ルカ15:25-32 『ルカ76 放蕩息子の兄』 2016/09/25 松田健太郎牧師
ルカの福音書15:25~32
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
いつものように復習から入りましょう。
パリサイ派の人たちは、取税人や罪人たちと共に食事をするイエス様を嘲笑い、批判していました。
それに対してイエス様は、3つのたとえ話をしたのでしたね。
ひとつ目は、迷子になった羊の話し。
ふたつ目は、失われた銀貨の話し。
そしてみっつ目のたとえ話は、『放蕩息子』としてよく知られる話しでした。
ある裕福な家庭にふたりの息子がいました。
兄はよく仕事をしていましたが、弟の方がある時父親に、今すぐに遺産を申し出、それを受け取ると家を出て外国に旅立っていきました。
しかし、弟はやがて財産を使い果たし、タイミング悪く訪れた飢饉によって、どん底の生活に追い込まれてしまったのです。
豚とえさを分け合いながら、弟はいつしか、父の元に戻りたいと願うようになりました。
そうして弟が、どん底の経験の中で悔い改め、家に戻ると、父親は遠くから弟を見つけ、走り寄って抱き寄せ、口づけし、暖かく迎え入れてくれたという話しです。
この話の中で、父は神様を、弟は罪人を表しています。
「神様は罪人であるあなたが悔い改めるのを待っているんだよ」という伝道のメッセージなどで、この放蕩息子の話はよく使われますね。
しかし、3つめの話はそこで終わりではなく、続きがあるのです。
この話の登場人物はもうひとりいるんですね。
それは、放蕩息子の兄です。
どうしても放蕩息子の話の方に注目がされがちですが、このたとえ話のポイントは、実は兄の話の方にあります。
今日の話しこそ、この3つのたとえ話の総まとめなんですね。
① 兄の怒り
弟が帰ってきて、父親に暖かく迎え入れられたことをしもべたちから知らされた兄は、それを聞いてどうしたでしょうか?
彼は、激怒したのです。
怒りのあまり、すでにパーティが始まっている家に入る事もボイコットして、自らの意思を表明しました。
父親はなんとかなだめ、中に入るように説得しますが、兄は頑として受け付けません。
何が、彼をそれ程までに怒らせていたのでしょうか?
彼の言葉に耳を傾けてみると、この祝宴のためにどれだけの費用がかけられているかという事に怒りを持っていた事がわかります。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
さて、この話を読み解くための一つ目のポイントは、兄が長年の間、父に対してまじめに仕え、戒めを破った事は一度もなかったという事です。
しかし、父は子ヤギ一匹くれた事がない。その事に怒っているのです。
二つ目のポイントは、それなのにまじめに仕えてきた自分を差し置いて、遊んで父の金を使い果たした弟のために、肥えた子牛を屠らせたという事です。
そして三つ目にポイントとなってくるのは、その子牛は本来誰のものかという事です。
弟はすでに自分の財産をもらい、そしてすでに、すべてをなくしていました。
という事は、この子牛は本来、誰の物になるはずだった子牛だと思いますか?
そう、本当は自分が与えられるはずの子牛を、放蕩してきた弟にやってしまったという事に、兄は腹を立てていたのです。
「どうして一生懸命やってきた自分より、遊んでお金を失くしたあいつの方が得をしなければならないんだ。不公平じゃないか。」という事です。
そう考えると、兄が怒るのもムリはないような気もしてきませんか?
しかし、よく考えてみていただきたいのです。
まじめにいつでも父に仕えてきたと兄は言いますが、それは何のためだったでしょう。
兄は、まじめに仕えていればもっと報われると思っていたのです。
一生懸命にやっていれば、お父さんに受け入れてもらえるはずだと思っていたのです。
言い換えれば、何か報酬を勝ち取るために仕えていた。
つまり彼は、お父さんに仕えていたのではなくて、実は報酬に仕えていたという事です。
弟は、父親が生きている間に遺産を要求するという、道徳的に悪い方法で財産を得ました。
兄は、弟とは求める手段は違い、道徳的には悪くありませんでした。
しかし、兄もまた、父親との関係を求めていたのではなく、財産を求めていたのです。
求めていたものは、兄も弟も一緒だったんですね。
② 福音に生きること
しかし、お父さんはこのように言って、兄息子をなだめるのです。
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
何かをした結果、報酬を勝ち取る。
これは、わたし達の生きる世界を支配するひとつのシステムです。
経済システムはそれによって成立っているし、様々な宗教の教えもそれに基づいています。
良い行いをすれば、わたし達の業(カルマ)が上がって良い事が起こる。
わたし達が良い行いをするから、わたし達は天国に行けるようになる。
わたし達もまた、キリスト教という宗教の中で、この価値観にはまってしまっていないでしょうか?
“良い行いをするから、神様に愛される。”“奉仕をするから、祝福を受ける。”
しかし、それは福音の原理ではありません。
神様は、そんなこと言っていないのです。
神様はわたし達を一方的に愛し、わたし達を救うため、この世にひとり子を送られた。
神のひとり子、イエス・キリストが十字架にかかり、自らの命を引き換えた事によって、わたし達は救われたのです。
もしかしたら、「自分はイエス様の十字架を信仰したことによって救いを勝ち取ったのだ」と考える方もいるかもしれませんが、それも違います。
わたし達は、信じることによってその救いを受け取っただけです。
すべては、神様の側から無条件に与えられた恵みなのです。
わたし達も、いつの間にかこの兄息子と同じようになってしまう事はないでしょうか。
神様のために始めたはずが、いつの間にか報酬を勝ち取るためのものになってしまう。
他の人(特に努力していない人)の成功を喜べなくなる。
あの人はもっと聖書を読むべきだとか、祈るべきだとか、断食をするべきだとか、赦すべきだとか、愛するべきだとか、他の人のことがいろいろ気になってくる。
自分の働きに関して、調子がいいときには優越感に浸れますが、調子が悪いと劣等感で打ちのめされてしまう。
また、自分の祈りは全てきかれるべきだと感じて、どれだけ祈っても思い通りの答えが与えられないと、神様から背を向けてしまう。
それはどれも、“自分が受けるべき報酬”を土台にして信仰をもっているからです。
わたし達は神様に受け入れてもらうために神様に従うのではなく、神様がすでにわたし達を愛し、受け入れてくれているから神様に従いたいと思うこと。
それが、福音的な信仰のあり方です。
③ 本当の兄
さて、このたとえ話は、少し奇妙な所で終わっています。
放蕩息子である弟は、父親と和解して祝宴によって終わっているんですね。
他のふたつたとえ話も、「見つかってよかった」という喜びで終わっています。
しかしこの兄の話だけは、和解があったのかどうかわからない、中途半端な所で終わっているのです。
なぜでしょう?
それは、この話がパリサイ派の人々に向けられているものであり、兄は彼らを表している登場人物だからです。
「さあ、あなたはどうしますか? 兄であるあなたも、父と和解しなさい。」
それが、イエス様のメッセージなのです。
この話にはもうひとつ、他の2つの話とは違う所があります。
迷子になった羊は羊飼いが見つけ、失われた銀貨は女が見つけました。
しかし弟は、誰も探しに行かなかったという事です。
お父さんが弟を探しに行ったわけではなく、弟が自分で帰ってきたんですよね?
この話には、どうして弟を探す人がいなかったのでしょう?
本当は、誰が弟を探しに行くはずだったのでしょうか?
そう、兄なのです。
本来ならば、いつも父と共にいた兄が、弟を探しに行く役割を担うはずだったのです。
そのためには、自分に与えられているはずの財産までも使い果たしてしまうかもしれない。
それでも失われた家族を取り戻しに行くのが、本来兄に与えられていた役割のはずでした。
しかし兄は、その責任を放棄して、弟を悪く言う事しかしなかったのです。
それでは最後に、もうひとつ質問したいと思います。
あなたは、どのポジションにいると思いますか?
皆さんがするべきは、どのような行動でしょうか?
その答えは自分で考えてみて下さい。
おのずとその答えが、見えてくるはずだと思います。
祈りましょう。