ルカ10:1-16 『ルカ46 神の働き手となる』 2016/01/24 松田健太郎牧師

ルカの福音書10:1~16
10:1 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。
10:2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
10:3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。
10:4 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。
10:5 どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。
10:6 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
10:7 その家に泊まっていて、出してくれるものを飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。
10:8 どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら、出されるものを食べなさい。
10:9 そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。
10:10 しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出てこう言いなさい。
10:11 『わたしたちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』
10:12 あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。
10:13 ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。
10:14 しかし、さばきの日には、そのツロとシドンのほうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ。
10:15 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスにまで落とされるのだ。
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」

大体いつも、年の初めくらいに、この年のテーマとなる事は何かと言う話をしたりしているのですが、2016年に関してはまだお話ししていませんでした。
2016年のテーマとなる聖句があるとしたら、今日のこの箇所がそうではないかと僕は思っています。

特に2節のこの言葉ですね。

『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』(ルカ10:2b,c)

これは、「自分たちは働き手になるのが嫌だけど、働き手が送られるように祈りましょう」ではありません。
私たちが働き手となって、それでも働き手が足りないから、働き手を送って下さるように神様に求めましょうという事です。

この2016年、私たちはもっと働き手が送られるように、そして何よりも、私たち自身が働き手となっていく事ができるように祈っていきたいと思います。
それは今、日本に、働き手が必要だからです。

1. 神様の働き手
働き手とは何でしょう?
「“働き手”なんて言われても、自分には伝道なんてできません。」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
確かにこの箇所で、“働き手”が直接意味しているのは、主に伝道する人の事だろうと思います。
でも、直接伝道をする事だけが、神様の働き手になる事だとは限りません。
働き手とは、神様のために働く人のことなのです。

神様はある人を、伝道者や宣教師のような、特別な働きに召し、送り出します。
教師だったり、医師だったりという事もあるでしょう。
もっと特別な賜物を与えられて、奇跡的な働きをする人もいるかもしれません。
確かにそういう人たちは、働き手として自覚しやすいし、他の人たちからもわかり安いだろうと思います。
でも、すべての人たちがそうやって、職業として神様の働き手としての働きをするとは限りませんし、奇跡のような特別な業をするとは限りません。

私たちの多くは、普通のサラリーマンとして働いていたり、主婦であったり、学生だったり、工場で働いたり、自分がどこでどう神様の働きをしているかなんて分からない事ばかりではないでしょうか。
そうして毎日同じ事の繰り返しをしていると、自分がどのようにして神様の働き手になれるのか、わからなくなってくるかもしれません。
しかし日常の生活の中でも、私たちが神様の導きに従い、イエス様とともに歩む中に、神様が遣わしている働きがあるのです。

それは、寂しい思いをしているある人に、声をかける事かもしれません。
助けを必要としている人に、助けの手を差し伸べる事かもしれません。
争っている人たちの間に入って、そこに平和をもたらすことかもしれません。
私たちは日常の中にいるからこそ、日常の中でしか出会えない人と出会い、日常の中でしか起こらない出来事の中で、神様の働きをする事ができるのです。

それが、人々を神様の元へと導きます。
そして必要なら、ある人たちに福音を伝えるように促される事もあるでしょう。
その時には、勇気を出して神様の愛を伝えてみる事です。
その人が信仰を持つかどうかに関わりなく、私たちが神様に従えたなら、その働きは成功です。
大切なのは、私たちが神様の導きに従い、その働きに参加することです。
神様が働きを始めたその働きに参加する時、私たちは神様の働き手となる事ができるのです。

2. 実りは多い
さて、実りが多いのに、働き手が少ないという話しに戻りましょう。

『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』

と、イエス様は言いました。
この言葉で引っかかる部分があるとすれば、“実りは多い”という言葉ではないでしょうか?
皆さん、実りは多いのです。
実りが多すぎて、働き手が足りないのです。
だから神様は、私たちが働き手になる事を求めているのです。

皆さんは、実りが多いのだという事を信じる事ができるでしょうか?
こうして日本で暮らしていると、実りが多いというこの言葉が、なかなか実感を持って味わう事ができず、信じる事ができないかもしれません。
確かに、日本はもう何十年もクリスチャン人口が1%を超える事がないと言われます。
教会から一歩出れば、あまりクリスチャンを見かける事もありません。
少しくらいはと思って伝道をしてみても、あまりいい手応えもない。
すでに働き手となっているはずの伝道者や教会が、収穫が多すぎて困っているという話しも聞かない。
実りが多いというのは、アフリカとか南米とか、あるいは中国のような外国であって、日本ではないのではないかと思えたりします。

それでも僕は、この言葉を心から信じています。
日本にも、実りは多いのです。
この日本にもっと働き手がいれば、多くの人たちがクリスチャンになるのだと、僕は本気で信じています。

もしかしたら皆さんは、自分なんかが働き手になっても、大して効果はないのではないかと思っているかもしれません。
その気になってちょっとやって見ても、思うような効果が出ない。
だからすぐにあきらめてしまう。
実は、それが私たち日本のクリスチャンの一番の問題だと、僕は思います。
確かに、私たちが働き手になっても、直接見える収穫は少ないかもしれません。
でも、先ほども言ったように、働き手になるという事は直接伝道をする事とは限らないのです。

ヨハネの福音書4章37節に、このように書かれています。

ヨハネ4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、他の者が刈り取る』ということわざは、本当なのです。

ある人は種を蒔き、ある人は土を耕し、ある人は水をやり、ある人は肥料を与え、そしてある人が刈り取りをします。
刈り取りの時を、自分が見られるとは限りません。
でも、その中の何かが欠ければ、種が芽吹く事もなく、その種が刈り取られる事もないかもしれない。
大切なのは、私たちひとりひとりが神様の働き手となるのでなければ届くことができない人たちが、この世界にはたくさんいるのだという事です。

私たちの中で、神様の働き手にならなくても良い人は、ひとりもいません。
そして、ひとりでも多くのクリスチャンが、働き手となっていく必要があります。
2016年は、そのための年にしたいというのが、ここしばらく感じている事なのです。

3. 収穫の主
そしてもう一つ大切な事があります。
それは、収穫の主は、神様なのだという事です。

イエス様は、別の時にこのようなたとえ話をしています。

マルコ4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

私たちは種を蒔き、それぞれ自分の働きをします。
でも、その種を成長させ、実を付けさせるのは、私たちではなく、神様です。

私たちにとってこの言葉は、ある意味では大きな慰めとなる言葉です。
私たちは、誰かに伝道した結果、その人が信仰を受け入れなかったとしても、自分を責めたり、落ち込む必要はありません。
逆に言うと、私たちが伝道した事を通して、誰かがクリスチャンになったとしても、自分を誇れないという事でもあります。
その人がイエス様を受け入れてクリスチャンとなるかどうかは、私たちの努力の結果ではなく、その人自身の意志と、神様の働きに他ならないからです。

私たちに必要なのは、イエス様とともに歩み、神様の導きに従って行動することです。
私たちが、「その人に福音を伝えなさい」という神様の声に勇気を持って従い、福音を伝える事ができたなら、その人が信仰を持つかどうかに関わらず成功です。
蒔かれた種はその人の内で、時間をかけて成長していくかもしれません。
成長せずに枯れてしまう事もあります。
でもその体験が肥やしとなり、次の種が芽吹くための力になるかもしれません。
私たちはただ、その人を覚えて祈り、神様の導きに従って福音を伝え続ければいいのです。

私たちは、いつでも神様に従い、働き手として歩んでいきましょう。
実りは多いという約束を信じて、どこまでも進んで行きましょう。
この2016年、私たちがたくさんの実を刈り取り、さらに用いられていきますように、心からお入りします。

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