愛することで幸せになる

オキシトシンというホルモンをご存知でしょうか?
1906年にヘンリー・デールというイギリスの脳科学者によって発見されました。
発見された当初は、陣痛を早めたり、射乳を促す物質として知られていましたが、次第にさまざまな効果を持つホルモンであることが判ってきました。
オキシトシンが脳内で分泌されることによって、人はリラックスし、幸せな気分になり、不安や恐怖心が減少し、苦痛が緩和し、自己治癒力が増し、学習意欲が上がり、社交的になり、心臓の機能が上がって、血行が良くなります。
他にも様々な働きをしていて、日本でも「幸せホルモン」や、「愛情ホルモン」として知られるようになってきました。驚くほど良い効果をもたらす素晴らしいホルモンです。
神さまは、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」ことを私たちに命じられました。
私たちが愛し合うことの大切さと、それが私たち自身の幸せにも繋がっていることが証明されたように感じます。
このホルモンはスキンシップによって、また誰かと親密な時間を一緒に過ごしたり、おしゃべりしたり、共同作業することによって分泌されます。
それ程難しい手続きが必要なわけではありませんから、どんどん分泌させていきたいですね。
ところが、さらに研究を続けていくにつれて、オキシトシンには別の働きもあることが判ってきました。
オキシトシンは他人に対する嫉妬や妬み、自分と違う意見を持つ人たちへの攻撃性を引き起こす働きもしていたのです。
例えば、ネットで誰かを批判するコメントを書いて炎上を誘発させたり、誰かをいじめるという問題行動の背後にオキシトシンが働いているというのです。
「批判」や「炎上」、「いじめ」などは、「愛」とは正反対のように思われます。
愛があり、ホルモンの効果によって幸せになり、平安が増すはずなのに、どうして人をいじめたり、攻撃するようになってしまうのでしょうか?
「愛」には、ネガティブな側面が存在するという話しになってきてしまったのです。
この状況を理解するためには、オキシトシンがもたらす効果をもう少し具体的に考えてみる必要があります。
メディアでは「愛」という言葉で一括りにされることが多いオキシトシンの効果は、実際には「繋がり」を作り出し、強めるものだということです。
オキシトシンは、私たちの関係の「繋がり」を強くするために「仲間」意識をもたらし、その繋がりを阻害するようなものがあれば排除しなければならないと感じさせます。
和を乱したり、秩序を壊すような力が加わるとき、それは「繋がり」の敵であると見なすわけです。
ネットで批判したり、バッシングをする人たちの多くは、使命感を持ってそれをしています。
不倫や不正、不適切な言葉や振る舞いなど、和を乱し、秩序を壊す恐れのあるものは攻撃し、相手を完膚なきまでに叩きのめすことが正義だと感じているのです。
いじめの対象となるのは、多くの場合グループが持つ文化の中でうまく振る舞えない人たちです。
彼らはユニークであるゆえに、グループの意識に馴染むことができず、浮いた存在となりがちです。
それが「この人は仲間ではない」と受け取られていじめが始まります。
周りの人たちも、「あの人は仲間ではないから阻害されても仕方がない」と感じて、いじめを止めません。
しかしいじめが目に余るものになってくれば、今度はいじめをしている人が危険な存在として認識され、排除されるターゲットとなっていくというわけです。
同じことは、「愛」という言葉がたくさん使われる教会でも起こります。
私たちは、聖書に書かれているように隣人を愛そうとします。
そこにオキシトシンが作用して、人と「繋がる」ことの喜びが生まれます。
その時、「隣人愛」として認識されている「繋がり」は、私たちと似た者、仲間、同じ価値観を持ち、秩序を守る人たちを大切にしても、繋がりを感じない人たちは排斥しようとしてしまうのです。
教会に集わない人たちを「ノンクリスチャン」、「セキュラー」と呼んで、一切の価値を認めようとしないのは、クリスチャンとしての繋がりを守るためかもしれません。
クリスチャン同士でも、自分たちが信じる神学と違う価値観を持っていれば、「異端」で危険な思想であるように見えてしまいます。
SNSのキリスト教グループや、牧師の集まりは、このような批判や悪口、感情的で非建設的な議論であふれています。
当人たちは、愛や正義感、使命感を持って行動しているつもりなのですが、その背後で起こっている現象は、実はいじめや炎上の構造と変わらないことなのです。
イエスさまはこのように仰いました。
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ 5:43-44)
これが、私たちに求められていることです。
「繋がり」を感じ、「仲間」だと思っている隣人たちを愛することは、それほど難しいことではありません。
でもそこには、仲間以外の人たちに対する排他的で、時には攻撃的な感情が生まれてしまう。
それは、神さまが私たちに求めている状態ではありません。
だからと言って、敵として認識してしまった相手を愛することは簡単なことではありません。
それは、私たちの脳内で起こっているホルモン、つまり自然現象に逆らうことになるからです。
もちろんイエスさまは、自然現象に逆らうことを私たちに命じているのではありません。
では、どうすればいいのでしょう?
こういう時に大切なのは、私たちが自分を中心にして物事を見ようとするのではなく、神さまの視点で見てみることです。
不自然なのは神さまではなく、いつでも神さまから離れて罪人となった私たちの方だからです。
そもそも、神さまはどうして、「あなたの敵を愛しなさい」と言われるのでしょう?
それは、神さまが私たちの敵をも愛しているからです。
私たちは、自分の周りにいて、価値観を共有できる人たちだけを仲間だと思っていました。
しかし、私たちが仲間だと認識するべきなのは、本来神さまが愛しているすべての人たちであるはずなのです。
意見が違い、価値観も違ったとしても、その人たちのことを仲間として認識しましょう。
その人もまた、神さまによって創造された器であり、キリストの体の一部として繋がり合う同志です。
そうして自分が作った枠を越えた人たちを仲間として扱うことの中に、神さまが求めている愛はあります。
それができた人たちだけが、その先に見ることのできる光景があります。
それは、価値観を越えた人たちへの理解と共感、そしてより安定した平安です。
仲間が増えるということは、オキシトシンによる平安や多幸感が、近い範囲の人たちに対してだけでなく、より広い範囲の人たちとの間でも感じられるようになっていくということでもあります。
そのような人たちが持っている愛と平安は、周りの人たちにも伝染し、コミュニティそのものを健康に変える影響力を持っています。
私たちがいることで、周りの人たちまで幸せになっていくとしたら、それはどんなに素晴らしいことでしょうか。
人に「愛される幸せ」を提供し、自分には「愛する幸せ」をもたらすオキシトシンは、神さまが創造された、私たちが互いに愛し合うための仕組みです。
罪人となった私たちは、それをうまく使うことができなくて、ネガティブな面が引き出されてしまうこともありますが、本来の力を発揮すれば素晴らしい効果をもたらします。
愛し合う対象を広げ、伸ばし、私たちが創造されたままの姿に近づいていきましょう。

