ローマ1:16-17 『魅力的な人は堂々とふるまう』 2018/10/14 松田健太郎牧師

ローマ 1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

僕は以前、子ども英会話教室を運営する会社で仕事をしていたことがありました。
英会話教室そのもので仕事をしていたわけではなく、先生を募集、採用して教室に配属し、マネージメントするという仕事だったんです。
その頃僕は、英語での面接を担当していたので、人事にも深くかかわっていました。
ある時、僕は同じ日に二人の面接をすることになりました。
ふたりとも30代前半くらいの女性で、英会話の講師になりたい人たちでした。
最初に面接をした人は、発音はまぁまぁ良かったものの英語力は高いとは言えず、英会話の講師としてはギリギリというところでした。
もうひとりは、発音こそ典型的な日本語英語だったものの、英語の語彙力はなかなか高く、他の講師と比べても劣らない実力を持っているように見えました。

今回の応募はひとつの教室で、採用はひとりだけ。
僕は、後者の女性の方に推薦の丸をつけて、人事担当に渡しました。
ところが、実際に採用になったのは前者の女性だったんです。
この選択には、僕もちょっと驚きました。
思わず、人事の担当者は顔で選んだんじゃないかと思ってしまったほどです。

結局はもう一人の方も、1か月くらい後に別の教室で採用となり、ふたりとも講師として働くことになりました。
それからしばらくして、どうして最初の女性が先に選ばれたのかということが分かってきたのです。
彼女が働いている教室では、その後新入会者がどんどん起こるようになりました。
しかし、僕が採用に丸を付けたけれど、後から働くことになった先生の方は、その後も長い間入会者が出ることはなかったのです。

さて、ふたりの先生の差は、どこから出てきたと思いますか?
実は、僕が丸をつけた後者の方の先生は、英語力はあったにも関わらず、どこか自信なさそうで、消極的な印象がありました。
一方で、先に採用になった先生は、英語力がいまいちだったにも関わらず、すごく自信がありそうに見えて、堂々としていたのです。
生徒たちやその保護者は、その先生の英語力以上に、先生のキャラクターに惹かれてその教室に入会したということなのだと思います。
この出来事はなかなかの衝撃で、こんな風に差が出るなんて、僕には思いもよらないことでした。
「これは、すごいなぁ」と思って、僕は人事の担当者と話したんですよ。
「英語力のある先生ではなく、あっちの先生を採用にしたのはこういうことだったんですね。こんなに差が出るとは思いませんでした。すごいですね。さすがです。」
そうしたら人事の方はこう言ったんです。
「ん? あぁすごいよね~。僕は、顔で選んだんだけどね。」

…まぁ、人事の方の判断はどうであれ、新しく入会した生徒たちや保護者の皆さんが、その先生のキャラクターに惹かれたのは確かだと思います。
たとえ実力が伴っていなくても、自信を持って接するとき、人はそこに何かを感じ取って魅力を感じるのだということです。
自信を持っている人は、魅力的なのです。

私たちが福音を伝えるときにも、同じことが言えると思うんです。
例え、聖書の知識がそれほどなかったとしても、私たちが自信を持って伝えるときにこそ、その思い伝える人たちの心に届くのではないでしょうか。
先ほど読んだパウロのことばには、まさにそのことが表されています。

ローマ 1:16a 私は福音を恥とは思いません。

「私は福音を恥とは思わない。」
胸を張って心からそのように信じ、福音を伝えることができたなら、私たちの思いは相手に伝わるのではないかと思います。

ゲラサで墓に鎖でつながれていた狂人は、イエスさまによって悪霊が追い出されたことを人々に伝えました。
長い間悪霊につかれていた彼が持っていた知識やプレゼン力は決して高くなかったと思いますが、彼を通して多くの人たちがイエスさまのことを信じました。

サマリヤの井戸で出会った女性は、自分の男性関係を恥じて、なるべく人とは会わなくて済むような生活を送っていました。
その彼女がイエスさまと出会った後、そのことを人々に伝え、サマリヤでは多くの人たちがイエスさまを信じるようになりました。
彼らは、弁論が立ち、聖書の知識をたくさん持っていた人たちではありません。
ただ、福音を恥とせず、自分の身に起こったことを堂々と語っただけなのです。

しかし私たち日本人は、ついつい遠慮がちになって、自信を持って伝えるということができなくなってしまいます。
これは、謙虚であることが美徳とされてきた日本の文化がジャマになってきている部分もあるのですが、子どものころから「点数が低い人はダメ」とか、「間違えたら叱られる」ということ繰り返しの中で身についてしまった、自己評価の低さというものもあるのかもしれませんね。
実は、堂々と、自信をもって生きるということは、私たち日本人にとってはとても難しいことなんですね。
私たち、自信を持ちにくい人たちはどうしたらいいのでしょうか?

まずは、「そもそも自信というのは、どういうことをいうのか」と考えてみましょう。
自信とは、「人が自分の能力、知識、信念などを信頼している精神の状態 」のことを言うそうです。
「自分」を「信じる」と書いて、自信と読みますよね。
そう考えてみると「なるほどなぁ」と思う一方で、「でもそれは、私たちクリスチャンにとって本当に必要な資質なのだろうか?」と、考えてしまいます。
私たちが本当に信じるべきは、私たち自身のことではなく、神さまであるはずです。
実際、聖書の中で、神さまが私たちに「もっと自信を持ちなさい」と言っているところはひとつもありません。

旧約聖書の出エジプトの時代、神さまがモーセに命じたのは、ファラオの元に行って、奴隷となったイスラエルの人々を解放させることでした。
しかし、これまでの人生で失敗をしてきたモーセには自信がなく、「私は口が重いので、ファラオを説得することなんてできません。誰か別の人を選んでください」と言いました。
その時、神さまはモーセに何と言ったでしょう?
「きみにならできる! 自分を信じろ!」とは言わなかったんです。
神さまは、モーセにこのように言いました。

出エジプト 4:11 【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
神さまは、「私を信頼しなさい」と言ったのです。

エレミヤに預言者としての使命を与えたときもそうでした。
まだ若くて、どう語っていいかわからないと言うエレミヤに、神さまはこう言いました。

エレミヤ 1:7 すると、【主】は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】の御告げ──」
神さまが言ったのは、「おまえならできると信じなさい」ということではなく、「私がともにいるから、大丈夫だ」ということだったんです。

これは、なかなか自信を持つことができない私たちにとっては朗報ではありませんか?
神さまは、私たちが自信を持って福音を伝えるようにと言っているのではないのです。
自信なんてなくてもいい。
でも、それを命じている神さまを信じて、信頼し、そして従って行動すればいいということなのです。
私たちが戦うのではなく、神さまがその戦いを戦ってくださる。
神さまが道を開き、神さまが不可能を可能にしてくださる。
「だから、大丈夫だから、安心して、そして堂々と従いなさい」と神さまは教えているのです。

私たちは、神さまから最高のものとして創られた存在です。
しかし、罪びととなってしまった私たちには、そのポテンシャルをほとんど発揮することができません。
そんな私たちが、自分を誇ることを難しく感じるのは、むしろ当然のことです。
世の中では自己啓発がはやっていて、多くの人たちが自信を持つために一生懸命です。
そうして自分を誇っている人たちの姿は、正直に言えばあまり良いものとは思えません。
例えばホリエモンやZOZO TOWNの前澤社長、ドナルド・トランプは自信満々にいろいろなことを言いますが、どうでしょう?
そこに魅力を感じる人たちもいると思いますし、この中にも彼らを支持する人はいるかもしれませんが、少なくとも僕には、そこにキリストに似た者としての人格を見出すことはできません。
それどころか自信満々の人たちは、箴言の中で、むしろこのように言われているのです。

箴 14:16 知恵のある者は慎重で、悪を避けるが、愚かな者は怒りやすく、自信が強い。

パウロもかつては、そのように自分の力や能力に自信を持ち、その知識や経験を誇っていた人でした。
しかし彼はイエスさまと出会い、そのすべてをちりあくただと思うようになりました。

ピリピ 3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

私たちは、ホリエモンやトランプさんのようになる必要はありません。
また、自己啓発で言われるように、自己暗示にかけてまで「できる自分」を信じる必要もありません。
むしろ、不完全で欠けた存在である自分を自覚し、神さまの前にへりくだった姿勢を大切にするべきです。
でも私たちは、私たちのために命を懸けてくださったイエスさまを信じ、神さまの愛を信じ、聖霊が私たちの内に働いてくださっていることを信じることができます。

神さまが、私を救ってくれた。
神さまが、私を変えてくれた。
神さまが、私を助け出してくれた。
そのような全き信仰の中で、堂々と私たちが生きるとき、それを見る人々は私たちの中にキリストに似た者としての魅力を感じることになるのです。