ルカ11:29-32 『ルカ54 ヨナのしるし』 2016/03/27 松田健太郎牧師
ルカの福音書11:29~32
11:29 さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
11:30 というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
先週は、イエス様が悪霊を追い出した時の出来事についてお話ししました。
イエス様が悪霊を叱りつけると、取りついている人からたちまち逃げ出していったのです。
それを見るために、そこには多くの人たちが集まっていました。
たくさんの人たちが集まってくると、イエス様はこのように言いました。
「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられません。
この時代は悪い時代だとイエス様は言いました。なぜなら、人々は自分から神様を求めようともしないで、しるしばかりを求めるからです。
現代でも、「何か証拠となるような出来事がなければ信じることができない」という人たちはたくさんいます。
何年も教会に通いながら、ずっと確信を持つことができない求道者の人たちがたくさんいたりするのです。
旧約聖書の時代も、人々はしるしがなければ信じなかった傾向がありますから、エデンの園以降の時代は、みんな悪い時代と言う事ができそうです。
それにしても、しるしがなければ信じないという事は、しるしがあれば信じるという事になります。
しるしがあれば信じると言っているなら、神様はどうして、その人たちにしるしを表して下さらないのでしょうか?
また、イエス様が言っている、ヨナのしるしとはどんなものでしょうか。
① しるしは与えられないのか?
まずはしるしというものについて考えていきたいと思います。
そもそも、人々が求めているしるしとは何でしょうか?
それは、神様がいるという証拠であり、イエス様がキリストであるという事のサインのようなものです。
多くの場合そこには、神様がやったとしか思えないような不思議な出来事、奇跡が伴います。
人々は、モーセのように海を割り、ヨシュアのように城壁を崩し、エリヤのように天から火を下らせるような出来事が起こるのを求めていたのです。
でも、こういうしるしって、本当になかったのでしょうか?
確かにイエス様は、「ヨナのしるしの他には与えられない」とイエス様は言っています。
でも、聖書のあちこちに“しるし”という言葉が出てきていたのを私たちは知っています。
そもそも、どうしてここに人々が集まってきたかという事を考えてみてください。
イエス様は神様の名によって悪霊を追い出していたわけです。
それを見た人々、その話を聞いて人たちが興味を持って、イエス様の周りには集まってきていたのです。
その時イエス様は、「私が神の指によって悪霊を追い出しているなら、神の国は来ているのです。」と言いました。
これが、“イエス様がキリストである事のしるし”でなくて何でしょう?
他にもイエス様は、人々の病を癒し、目に見えない人の目を開き、口のきけない人たちに口を開き、歩くことができない人を歩かせ、死んだ人を蘇らせました。
これは全て、旧約聖書の中で預言されていることであって、 キリストがこの世界に与えられたことのしるしです。
だからこそバプテスマのヨハネがイエス様に疑いを持って弟子たちを遣わした時、「あなた達が見た事をそのまま伝えなさい」とだけ言えば十分だったのです。
しかし、実際にそこで奇跡が起こり、しるしを目にしても、多くの人たちは信じなかったのです。
その場で悪霊が追い出されても、彼らはもっと大きな、もっと多くのしるしを求めました。
ちょっとやそっとのしるしでは、満足できないのです。
私たちの中にもこのような事があります。
私たちは神様に助けられ、守られる体験をし、神様の愛を感じたりすることもあるのに、しばらくするとそんな事はすっかり忘れて、同じようなことを心配していたりします。
私たちは、しるしを見たり、奇跡を体験すれば信じるというわけではないのです。
ヨハネの福音書に、このような事が書かれています。
ヨハネ 2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
イエス様も、しるしを見たから信じたという人たちの事は、信頼していません。
事実、ここでイエス様についてきた人たちは、この後すぐにイエス様から離れて去って行ってしまうことになるのです。
イエス様と行動を共にしていた弟子たちは、様々なしるしを目にしていました。
彼らは、イエス様が水の上を歩き、嵐を静め、5000人の人たちが5つのパンと2匹の魚で満たされるのを目撃していたのです。
それによって弟子たちがイエス様を救い主として信じたかというと、やはりそういうわけでもありませんでした。
ペテロは辛うじて、イエス様こそがキリストであるという事を告白しましたが、イエス様が十字架にかけられる時には信頼し続けることができず、逃げ出してしまいました。
私たちに与えられているしるしとは、私たちが信じるためのものではないという事なのです。
② ヨナのしるし
次はヨナのしるしに注目してみましょう。
ヨナのしるしとは何でしょうか?
これは、旧約聖書のヨナ記の中で記されている出来事です。
ヨナは、北イスラエル王国で活躍していた預言者でした。
ある時ヨナは、アッシリア帝国の首都ニネベに行くようにと神様に命じられます。
しかし、残虐で次々と周りの国を占領していくアッシリア人を嫌っていたヨナは、ニネベとは反対方向にある、タルシシュへと向かう船に乗り込みます。
ところがその船は、途中で嵐に合い、転覆しそうになります。
船に乗る人々は、ヨナが神様の怒りを買っている事を知り、海に投げこんでしまいました。
そして海に沈んでいくヨナを、大きな魚が飲み込んだのです。
そうしてヨナは、足掛け3日間、魚の腹の中で過ごしました。
3日後、陸地に吐き出されると、ヨナは観念して、ニネベへと向かいました。
そして、神様の怒りによってニネベの町は滅ぼされると人々に伝えます。
すると、それを聞いたニネベの人々は神様を恐れ、たちまち悔い改めて神様を信じました。
それによってニネベは神様の裁きを免れたのです。
イエス様が“ヨナのしるし”と呼んでいるのは、ヨナが大きな魚に飲み込まれて、3日後に吐き出された出来事の事です。
ヨナが足掛け3日間魚の腹の中にいた後吐き出されたように、イエス様は死んで3日後に復活しました。
この時にはまだ明らかにされていなかったその奇跡が、これから起こるしるしとして預言されていたのです。
今日はイースターです。
イースターはイエス様の復活を祝う日ですね。
復活の奇跡が、私たちにとってどうしてそんなに大切なのでしょう。
それは、死というものが罪の結果もたらされた大きな呪いであり、誰にも乗り越えることのできないものだからです。
これまでに、一度死んでから蘇生したという人はいたかもしれません。
イエス様ご自身も、ラザロを始め何人かの人々を蘇らせたことがありました。
でもその人たちは、その後に何年か生きたにしてもやがて死んでしまったのです。
しかし、イエス様の復活はそうではありません。
イエス様は、もう決して死ぬ事のない栄光の体として復活しました。
ヨナのしるしと呼ばれている復活は、他の誰にもまねする事ができない、救い主にだけ行うことが可能な奇跡だったのです。
③
復活したイエス様が弟子たちのもとに現れたとき、イエス様が生きている間、どんなにすごい奇跡を目にしてもどこかずれていた弟子たちの目が開かれました。
絶望して、故郷であるエマオに帰ろうとする弟子たちのもとを復活したイエス様が訪れると、彼らの目は開け、希望を見出しました。
イエス様は裏切った自分は失格だと落ち込んで、漁師に戻ろうとするペテロのもとに復活したイエス様が訪れると、ペテロはもう一度イエス様について行こうと願う信仰が与えられました。
復活のイエス様を見ると、疑り深いトマスも心からイエス様を信じるようになりました。
そして、復活のイエス様によって目が開かれた人々の中で、これまでイエス様がしてきた数々のしるしの意味がようやく理解でき、イエス様こそが約束された救い主だったと知る事が出来たのです。
何にもまして私たちに必要なのは、私たちも復活したイエス様と出会う事です。
どんな証拠や、不思議な出来事を並べられても、私たちは理屈をつけて信じようとしないかもしれませんが、イエス様と出会って個人的な関係を築いた時、私たちにはこれまで見えなかったたくさんの物が見えてくるようになるのです。
イエス様は、このように言っています。
11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
ソロモンというのはイスラエルの昔の王様で、神様から特別な知恵を与えられていました。
その知恵を聞くために、外国からたくさんの人たちが訪れ、神様の事を聞いたのです。
南の女王とは、シェバというエチオピアのあたりにあったと言われる国の女王の事です。
外国人だったシェバの女王も、ソロモンの言葉を聞いて神様を受け入れました。
私たちは、そんなソロモンの知恵にも勝る神様からの知恵を、イエス様を通して聞くことができます。
イエス様が私たちに語り掛けてくださるなら、どうして私たちはそれを信じないでいられるでしょうか?
ニネベの人たちは、魚の腹の中から生還したヨナの言葉に耳を傾け、すべての人々が神様の身前に悔い改めました。
私たちは、ヨナの魚にも勝る、死からの復活を果たしたイエス様の言葉を聞くのです。
どうして私たちが、それを受け入れないでいられるでしょうか?
イエス様と出会ってください。
それ以上に、私たちが求めるべきしるしはありません。
ある人は、祈りにこたえられることを通してイエス様と出会います。
ある人は、苦しみの中で神様の愛に満たされることを通して、イエス様と出会います。
ある人は、はっきりと示される導きを通してイエス様と出会います。
ある人は、夢の中でイエス様と出会うのです。
私たちには、それぞれイエス様と出会った時のストーリーがあります。
その方法はひとつではなく、私たちに合った方法でイエス様はご自身を示してくださいます。
この後の祝会で、証をしてくださる方を募っていますから、皆さんがどのようにしてイエス様と出会ったかという体験をぜひ聞かせてください。
今日ここにいるみなさんが、復活したイエス様と出会うことができますように。