摘」の方がマイルドで好き(笑)。名訳。
さて、ここで面白いのは、
→「まずは2人だけで解決」
→「ダメなら3人か4人で解決」
→「それでもダメなら共同体で解決」
という順番をイエスが明確に示している点だ。個人的な問題は、まず個人個人の関係の中で解決すべきだ。だから、例えば牧師の言うことが「違うな」と思ったら、まずはその人との個人的関係の中で問題を解決した方がいい。具体的な言い方のオススメは<後半>で書く。
二つ目の「ほかに1人か2人、一緒に連れて行け」というのも、なかなか面白い。旧約聖書の律法では、裁判の証言は「2人か3人の証言」が必要だった(参照:申命記17:6、ローマ9:1など)。1人のみの証言では、裁いてはいけなかったのである。だからパウロも、ローマ9章で「キリストと聖霊によって証する」と2人の(最強の)証人を示している。イエスは、まずは個人的に解決を試み、それでもダメなら旧約聖書の常識に当てはめ、3、4人で解決するよう教えた。確かに、1人だけに言われると、言いがかりな気もするが、2、3人に同じ指摘を受けたら、ある程度高慢ちきな人でも思い直すだろう。イエス・グッドアドバイス。
しかし、それでもダメというコウマンチキを極める人もいる。その場合は、「教会(集会)に伝えなさい」とある。これを逆手にとって、牧師に意見する人を、教会が断罪するという愚かなことを正当化しているところもある。しかし、それは間違いだ。よく考えてみよ。イエスの時代には、まだ今のような「教会」はなかった。聖書では「会堂」と翻訳されている、ユダヤ教の「シナゴーグ」があったのみである。イエスが「教会」と言う際に、そのまま今の「教会」に当てはめてはいけない。そのような時制的違和感を持つのは、聖書を読む時には重要だ。
「シナゴーグ」は、当時、社会的に裁判所のような役目も担っていた。日本のお寺が、地域の行政的役割を担っていたように、当時の「シナゴーグ」は宗教的役目に留まらず、民事裁判を行う役目も担っていたのだ。イエスがいわんとしていたのは、「個人的、複数人でも解決できなければ、あとは共同体の裁定に委ねなさい」ということである。至極まっとう、当然のことである。
では、現代において、どのように適用すればいいのだろうか。聖書には「信者の中の問題を一般社会に持ち込むな」ともある(参照:コリント人への手紙第一6章)。よっぽどのことでない限り、裁判沙汰位にするのもどうかと思う。ここは難しいところだが、具体的なやり方のオススメは後述する。まずは、「信仰の仲間同士の問題は、まずは個人的、それでもダメなら、小さいグループの中で解決しよう」という点を覚えておいてもらいたい。
聖書は、信仰の仲間の間違いやズレ(「罪」のギリシャ語の意味は「ズレる・的外れ」である)を指摘するのは、とても重要だと教えている。相手のポジションは関係ない。いや、教える立場にある人が、間違っているなら、その影響力を考えるならば、むしろそういう人たちにこそ、「指摘」は必要だ。
私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。
(ヤコブの手紙 5:19~20)
「裁く」と「指摘」の違い
人の間違いやズレを指摘した方がいい。こう言うと、必ずこの言葉を引用して「それは違う!」という人がいる。このイエスの言葉だ。
さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
(マタイの福音書 7:1~4)
この聖書の言葉を引用し、人のズレを指摘する人を、「ほら、さばいてる!」とか、「さばかないで!」とか言う人がいる。こういう人は、日本語の理解がちと足りない。
「裁く」を日本語の辞書で調べてみた。
さば・く【裁く】<広辞苑第6版>
理非(道理から外れていること)を裁断する。裁判する。
さいだん【裁断】<広辞苑第6版>
理非・善悪を判断してさばくこと。
「さばく」とは、「不完全である人間」が、「善悪を判断して、裁断を下すこと」である。人間の社会の中においては、法律というルールにのっとって、裁判官が裁く。言い換えれば、「罪にあたるかそうでないか判断する」ということである。これは、「ズレを指摘する」と全く違うとうのは、明らかであろう。
裁く →罪であるか断定し、その結果を一方的に宣告する。
指摘する→それズレてない? と声をかける。結果は話し合って相互に考える。
罪かそうでないか裁く権利と正当性を持っているのは、唯一完全である神だたひとりである。だから「さばいてはいけません」というイエスの言葉はもっともだ。しかし、それは「間違いやズレを指摘するな」という意味ではない。
「さばく」については、別記事を書くつもりなので、ここまでに留める。「さばく」と「ズレを指摘する」というのは全く別物である。いたずらに「さばくな!」と「さばき返し」しないでほしい。
また、前述のイエスの言葉は、続きがある。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟(=信仰の仲間)の目からちりを取り除くことができます。
(マタイの福音書 7:5)
イエスの言葉は、「さばくな」ではなくて、「まず自分の姿を見直せ」「そうすれば他の人の間違いもただすことができる」という点にポイントがある。至極まっとうな教えである。イエスは、「人の間違いを指摘してはいけない」などとは、一言も言っていない。「人の間違いをただす」という目的のために、「まず自分の姿を見直せ」と言っているのだ。イエスの教えを捻じ曲げて捉えてはならない。
聖書で「指摘」をした人々
聖書でも、その身分に関わらず、人の間違いやズレを指摘したケースが数多くある。3つ紹介しよう。
【プリスキラとアキラ→アポロ】
プリスキラとアキラという夫婦がいた。プリスキラが妻で、アキラが夫である。普通、夫の名前を先に書くが、この2人は初登場時こそアキラ・プリスキラの順で書かれているが、それ以降はずっとプリスキラ・アキラの順で書かれている。それほど妻・プリスキラの存在感が大きかったという解釈もある。面白い。
この2人はコリントに住む天幕職人だったが、パウロと出会い、一緒にエペソにやって来ていた。パウロはそこからカイサリア→エルサレム→アンティオキアと移動したが、この2人はしばらくエペソにとどまったようである。さて、そのエペソにアポロという口のうまい男がやって来る。
さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。彼は街道で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、おおいに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。
(使徒の働き 18:24~28)
アポロは、聖書に相当詳しかったであろう。「主の道について教えを受け」とあるから、おそらくユダヤ教のラビの教えを受けたか、バプテスマのヨハネの弟子たちや、イエスの弟子たちから直接教えを受けたと考えられる。
一方、プリスキラとアキラはただの天幕職人。一般信徒であった(※のちに「執事」になるようだが)。プリスキラとアキラは、アポロが大胆にイエスのことを語っているの聞いて、関心したことだろう。しかし、同時に、「ちょっと違うな」と思ったのに違いない。「彼をわきに呼んで」というのは、後日ゆっくりというのではなく、おそらく「すぐに」と考えた方が自然だ。彼らは、すぐにアポロに「ちょいちょい、アポロさん、あんたの弁論はすごいけど、実はちょっと足りない点がありまっせ」と言ってアドバイスしたのである。
プリスキラとアキラは、大胆な指摘をした。アポロも、謙遜にその意見を受け入れ、より深い知識を身に着けた。その結果、アカイアにいる信仰の仲間の大いなる助けになった。プリスキラとアキラの行動力、アポロの謙遜な心によって、福音の働きがさらに拡大したのである。
クリスチャンの方々。あなたは、牧師が何か物足りないことを言ったとき、すぐに指摘できるだろうか。牧師やリーダーの方々。あなたは、信徒から何か指摘されたときに、謙遜な心で受け入れることができるだろうか。Get Away プライド~!
【パウロ→ペテロ】
パウロは、自らを「使徒」と自称しているが、実はかなり図々しい話である。「使徒」とは、そもそもイエスが12弟子のみに命名した、「イエス軍団」のようなネーミングだ。例えて言うなら、「たけし軍団」的な。イエスが弟子たちに「岩(ペテロ)」とか「雷の子(ヨハネ)」とか「馬好き(フィリポ)」とか、ふざけたニックネームをつけてるのも、たけし軍団っぽい・・・。
とにかく、ペテロやヤコブ、ヨハネらは、「俺たちは特別だぜ。イエス軍団の使徒だぜ!」と思っていたことだろう。ユダが裏切り、マッティアが補充され使徒となったが、原則、使徒はこの12人のみである。
しかし、パウロは勝手にこの「使徒」を自称した。ペテロたちは「何やねん!」と思ったことだろう。「イエス親分に会ったこともないくせに!」というのが12弟子たちの素直な気持ちだったのではないか。
さて、このパウロ、「使徒」を自称するのみならず、元祖使徒の中核的存在、ペテロ(ケファ)にさえ物申す。こんな聖書の箇所がある。
ところが、ケファ(ペテロ)がアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私(パウロ)は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れていったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。彼らが福音の心理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこういいました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強いるのですか」
(ガラテヤ人への手紙 2:11~14)
ペテロは、神から幻まで示され、「ユダヤ人ではなく、異邦人(外国人)にも救いが開かれている」という事実を学んだ(参照:使徒の働き10章)。それにもかかわらず、ペテロはユダヤ人の顔色をうかがって、だんだんと外国人と関わらなくなってきたのである。なんたる体たらく!
パウロは、「おい、ペテロ。何やっとんじゃ!」とかなり厳しく指摘したのである。面と向かって。しかも、他の人々の面前で。ある意味、ペテロの顔に泥を塗るような辱めである。ペテロ、赤っ恥。でも正論だから何も言い返せない。こればっかりはパウロが正しすぎる。日本人は「何も皆の前で言わなくても・・・」とパウロの「やり方」を批判するだろう。しかし、聖書にはそう書いていない。「やり方批判」の前に、問題の深刻さに目を向けるべきである。
「使徒」に勝手に後乗りしたパウロは、勇気を持って、大胆に「使徒」の中心的人物であるペテロを批判した。クリスチャンも、このパウロの姿勢に倣うべきではないか。誰かが聖書からズレてしまっているとき、それを指摘するのは、むしろ推奨されるべき行為だと思う。
【カナン人の女→イエス】
イエスに意見した女さえいる。しかも、ユダヤ人ではない、外国人だ。しかも、当時は弱い立場にあった女性。外国人の女性は、イエスに何と言ったのか。
イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。
弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます」
イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」
しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください」
すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」
しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」
そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」
彼女の娘は、すぐに癒やされた。
(マタイの福音書 15:21~28)
イエスは、この女の受け答えを「あなたの信仰は立派です」と褒めた。実は、聖書の中でイエスが信仰を「立派」とほめたのは、この女とローマの百人隊長の2人しかいない。イエスは、なぜ彼女をほめたのだろうか。
実は、女の「主よ、そのとおりです」というのは誤訳だと私は思う。これは、よくある日本語と英語などの外国語の文法の違いによる誤訳だ。日本語と英語では、「Yes」と「No」の使い方が違う。簡単な例で見てみよう。
<日本語の文法>
Q:ケンジ君に彼女はいないよね?
(いる場合) →A:いいえ。います。
(いない場合)→A:はい。いません。
<英語の文法>
Q:ケンジ君に彼女はいないよね?(Kenji does not have a girlfriend, right?)
(いる場合) →A:はい。います。(Yes, he does)
(いない場合)→A:いいえ。いません。(No, he does not)
おわかりだろうか。日本語は、質問を基準に「はい」、「いいえ」と答える。しかし、英語は、質問の答えを基準に「はい」、「いいえ」と答えるのだ。
つまり、「AはBではないですよね?」という否定の問いかけに対して、日本語で「はい」と答えれば「AはBではない」という意味になるが、英語の「Yes」だと、「AはBである」という意味になる。英語初心者の日本人が、よく戸惑う文法の違いである。
さて、このYesーNo文法において、ギリシャ語の文法は、おおむね英語と同じだそうだ。そこで、この「主よ、そのとおりです」のギリシャ語を見ると、「ナイ(Yes)」となっている。イエスの問いかけとの関係を整理しよう。
イエス「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは『良くない』(エイミ・オウ→英語のit is not)ことです」
女「『ナイ』(英語のYes)『ガール』(英語のfor~)、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
イエス「小犬にパンをあげるのはよくないよね?」
女「いえ、よいことです。 小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのですから」
おわかりいただけただろうか。イエスの「NOT GOOD, is it?」という否定の問いかけに対して、女の答えは、「Yes, for~(順接)」なのだ。
だから、この部分は、
「主よ、そのとおりです。ただ~」
と訳すべきではなく、
「主よ、とんでもございません! ~なのだから」
と訳すべきなのである。
そもそも、日本語で「主よ、そのとおりです。ただ~」と訳されている「ただ」も誤訳だ。該当部分のギリシャ語は「ガール」で、英語でいうと順接の「for」だ。日本語にすると「~なのだから」になる。日本語訳にある「ただ」という逆説(but)の意味には、どう考えても取れない。なぜかこの部分は、現代に至っても誤訳されたままなのである。
ちょっと再度、整理してみよう。以上を鑑みると、本文はこうなる。
すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」
しかし、彼女は言った。「主よ、とんでもございません! 小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのですから」
そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」
こう翻訳した方がスッキリするのではないか。今までの翻訳だと、なぜか外国人であるだけで差別された女が、謙遜にもそれを受け入れたことをほめた・・・という話になってしまう。そんな理不尽なことをイエスが本当に言うだろうか。
ではなく、「イエスの問いかけに勇敢にも信仰を持って、『とんでもございません!』と言った女をほめた」と考えれば、この話がスッと腑に落ちる話ではないか。
どうやら、英語など他の言語の翻訳だと、全部この誤訳の方が採用されているようである。しかし、ヒエロニムスのラテン語訳だけが、上記のような「とんでもございません!」訳になっているという(参照:「イチジクの木の下で」山浦玄嗣)。さすがヒエロニムス。
想像するに、「イエスに意見したなど、とんでもない」という先入観から、このような誤訳が生まれしまったのであろう。しかし、イエスも本気でこんなことを言っていたのであろうか。だとしたらイエス、ひどすぎないか?! イエスはそんな人種によって差別するような方ではない(ただし、アブラハムと神の契約、イスラエルと神の契約は変わらない)。私は、イエスのこのいじわるな問いかけは、周りにいたユダヤ人、とりわけ律法主義的な人々への皮肉だったのではないかと思う。だとしたら、このいじわる質問にも納得がいく。
イエスは、「なぁ、外国人のおまえに奇跡はもったいないだろ?」と、あえて言った。まわりのユダヤ人は心の中で「そうだそうだ!」と思ったかもしれない。しかしカナン人の女は引き下がらなかった。イエスは女をほめた。さっきまで心の中で「そうだそうだ」と思っていたユダヤ人はどうだろう。赤っ恥である。イエスは見事に、彼らの心の中の差別意識をあぶり出したのだ。「ユダヤ人しか神に選ばれていない」という当時の常識の中で、「いえ、とんでもございません!」と言えた女の信仰、素晴らしいではないか。
▼「指摘」のすすめ
いかがだろうか。アポロを教えたプリスキラとアキラ。ペテロを「ふざけんな!」と批判したパウロ。イエスに「とんでもございません!」と意見した外国人の女。どれも、立場を超えて、それでも自分の信仰に確信を持って、相手に「指摘」をした例である。同様の例は、他にも、モーセに意見したしゅうとのイテロ(出エジ18章)、ダビデ王に意見した将軍ヨアブ(第二サムエル14、24など)や預言者ナタンなど、枚挙にいとまがない。
牧師は特別ではない。教会という共同体のひとつの働きだ。そんな立場で遠慮することはない。牧師が言っていることが聖書と違う、聖書とズレている、と感じたら、勇気を持って踏み出してみよう。イエスは、「まず個人的に」、「それから複数人で」、「その後で共同体全体で」という「指摘」の仕方をオススメしている。「裁く」と「指摘」は違う。勇気を持って、信仰に確信を持って、さぁ、今一歩、踏み出してみようではないか。
・・・とはいえ、実際難しいというのはよく分かる。後半は、具体的にどうしたらいいのか書こうと思う。実は、勇気を持って踏み出したが、「心の動機」が間違って、神に叱られたケースもある。次回はその教訓から学ぼう。当然、「判断基準は聖書」でという点も忘れずに。
ライター 小林拓馬