ルカ9:23-26 『 ルカ38 自分の十字架を背負う 』 2015/11/08 松田健太郎牧師

ルカの福音書9:23~26
9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
9:25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
9:26 もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

今日のメッセージは、先週からの続きです。
先週のメッセージで、人生を左右するふたつの選択、決断についてお話をする約束していましたね。
ひとつ目の選択は、私たちがイエス様を受け入れるかどうかという選択でした。
「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」とペテロが信仰告白をしたように、イエス様を救い主として信じ、受け入れるかどうかという選択。
イエス様を神様からの救い主として受け入れないなら、私たちは元々歩んでいた滅びへと向かう道を進み続ける事になります。
でも私たちが、神様から離れていたという自分自身の罪を認め、イエス様を救い主として受け入れるなら、私たちは救いを手にする事ができるのです。

皆さんはどのような選択をされましたか?
皆さんにとってイエス様とは、誰でしょう?
世の中の多くの人々が言うように、キリスト教という単なる宗教の創始者でしょうか?
それとも、あなた個人にとって、神様からの救い主なるお方でしょうか?
それは、皆さんの永遠の時に関わる、とても重大な決断です。
皆さんが、良い選択をされている事を、心から祈ります。

そんなわけで今日は、二つ目の選択です。
それは、どんな選択でしょうか?

① イエス様についていく
ふたつの目の選択は、イエス様の次の言葉の中に表わされています。

9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

私たちの人生を左右する二つ目の選択とは、私たちがイエス様について行くかどうかという選択です。
イエス様について行くというのは、イエス様と一緒に人生を生きていくという事です。

本当の事を言うと、イエス様を救い主として受け入れるという最初の選択と、イエス様とともに生きていくという2つ目の選択は、本来一つのものであるはずなんです。
イエス様を救い主としたなら、私たちはイエス様とともに生きるはずだし、そうあるべきでしょう。
でも今回、このふたつを別々の選択として分けたのは、多くのクリスチャンが最初の決断で止まってしまっているという現実があるからです。

最初の決断だけをして、2つめの選択はしないという結果どういう事が起こってしまうかと言うと、せっかくイエス様を救い主として受け入れたのに、その生き方が何も変わらないという事になるのです。
誤解がないように言っておきますが、「クリスチャンになったのにクリスチャンらしい正しい生き方をしていない」という事が言いたいわけではありません。
せっかくクリスチャンになったのに、クリスチャンとしての本当の喜びを知らないまま今までと変わらない生き方をしてしまっているという話しです。
永遠のいのちは手にしているけれど、天国に行くまではその祝福に預かる事ができない。
残念な事に、そのように信じている多くのクリスチャンと出会いますが、「天の御国は今、あなたとともにある」とイエス様は言っています。
天の御国はもう始まっているのに、それに気が付かないのは、すごく残念な事だと思いませんか?

天の御国、神の国とは、神様の支配がある場所の事です。
私たちがイエス様とともに歩むなら、そこには神様の支配があり、天の御国があります。
私たちは、生きている内から天の御国を体験する事ができるのです。

② 自分を捨て、自分の十字架を背負う
さてそれでは、私たちはどうすればイエス様について行く事ができるのでしょうか?
イエス様について行きたいけど、どうすればいいのかわからない。
イエス様と共に歩んでいるつもりだけど、どうもうまくいかないという事が多いのです。

私たちがイエス様とともに生きるためには、「自分を捨て、日々自分の十字架を負う」必要があると、イエス様は言います。
自分の十字架を背負うとはどういう事でしょうか?
一般的には、何か生涯つきまとうような苦しみや問題、障害を抱えてしまった時などに、「彼は重い十字架を背負う事になった」と言ったりもします。
でもこれは、自分をいじめ、痛めつけ、自己否定するという意味の言葉ではありません。
自分にとって楽しみを我慢し、嫌な事、苦しい事をするほどに神様は喜ばれると勘違いしているクリスチャンの方は、決して少なくはないんです。
でも、神様はそんなサディスティックな方ではありません。

十字架と言えば、何でしょう?
私たちにはすぐにピンとくるものがありますね。
そう、イエス様の十字架です。
私たちは、神様に背いた罪のゆえに、関係が破壊され、滅びの道を歩んでいました。
その私たちの罪を贖い、神様との関係を回復する道をひらいて下さったのがイエス様の十字架です。
イエス様が十字架にかかって命を投げ出して下さることによって、私たちには救いを手にする事ができるようになったのです。

もちろんこれは、イエス様と同じように私たちも十字架にかかる必要があるという意味ではありません。
私たちを救うためにイエス様が犠牲となって下さったのですから、私たちが文字通り十字架に架けられて死ぬ必要はありません。
しかし、イエス様が十字架で命を捨てて私たちを救って下さったのに習って、私たちも古い自分を十字架に付けて、古い自分に死ぬ必要があるのです。

これまでの私たちは、神様から離れていて、本当に正しい事がどういう事かもわからないまま、罪によって支配されているような状態でした。
でも今は、神様がなすべき事を教えて下さいます。
だから私たちは、罪の原理によって生きる古い自分に死んで、新しい命によって生きる必要があるのです。

パウロはこういっています。

ローマ 6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

これによって私たちは、もう罪の束縛から解放されて、奴隷ではなくなります。
イエス様とともに歩むことは、私たちがもっと解放されて、自由になる事なのです。

③ 自我に死ぬ
自分を捨て、十字架を背負うという事には、もう一つの意味があります。
それは、私たちが自我に死ぬという事です。
自分の思いや価値観、考え方を十字架つに付けて、イエス様にだけ従うのです。

イエス様とともに歩むなら、イエス様は私たちに「罪から離れる」という事だけでなく、積極的な行動を促す事もあります。
それは、誰かを赦すという事であったり、助ける事であったり、伝道することを命じられるかもしれません。
その時に私たちが、自分の好き嫌いや気分で従うかどうかを決めていたら、最初から自分だけで歩んでいるのと何も変りません。
結局は、変わることより、今までと同じ状態である方が楽なのですから。

しかし、イエス様は、こう言っています。

9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

これは、救いに関しての言葉でもありますが、私たちが古い自分に死ぬ事も表されている言葉です。
私たちが古い自分を十字架に付ける事なく、自我に執着し続けるなら、私たちは決して新しい命に生き、そこにある喜びを体験する事もありません。
私たちがイエス様について行こうと思うなら、私たちは自分がしたいと思う事、あるいはしたくないという思いを置いて、イエス様に従う必要があるのです。

でも、誤解しないでいただきたいのですが、これは自分で考えるのを止めてロボットのようになるという事ではありません。
神様は私たちをロボットとして創ったのではなく、自由意志を持つものとして創ったのですから。
私たちは、主体性を持って、自分の意志で導きに従う必要があるのです。

私たちがイエス様とともに歩み始めると、小さな選択をする様々な場面に遭遇します。
私たちはそこで、これまでと同じ自分の道を選ぶか、イエス様の導きに従う道を選ぶか選択をするのです。
イエス様の導きは、多くの場合私たちの思いと違うのです。

イエス様を救い主として信じている私たちが、イエス様の導きに従わず自分の道を選んだからと言って、イエス様が怒り狂って罰を与えるという事はありません。
ただ、神様の御業を体験する事も、神様が与えようとしている祝福を経験する事もないでしょう。
そして、今までと変わらない状況が目の前に広がっていくだけです。

私たちは、選択の場面で主の道を選ぶ事を躊躇すると思います。
それは、これまでの私たちが選んできたやり方、これまでしてきた行動とは全然違うからです。
でも、その先に素晴らしいものがあるからこそ、イエス様はその道を進みなさいと言っているのです。
そして、その道を自分の意志で歩むことができるように、自立して欲しいと願っているのです。

さて、こうして2週にわたって、ふたつの選択と決断についてお話してきました。
救いを受けて、永遠のいのちの中に入る最初の決断。
そして、主とともに生きる祝福を手にするために、古い自分を十字架につけて、イエス様に従う生き方を始めるという二つの決断です。
この決断が、私たちの人生を変え、永遠の時にさえ影響を与えます。
神様は、その決断をするように、今日皆さんを導いておられます。
今日こそ、その決断をしようではありませんか?

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