民数記25:1-5(25:1-18) 民数記18『心はどこを向いているのか』2026/05/24 けんたろ
民数記25:1-5(25:1-18)
25:1 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。
25:2 その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、【主】の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。
25:4 【主】はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、【主】の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、【主】の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」
25:5 そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」
今日の箇所は民数記25章です。
イスラエルの民は、荒野の旅を終え、いよいよ約束の地の目前まで来ていました。
その大切なタイミングで、彼らは荒野40年の中でも最大級の霊的危機に陥ります。
この章を読むときに大切なのは、神さまがこの出来事を通して、民にどんな思いを抱いておられたのか ということです。
神さまの思いを理解するための焦点は、「神の民の心がどこを向いているか」 という一点にあります。
① モアブの誘惑 ― 心が少しずつ神から離れていく
イスラエルはシティムに宿営していました。
そこで起こったのが、モアブの娘たちによる誘惑です。
イスラエルの男たちはモアブの娘たちと不品行に陥り、その娘たちに誘われて偶像の祭りに参加し、ついには「バアル・ペオル」を拝むようになってしまいました。
ここでの問題は、単なる道徳的な失敗ではありません。
神さまが最も痛んだのは、イスラエルの心が神以外のものに向いてしまったことです。
神さまは民を愛しておられます。
だからこそ、心が他のものに奪われることを深く悲しまれるのです。
イスラエルが偶像礼拝に陥ったとき、神さまの怒りが燃え上がりました。
この時、イスラエルのたくさんの民が命を落としました。
しかし、ここで誤解してはいけないのは、 神の怒りは破壊のためではなく、回復のための怒りだということです。
神さまは民を滅ぼしたいのではありません。
むしろ、このまま偶像礼拝を続ければ、民は完全に滅んでしまう。
だからこそ、神さまは痛みをもって介入されたのです。
私たち人間の親は間違った反応から怒ることもあると思います。
機嫌が悪かっただけで怒ったり、思い通りにならないという理由で怒ったり、自分の権威や力を示して支配するために怒るということもあるかもしれません。
私たちはそんな経験から、神さまもそうだと思ってしまいがちですがそうではありません。
神の怒りは、常に愛から来るものなのです。
② 罪の本質は「妥協」から始まる
これまで、イスラエルはどんな強敵に対しても勝利してきました。
そんなイスラエルが倒れたのは、戦いではありませんでした。
剣を持った敵ではなく、 誘惑と妥協によって倒れたのです。
「少しくらいなら…」「これくらい大丈夫…」「みんなやっているし…」
そんな心の小さなゆるみが、やがて偶像礼拝へとつながっていきました。
バラクとバラムという強敵に勝利した後で、油断したということもあるかもしれません。
そのような慢心から、酷いことが起こります。
この罪のただ中で、 イスラエルの男がミデヤン人の女を連れてきて、 会見の天幕の前で堂々と罪を犯そうとしたのです。
そのとき、祭司エルアザルの子、アロンの孫にあたるピネハスが立ち上がります。
ピネハスは槍を手に取り、その二人を突き刺し、罪を断ち切ったのです。
この行動によって、 神の怒りがとどめられ、疫病が止まりました。
神さまはピネハスを称賛し、こう言われます。
民数記 25:11 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。
ピネハスは、 神の痛み、神の悲しみ、神の聖さを自分の心に映し取った人でした。
神さまが求めておられるのは、 神の心を自分の心として受け取る者なのです。
神さまはピネハスに「平和の契約」を与えられます。
これは、 神の願いは裁きではなく、回復である という強いメッセージです。
神さまはいつもこう願っておられます。
「立ち返ってほしい」「回復してほしい」「再び歩んでほしい」…。
神さまの心は、いつも回復へと向かっています。
神さまの怒りは、私たちを滅ぼすためではなく、立ち返らせるための愛の介入なのです。
③ 心はどこを向いているのか
では、この章は私たちに何を語っているのでしょうか。
私たちの心もまた、 神さま以外のものに向きやすい弱さを持っています。
承認欲求、快楽、お金、人間関係、自己中心…、これらは青銅の像ではありませんが、 心を奪う偶像になり得ます。
イスラエルが倒れたのは、戦いではなく、心の隙でした。
私たちも同じです。
そして、ピネハスのように、神の心を自分の心として受け取る者でありたいのです。
もちろん、私たちは誰かを殺すという形でそれを行いませんが、厳しい決断が必要なこともあります。
自分の心を神さま以外のものに向け、神さまから引き離そうとするものや人から距離を置き、場合によっては関係を断ち切るということも必要になるかもしれません。
この人といると、どうも心が神さまと正反対の方向に行ってしまうということはないでしょうか?
やっかいなのは、その人との関係が深いからこそ、私たちの心はそうなってしまうということです。
そういう人や物との関係を断つということは並大抵のことではないでしょう。
また、関係を断つということは、場合によっては相手の人が神さまとの繋がりを持つ機会を断ってしまうことにも繋がります。
それでも、私たちはその決断をしなければならないこともあるということです。
できることなら、神さまの怒りが燃え上がる前に、そのことと向き合っていきたいですね。
皆さんの心は、今どこを向いていますか?
神さまの方向を向いているでしょうか?
今は礼拝の時ですから神さまの方向を向いているかもしれません。
でも、そうではなくなるようなときがありませんか?
いつも心を神さまに向け、 誘惑や偶像に心を奪われることなく、神の心を自分の心として歩んでいけますように。
