ヨシュア記5:1-12 『⑥ イスラエルの自立』 2019/07/28 松田健太郎牧師

ヨシュア記 5:1-12
5:1 ヨルダン川の反対側、すなわち西側にいるアモリ人のすべての王たちと、海沿いにいるカナン人のすべての王たちは、【主】がイスラエル人の前で、彼らが渡り終えるまでヨルダン川の水を涸らしたことを聞くと、心が萎え、イスラエル人のゆえに気力を失ってしまった。
5:2 そのとき、【主】はヨシュアに告げられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。」
5:3 ヨシュアは自ら火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハ・アラロテでイスラエルの子らに割礼を施した。
5:4 ヨシュアが割礼を施した理由はこうである。エジプトを出たすべての民のうち男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出てから途中で荒野で死んだ。
5:5 出て来た民はみな割礼を受けていたが、エジプトを出てから途中で荒野で生まれた民はみな、割礼を受けていなかった。
5:6 イスラエルの子らは四十年間荒野を歩き回り、その間に民全体が、すなわちエジプトを出た戦士たち全員が、死に絶えてしまったからである。彼らが【主】の御声に聞き従わなかったので、私たちに与えると【主】が彼らの父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地を、【主】は彼らには見せないと誓われたのである。
5:7 そして、息子たちを彼らに代わって起こされた。ヨシュアは彼らに割礼を施したのである。彼らが途中で割礼を受けておらず、無割礼だったからである。
5:8 民はみな割礼を受けると、傷が治るまで宿営の自分たちのところにとどまった。
5:9 【主】はヨシュアに告げられた。「今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。」それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。今日もそうである。
5:10 イスラエルの子らはギルガルに宿営し、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえを献げた。
5:11 過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。
5:12 マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。

ヨシュアはイスラエルの人々を率いて、ついにヨルダン川を渡り、カナンの地に入ってきました。
川を渡るときに水が分かれて、イスラエルの人々は乾いた場所を渡ったという噂は、あっという間にカナンの地に広がって行ったようです。
それを聞いた人々は、神がともにいるとしか思えないイスラエルの人々が近づいて来るのを知って、絶望感に打ちのめされました。
イスラエルの人々によって自分たちは裁きを受けるのだという事を、彼らはどこかで感じ取っていたのかもしれません。

① 割礼
その時、神さまはヨシュアに語りかけました。
「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。」というのです。
割礼とは何でしょうか?
割礼と言うのは、神さまから特別な選びを受けたアブラハムの子孫だという事を表す契約のためのしるしです。

創世記 17:10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。

実際にはどういうことをするのかと言うと、男性器の包皮を切除するんです。
律法では、生まれてから8日目の男児に施されることになっていますが、荒野をさまよっている間は行われませんでした。
カナンの地に入った今、まず命じられたのが、割礼を施すことだったわけです。

神さまがなぜこのタイミングで割礼を受けさせたのかという事に関しては、説明してくれていないので実際の理由はわかりません。
でも、割礼が持っている意味を深く探っていくと少しその目的が見えてくるかもしれません。

割礼の第一の意味は、さっきも少し触れましたが、アブラハムの子孫としてのしるしです。
これは、約束の民としての自覚を持つためのしるしでもありますから、大切な部分です。
今まさに約束の地に入ってきたわけですから、そこでこの契約を覚えて割礼を行うことも、理にかなったことなのかもしれません。

割礼の第二の意味は、心の包皮が取り去られるという事です。
申命記の中にこのように書かれています。

申命記 10:16 あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。

心の包皮が取り除かれることによって、私たちは神さまのことばを敏感に受け取ることができます。
これから約束の地を獲得していくために、神さまの声に耳を澄ませ、敏感に受け取り、従っていく必要があったのです。

それにしても不可解なのは、なぜこのタイミングに割礼だったかということです。
男性は急所となる部分に傷を負うことになりますから、割礼を受けた後はしばらくの間戦うことなんてできなくなってしまいます。

創世記では、ヤコブの子どもたちが、それを利用して敵の一族を皆殺しにするということまで起こっています。
よりによって敵地に入ったこのタイミングで割礼を受けるというのは、あまりにも間が悪いというものではないでしょうか。

しかし、彼らにとっては覚悟を持ってヨルダン川を渡ったという体験が必要だったのだと思います。
ちょうど私たちが、洗礼を受けることによってイエスさまに従う決心をした後に、神さまとの関係が深まっていくように、彼らは川を渡ったことによって、心の包皮を取り除く準備が整ったのではないでしょうか?

私たちも、このような心の割礼が必要だという事をパウロは手紙の中で書いています。

コロサイ 2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

② エジプトのそしり
さて、先ほども言ったように、割礼を施した後はとても戦えるような状態ではありません。
イスラエルの人々は、傷が治るまで休む必要がありました。

ヨシュア 5:8 民はみな割礼を受けると、傷が治るまで宿営の自分たちのところにとどまった。

その間、彼らが敵に襲われないように守るのは神さまの役割です。
こうして、敵地にいながら神さまに守られるという経験をすることも、イスラエルの人々には大切な体験だったと思います。
そして、神さまはヨシュアに、このように告げました。

5:9 【主】はヨシュアに告げられた。「今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。」それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。今日もそうである。

エジプトの恥辱とはなんでしょう?
それは、イスラエルがエジプトで奴隷となっていたことです。
そして、神さまによって解放されて自由となったのに、神さまに背き、従おうとせず、文句ばかり言っていたことです。
それによって、エジプトから出てきたほとんどの人たちは、荒野でさまよった40年の間に死んでしまいました。
そのような恥ずべきイスラエルの過去が注がれ、ひっくり返されたのです。

そこでこの場所は、「転がす」という意味の「ギルガル」と呼ばれるようになったと聖書には記されています。

③ マナが止む
ヨシュアたちがカナンの地に入った時に起こったもう一つの出来事がありました。
それは、彼らが過ぎ越しの祭りを祝うために、その地の産物を食べると、エジプトを出てから40年間続いていたマナがもう降らなくなったという事です。

ヨシュア 5:11 過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。
5:12 マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。

これは、イスラエルにとっての子ども時代の終わりのように、僕には感じられます。
それまで、神さまが一方的に語りかけ、食べるものも与え、導きを与えてきました。
しかし今、イスラエルが自立するときがきたのです。

クリスチャンとして生きる前の私たちは、神さまの導きを自覚しない中で受け取ったり、機会が与えられたり、時には事件が起こったりすることによって神さまに一方的に命じられ、動かされてきました。
でも、イエスさまを救い主として受け入れ、ともに歩む決断をした時から、私たちは成長し、自立に向けて歩み始めたのです。

自立と言ってもそれは、私たちが自分だけで考え、判断し、勝手に行動するということではありません。
信仰的な自立は、私たちが自分の側から神さまに尋ね、導きを受け取り、それに従う生き方のことを言うのです。
そうして、神さまと共に歩んでいく中で、私たちはいろいろなものを育み、実らせ、収穫することができるようになっていくのです。

こんな風に、ヨシュアたちがカナンの地に入っていく出来事は、未信者が信仰を持って、神さまと共に歩み始めることに似た部分があります。
もちろん、全てが同じではありませんが、私たちはこの出来事から学べることがたくさんあるのです。

次回からは、クリスチャンとしての歩みについて、ヨシュア記から学んでいけると思います。
楽しみにしつつ、私たちがもっと自立して、成長していくことができるように祈りましょう。