詩篇15:1-5 『魅力的な人には誠実さがある』 2018/09/02 松田健太郎牧師
詩編 < 15 > ダビデの賛歌
15:1 【主】よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
15:2 正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。
15:3 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。
15:4 神に捨てられた人を、その目はさげすみ、【主】を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。
15:5 金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。
ここしばらく、僕がメッセージをするときには、魅力的な人とはどんな人かという話しをしています。
婚活セミナーでもあるまいし、どうしてこういう話しをしているのでしょうか?
イエスさまのまわりには、いつでもたくさんの人たちが集まっていました。
そして私たちが成熟して、イエスさまに似た者となっていくならば、私たちもイエスさまのように魅力的な人となっていくはずなのではないかと思っているのです。
魅力的になるとどんな良いことがあるのでしょう?
モテるとか、商談がうまくいくとか、そういうこともあるかもしれませんが、大切なのはそういうところではありません。
大切なのは、私たちの魅力の背後には神さまの愛があることを知ってもらうことです。
私たちの生き方を通して、神さまの栄光が表されていくこと、それが大切なことなのです。
さて、魅力的な人はどんな人でしょうか?
耳に心地よいことを言ってくれる人は、いっけん魅力的に思えるかもしれませんが、あからさまなお世辞やウソばかり言っていたのでは、誰からも信用されなくなります。
それでは、返って印象を悪くすることになるでしょう。
本当に魅力的な人には、いつわりがありません。
だからその人が言うことには重みがあり、説得力があります。
なかなか信じられないようなことでも、その人が言うなら信じられる。
だから聖書では、偽りについて何度も戒め、真実であるようにと教えています。
でもそれは、単にウソをつかない、正直な人というのとも違います。
時々間違えてしまう人がいるのですが、自分が思ったことを、何でも隠さず言えばいいというものではありません。
「バカにバカと言って何が悪い」とか、「あたしウソがつけないたちだから言うんだけど、あんたのこと嫌いなのよね~」というのは、私たちが求められている、真実でいつわりのない性質とはまったく違います。
私たちに求められているのは、「正直である」ということ以上に、「誠実に生きる」ということなのです。
それでは、「誠実」とはどのようなことを言うのでしょう?
誠実な人は、人を傷つけることがありません。
何か厳しいことを言わなければならない時にも、言い方をよく考えて伝えます。
表面的な態度だけでなく、真心から相手のことを思い、相手のために行動を起こします。
相手に敬意を持って接し、自分に間違いがあれば、それを認める度量があります。
だから、誠実な人は周りからの信頼が厚く、誰からも愛されます。
少しの失敗や問題があったとしても、その人の誠実な対応によって赦されてしまったりもするのです。
いつわりのない、誠実な人になることができたら、どれほど素晴らしいことでしょうか?
しかし、そのような人になることは簡単なことではありません。
なりたいと思っても、すぐになれるようなものではない。
なぜならば、誠実さとは表面的な行動ではなく、人格を指して言うものだからです。
人格は、長い間かけて形成されるものであって、変えたいと思っても簡単には変わらないのです。
それでは私たちが、いつわりのない、誠実な人に今からなるということはできないのでしょうか?
もしなれるのだとしたら、一体どうすればいいのでしょうか?
そこで、先ほど読んだダビデの詩編をもう一度読んでみましょう。
15:1 【主】よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
15:2 正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。
15:3 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。
15:4 神に捨てられた人を、その目はさげすみ、【主】を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。
15:5 金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。
1節に出てくる「幕屋」、「聖なる山」というのは、神さまの臨在や、神さまがともにおられることを表す場所です。
そして、2節以降に表されているのは、その人がいつわりなく、誠実なさまです。
つまりこれは、神さまの臨在の中にあり、神さまとともに生きる人は、いつわりがなく誠実な人だということを歌われている詩編なのです。
「いつわりがなく、真に誠実な人だけが神さまの臨在を味わい、神さまとともに歩むことができる」ということですね。
この詩編に描かれていることは真理です。
ここに描かれている「幕屋に宿る人」、「聖なる山に住む人」の姿は本当に美しいと思います。
でも、この詩編には、直接言葉では表されていないオチがあります。
それは、「そんなヤツァいね~!」ってことです。
だから誰も、 幕屋に宿ることはできない。聖なる山に住むことはできない。
これを書いたダビデ自身も、このような道から大きく外れていました。
だからこそダビデは、神さまの聖さ、偉大さを表すためにこのような詩編を書いたのだと思います。
しかし、新約の時代になってから状況が変わりました。
神さまはここに描かれているような方、聖く、うるわしく、私たちが近づくことなんてできないような方であるはずなのに、神さまの側から私たちのもとに来てくださった。
私たちは幕屋の中に宿ることも、聖なる山に住むこともできないけれど、幕屋であり、聖なる山であるイエスさまが私たちの中に宿ってくださり、ともに住んでくださったのです。
それによって、さらに素晴らしいことが起こるようになりました。
私たちとともに神さまがいてくださることによって、私たちがいつわりなく、誠実に生きることを知ることができるようになっていったのです。
なぜなら、私たちはいつわりだらけで誠実さがなくても、神さまは誠実な方であり、私たちがその影響を受けるからです。
「誠実」は御霊の実の中にも入っていますね。
私たちが、イエスさまとの関係の中で成熟し、成長していくなら、私たちの中にもそのような誠実が育まれていくのです。
なんという、ありがたい話でしょうか。(笑)
しかし、他の性質に関しても同じことが言えますが、ただ洗礼を受けてクリスチャンになっただけでは、このような性質は育まれるものではありません。
毎週日曜日に教会に行っていたとしても、食前の祈りを欠かさなかったとしても、あるいは什一献金をまじめにしていたとしても同じでしょう。
誠実さという性質は、人格的な交わりと、真実な関係の中で育まれるものだからです。
そのために大切なのは、私たちが真実な方である神さまと、深く、いつわりのない関係を築いていくということです。
それは私たちが神さまの前では取り繕うことなく、本音で語るということでもあります。
神さまに叱られない、良いことだけを祈ったり願ったりするのではなく、自分の心のうちを明らかにして、神さまの前にさらけ出すことです。
そして、それでも愛し、私たちを導いてくださる神さまとの関係の中で、変えられていくのを体験する必要があるのです。
ダビデは、詩編の中にそんな祈りをたくさん残していますよね。
あれほど問題が多く、失敗もたくさんしたダビデが神さまに愛された王と呼ばれたのは、そのような親密な関係があったからではないかと思います。
次に大切なのは、私たちが神さまとだけでなく、兄弟姉妹の関係の中でも、本音で語り合えるようになることです。
誠実に生きることは、実践抜きにできることではないからです。
神さまが私たちを愛したように、私たちが人々を愛そうとすること。
そんなのムリだと思うときももちろんありますが、神さまの助けの中でそのように努力していくところに、私たちのいつわらない誠実な性質が練られていくことになるのです。
第3に大切なのは、私たちが自分自身をいつわらないことです。
どれだけ誠実に生きようとしていても、自分にウソをついてしまっていたら、次第にストレスが溜まっていき、よい生き方にはなりません。
そんな状態では、誠実さも半減して、人に良い印象が伝わることはないでしょう。
私たち日本人は、つい自分の中にある本音さえも見失ってしまいがちです。
実は、私たちにとって一番難しいのは、この「自分自身をいつわらない」ということなのかもしれませんね。
みなさんは、いつわりなく、誠実に生きていますか?
私たちは、真実な方である神さまとともにいるのです。
神さまの真実な愛を受け取って、真実に生きようではありませんか。