ルカ24:1-12 『ルカ104 生きている方をなぜ死人の中に探すのか』 2017/04/16 松田健太郎牧師

ルカの福音書24:1~12
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
24:10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
24:12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕

ハッピー・イースター!
今日はイースターの日です。

今から2000年ほど前、私達人間と神様との関係を回復するために、神のひとり子イエス様が十字架にかかり、その命を投げ捨てて下さいました。
しかしその3日目に復活したことをお祝いするのが、このイースターをお祝いする理由です。

世の中には、イエス様の復活を信じる事ができない人たちがたくさんいて、何とか理由をつけてこの出来事を理解しようとしています。
ある人たちは、誰かがイエス様の遺体を盗み出し、隠してしまったのだと言います。
しかし、墓にはローマ帝国の兵士たちが見張っていて、とても盗み出すことができるような状況ではありませんでした。

では、ローマ帝国が隠したのではないかと言う人もいます。
しかしそれなら、イエス様が復活したという話がどんどん広がっていった時、ローマ帝国はそれを止めさせるため、隠していたイエス様の遺体を公開すればよいだけの話でした。
それをしなかったという事は、ローマ帝国はそれをやっていないという事です。

イエス様は、実は死んでいなかったのではないかという人もいます。
しかしイエス様が十字架から降ろされる時、ローマ兵はイエス様が確実に死んでいる事を確認しました。
最後には、イエス様の心臓の部分を槍で刺し通しています。
肋骨の間を刺し通された槍によって、イエス様は確実にとどめを刺されたでしょう。
しかし聖書には、その時傷口からは血とともに水が流れ出たと書かれています。
それは血清と血漿の分離、つまりイエス様が、槍を刺される前にすでに死んでいた事の医学的証明です。

① メシヤである事の証
私達クリスチャンにとって、イエス様の復活がどうしてそんなに大切なのでしょうか?
第一にそれは、イエス様ご自身が話していた事の実現だからです。
イエス様はご自身の復活について、このように話していました。

ヨハネ 2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

また、3日間大きな魚の腹の中にいたヨナの話を通して、ご自分がメシヤである事のしるしはこれだけだと話していました。
イエス様の復活は、その言葉の実現です。
イエス様の復活は、イエス様が聖書の中で預言されていたメシヤである事の証なのです。

② 新しい命が与えられることの証拠
復活が大切な第二の理由は、復活が私達にも与えられている事の証明でもあるからです。
イエス様はこの様に話していました。

ヨハネ 6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

イエス様は何の話をしていたのでしょうか?
死後の世界の事でしょうか、それともラザロのように蘇生するという事でしょうか?
実際、イエス様がこの話をした時には、誰もその意味がよくわかっていませんでした。
しかしイエス様ご自身が死を打ち破り、3日目に蘇られたのです。
それは、私たちには見えない死後の世界の話ではなく、単なる蘇生でもありませんでした。
神様が私たちに本来与えていたはずの、新しい体、新しい命としての復活だったのです。

私達にも、このような新しい体が与えられることが、聖書には約束されています。
そして、永遠の時を神様とともに過ごすことができる、新しい命が与えられるのです。

③ 赦しのため
イエス様の復活が大切な第三の理由は、イエス様の復活は、私たちが赦されている事の表れでもあるからです。

自分の罪に気づいた多くの人たちが陥ってしまうひとつの罠があります。
それは、罪人である自分や、人類を責めてしまうという事です。

神様が創造して下さった姿から、私たちは何と遠く離れてしまった事でしょうか?
愛がなく、互いに殺し合い、傷つけあい、神様が創造した美しいものを破壊し、台無しにし、価値を下げてしまう私たち人類のありさまは、思えば思うほどに残念です。
イエス様は、そんな私たちの罪のために十字架にかかり、死んで下さいました。
言ってみれば、イエス様を十字架にかけたのは、私たちなのです。
その事実に気づいた時、私たちは自分たちの罪を嘆き、絶望するという選択もあるでしょう。
その選択をした代表は、イスカリオテのユダです。
彼はイエス様を裏切り、ローマ帝国に売り渡し、イエス様を十字架にかけた張本人です。
彼は自分のしたことの大きさに気づいた時、その事を嘆き、絶望し、自らの命を絶ってしまいました。
神様に立ち返るのではなく、その赦しを受け取るのではなく、自らが自らの神となって、自らを裁いたのです。

イエス様を裏切ったのは、ユダだけではありません。
他の弟子たちもイエス様を見殺しにし、ペテロは「イエスなんて知らない」と三回も否定しました。
私達もまた同じように、自分自身の罪、人類の罪を嘆き、自分を責めてしまうかも知れません。
太宰治はそのような思いから『人間失格』を書き、最後はやはり、自らの命を絶ってしまいました。
しかしイエス様の復活は、私たちがそのような思いでいなくていいのだという事を、私たちに教えてくれます。

イエス様が死んだという深い悲しみの中で、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤが遺体の処理のためにやってきました。
しかし彼女たちは、イエス様の墓の扉が開いているのを見つけたのです。
慌てて入ってみると、そこにイエス様の遺体はありませんでした。
途方に暮れる彼女たちの前に、まばゆいばかりの衣をまとった二人の人が現れました。

24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。

私達も同じではありませんか?
私達もまた、人間の罪深さ、無力さだけを見て、絶望してはいないでしょうか?
あるいは、十字架で死んでしまったイエス様だけを探し求めて、墓の中に閉じこもってはいないでしょうか?

しかしイエス様はこう言われるでしょう。
「いつまで嘆いているんだい? 私はほら、もう蘇って、生きているじゃないか。」
「墓の中に私はいないよ。さぁ、ともに歩み始めよう!」
確かにイエス様は、私たちの罪を赦し、贖うために十字架で死にました。
しかし、そのイエス様は復活し、今も生きて、私たちと共にいて下さるのです。
イエス様は私たちがいつまでも罪を見つめ、絶望し、嘆くことを求めているのではありません。
私たちが罪の赦しを受け取り、その喜びに満たされ、愛に満たされ、感謝と祝福の中で生きていく事を求めているはずです。
そしてその喜びや満たされた心が、私たちが生きていくための力となるのです。

皆さんは、イエス様が今、私たちと共に生きている事を信じるでしょうか。
もしそうなら、イエス様の復活の命、新しい命は、私たちの内にも始まっています。
イエス様と共に、希望の中で生きていこうではありませんか。

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