ルカ9:46-48 『ルカ43 神の国で偉い人』 2016/01/03 松田健太郎牧師

ルカの福音書9:46~48
9:46 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
9:47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、
9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

2016年になりました。
新しいこの1年が、わたし達にとってどんな年となっていく事でしょうか?
心を合わせて祈っていきたいと思います。

さて、前回の復習から入りましょう。
「イエス様は、やがて十字架に架けられて死ぬ事になる。そして、3日後に蘇る」という話しを、弟子たちはイエス様から聞きました。
しかしまだ聖霊によって真理が明らかにされていなかったので、弟子たちにはこの話を理解する事が全くできなかったのです。
弟子たちは、イエス様こそが来るべきメシヤだという事に気が付いていました。
でも人々が期待していたメシヤは、イスラエルをローマ帝国の支配から解放し、イスラエルを救いへと導く政治的な救い主です。
だから、イエス様が死ぬなどという事はあってはならない事でした。
彼らはそれを、聴かなかった事にしてしまったのです。

そして弟子たちは、自分たちの中で誰が偉いかという事を議論し始めました。
イエス様が王となった時、誰が次のポジションに着くかという事は、彼らにはとても重要な事に思えたのです。
後世の僕たちがそれを見ていると、すごく痛い奴らだなぁと思ったりするわけですが、これが真理の見えていない私たちの姿なのです。
今の私たちにも、天国に行って後から振り返ってみたら、恥ずかしくなるような痛い事がたくさんあるかもしれませんね。

誰が偉いかという事で弟子たちが議論をしている事を知ったイエス様は、弟子たちの前にこどもを立たせ、このように言いました。

9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

1. 低い者を受け入れる
さて、これは、一体何を意味しているのでしょうか?
イエス様はなぜこどもを立たせ、一番小さい者が一番偉いと言われたのでしょうか?

私たちは、現代の日本に生きていると子供たちが大切で尊いと言うのは当たり前のように感じるかもしれません。
「子どもは国の未来を作る。だから子供を大切にしよう!」
それは、とてもまっとうな言葉に聞こえるでしょう。
でも当時のイスラエルでは、子どもはそれとは全く違う受け取られ方をしていました。
イスラエルでは、子どもは無価値で何もできない存在とされていたのです。
実際、労働力や生産力として考えたら、こどもに何ができるでしょうか?
大して役にはたたない、お荷物だと言えるかもしれません。
聖書の言葉は、私たちの常識ではなく、その時代と文化の常識をベースにして、言葉の意味を考える必要があります。
つまりイエス様は、何もできない、無価値と思える人たちの代表として子どもを立たせていたという事がわかるのです。

当時のイスラエル人に比べれば、私たちにとって、「子どもは尊い」と心から思う事は、それほど難しくはないと思います。
でも、このこどもに表わされているように、「つまらないもの、役に立たない者 」が一番偉いという事になってくると、私たちには途端に戸惑います。
私たちが生きる、機能的な社会の在り方とは全く矛盾しているので、受け入れる事が難しいのです。

ここに、今日のお話の第一のポイントがあります。
イエス様が私たちに求められているのは、「イエス様のために、低い者達を受け入れる」という事です。
私たちは、つい蔑んでしまい、価値が低いと思ってしまう人たちをまず受け入れる必要があります。
その時、私たちの中の価値観はひっくり返るのです。

何度も話してきた事ですが、神様はいつも、低い者たち、小さな者達を選ばれます。
本来ならば長男に与えられるはずの祝福は、小さい者たちに与えられていました。
兄のイシュマエルではなくイサクに、兄のエサウではなくヤコブに、長男のルベンではなく最後に養子とされたヨセフの子供たちの中から、さらに一番小さいエフライムに祝福は与えられました。
エジプトからイスラエルを解放するために選ばれたのは、兄のアロンでも、姉のミリヤムでもなく最後に生まれたモーセでした。
王として選ばれたのは、背が高くてイケメンだったお兄さんたちではなく、父親からも忘れられるようなダビデでした。
ナアマン将軍がツァラアトに蝕まれた時、癒しの道を拓いたのは名のない奴隷の少女でした。
救い主が生まれたのは、王族でも貴族でも司祭や賢者の家柄でもなく、貧しい大工の家に、普通の少女マリヤを通して生まれました。
イエス様が弟子として選ばれたのは、地位もお金も教育もない漁師たちでした。

私たちは、神様が小さい者を選ばれるという事を思い出すべきです。
神様がある人を用いるのは、その人が有能だからではなく、その人が低く、小さい者だからです。
私たちが神様に用いられたいと願うなら、一生懸命に頑張る事ではなく、まずは自分の小ささを知ることです。
小さくなる必要はありません。
もともと、小さく、弱いのが私たちなのですから。
そして私たちがその事を覚えているなら、私たちは決して傲慢にならず、いつも謙虚でいる事ができるのではないでしょうか。

2.  イエスの名のゆえ
それでは、神様はどうして、つまらない者、役に立たない者、小さい者を選び、用いられるのでしょうか?
聖書にはこのように書かれています。

Iコリント1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

小さい人であればあるほど、その人の内に働く神様の力が大きいのです。
そしてそこには、人の力ではなく、神様の栄光が表されるからなのです。
しかし、これを書いたパウロは、聖書に出てくる人たちの中では珍しくローマ市民と言う地位を持ち、ガマリエルと言う有名な先生に師事した教育を受け、自他ともに認めるバリバリのパリサイ派で律法を厳守する有能な人でした。
なんだ、話しが違うじゃないかと思う人もいるかもしれません。
でも、パウロが神様に用いられたのは、このような華々しい経歴の故ではないんです。
それならもっと立派で、もっと賢く、もっと人格的な人もいたでしょう。

パウロは、キリスト共にあるなら、自分が持っている華々しい経歴は、クズにも等しい事だと言いました。
そして神様が彼を用いたのは、彼がそのような素晴らしい経歴を持っているからではなく、むしろ彼自身がトゲと呼んでいるマイナスの事柄のためだったのです。
パウロはそのトゲが取り除かれるように神様に祈りましたが、それが取り除かれることはついにありませんでした。
そのトゲが何だったのかはわかりません。
目の病気だったとか、彼が実は醜い外見だったとか、コミュニケーション能力の低さ、気の短さなど色んな説がありますが、どれも決め手にはなりませんし、どれも彼の短所ではあったのでしょう。
しかし、それが何だっとしても、そのトゲがパウロを小さい者とし、それによってパウロは神様に用いられる器となる事ができたのです。

パウロはこう言っています。

IIコリント 12:19b ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んでわたしの弱さを誇りましょう。
12:20b なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。

3. 一番偉いのは
私たちも、同じようにする事が求められています。
私たちが自分たちの賢さ、知識の多さ、技術の高さ、豊富さ、美しさのようなものにより頼んで、それゆえに自分を高めようとするなら、神様は私たちを用いる事はありません。

私たちが自分の力により頼むなら、例えその結果が成功したとしても、その経験は私たちを傲慢にし、人を蔑むような、鼻持ちならない人間にしてしまいます。
失敗しようものなら、私たちは自分の無力さに愕然として、人生が絶望的になってしまう事もあるでしょう。
これが、宗教の世界です。

しかし、イエス様が私たちに教える福音はそうではありません。
自分の無力さを知り、委ねる事によって神様に用いられるとき、私たちはその結果で傲慢になる事は出来ず、失敗しても絶望することはありません。
だからイエス様はこのように教えているのです。
「この幼子のように、自分をつまらない者と考える人が、神の国では一番偉い人です。」
神の国は、自分が罪人であり、無力であることを知る所から始まるからです。

最後に、この事をもっともよく言い表している、イエス様の山上の垂訓の言葉を読んで、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。

マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5:5 柔和な人は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
5:10 ぎのために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。

2016年という新しい年を、このような新しい価値観で迎えませんか?
お互いの小ささ、足りないところ、問題などの中に働いて下さる神様に心から期待して、これからの一年を楽しもうではありませんか。

この一年が、皆さんにとって祝福いっぱいの年となりますように。

 

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